「何か大事なことを忘れてる気がする」
明朝三時。私はいつも必ずその時間に目覚めるよう出来ている。
これで5110回目の起床。都合13年以上。
「んん……」
体を起こす──起こそうとする。が、首ったけに抱き着く女のおかげで身動きがうまく取れなかった。寝るまでは隣に枕を並べていたはずの幼馴染、アルがローロの体を抱き枕にすやすやと寝息を立てていた。
メフト、ティアレス、ローロ、アルの四人で眠ろうと提案したのはアル本人だ。メフトからの疑惑を晴らすための提案だったのだが、アルの両親が使っていた寝室でシングルベッド二つを動かし一つのベッドにしたあたりからだんだん楽しくなってきたらしい。眠る直前までアルははしゃぎ切っていた。
「……」
首を巡らせる。抱き着くアルを起こさないように、そっと。
ベッドの隅の方ではメフトが背を丸めていた。ティアレスはメフトとローロらに挟まれる形で、その凛とした横顔に穏やかなものを見せる。普段から野営地で野宿ばかりしているせいか柔らかいベッドの感覚が落ち着かないと言っていたが、10日の旅で疲れていたのかもしれない。
誰もが思い思いに眠っている。ローロはゆっくりと、時間をかけてアルの抱擁を解いた。
・──『髪を梳いて』『編み物して』『いつもの日課!』
ローロ・ワンが毎朝3時というかなり早い時間に目覚めるよう設定されているのは、一年前までは250cmにも及んだ長すぎる髪を手入れするのに相当な時間がかかったからだ。【質量転換】によって背中の中ほど程度の長さになった今でも、丁寧な手入れを朝と風呂上りと寝る前に欠かさず行っているが、以前ほどは時間が掛からないようになっている。
物音ひとつ立てずに寝室を出、リビングにて。
灯りもない中でローロは自身の髪を梳いていく。暗がりの中でも煌々とした艶めきで輝く、亜麻色の髪を。
「…………」
毛先を少し摘まんで、メフトによって整えられた箇所をぼんやりと眺める。彼女の手指が髪をすり抜けていく感触を思い出す。
私の主君が染めてくれたのだ。私の主君が切ってくれた。
母親の言いつけを──『決して髪を切ってはいけない』という遺言を破ることになっても、あれは価値のある時間だった。
どこかうっとりとした表情で髪の手入れを終えたローロは、折り畳み式ブラシをしまいつつ今度は極めて少ない量の魔力を放出する。
魔力を精緻な操作精度で編み込んだ魔力糸による、編み物の代替だ。
「今度、街でまた毛糸を買ってもらおう」
独り言をしつつ編み上げていくのは、物質としての顕現を果たしていない状態でも分かるほど明確な形質をしたマフラーだった。
もうすぐ夏が来る。夏が終わればすぐ秋で、その後にまた冬だ。去年は丈夫な手袋を人数分作った。皆おおいに喜んでくれた。今年はティアレスのためにセーターなりマフラーなりを編めば彼女は喜んでくれるだろうか。アルも、……メフトも。
ぼんやりとした考え事と共に30分ほど編み物を繰り返したローロは、ふいに集中力が途切れるのを自覚した。顔を上げ窓の先を見やる──まだ空は黒く、陽光の白い輝くは現れない。まだ5時にもなっていないのだ。
勿論メフト達が起きてくるには早くともあと2時間かは掛かるだろう。
「……散歩でもしよう」
そう思い立ち、『散歩にいっています』と書置きを残したローロは玄関で靴を履く。扉を開けると昨日から続いている雨が未だに降っていたので傘も持っていくことにした。
『しとしと』、『ざあざあ』。
雨音だけの世界をゆっくりと歩いた。
曇天が覆う空は暗く、今日は一日どんよりとした天気になるかもしれない。
辺りに広がるのは夜闇だけだ。夜目の効き始めたローロの足取りに恐怖はなかったし、それ抜きでも不思議と怖くは感じなかった。
夜の闇は味方だった。主君たるメフトが闇を引き連れる魔王だから。私は彼女の騎士だから。
「……」
気付けば目の前に屋敷があった。雨で濡れる、割れた石畳の道。土だけが広がる庭は泥のたまり場になっている。壁も、そこに絡みつくつる草も、絶え間なく振り続ける雨に晒され異様な艶をもってローロを出迎えている。
陽が昇れば、また来ることになる屋敷だ。ここに、手紙曰く『処理に困る母親の遺品』があるのだから。それをきっと四人で探すことになる。……そう、四人で。
ローロはどうしてか一人で屋敷の中を歩きたかった。
玄関扉は開いていた。
◇
廃墟の中をゆっくりと歩く。外よりも遥かに暗い屋敷の中を、腐った木板を踏み抜かないように注意しながらローロは歩いた。
廊下を歩いていると、懐かしい声音を耳奥で聴いた。
『ローロぉ! どこ! どこなのー?』
舌足らずな声音。小さな体。柔らかな栗毛に、翡翠にも似た濃い青の瞳は垂れ気味に丸っこい。
幼少のアルが廊下の奥、曲がり角からこちらへと駆け寄ってきて──穴の開いた木板をそのまま踏みしめ、ローロを通り過ぎていく。
ああやって幼い頃のアルはこの屋敷で遊ぶことが好きだった。よくやったのはかくれんぼで、いつもローロが隠れる側。アルはローロを探す天才で、すぐ見つかってしまう。……懐かしいなあ。
暗闇の中だからか、余計に過去の思い出が幻影となって姿を現す気さえした。
『マギアニクスおばさまのためにおりょうりするの?』
『うん。なにつくればいいと思う?』
『えっとねえ……やさい! やさいとお肉たべたい!』
『アルがたべたいだけだよね』
基本的に放任主義だったマギアニクス・ファウストのおかげで、幼い頃の二人にとって広い屋敷の中は全てが遊び場になった。台所で料理をするのもそう、屋敷中を使った鬼ごっこもそう、庭で土で盛った城を作るのも、花を植えてみるのも、──地下の食糧庫を探検するのも。
地下の食糧庫。思い出すのは自ら切り落とした左手の薬指だ。料理をしようという話になって、台所になかった野菜が必要だったから食糧庫へ向かったのだ。五歳のローロにとって丸々一個のキャベツというのは大きすぎたから小さく分ける必要があった。だが手元に刃物はなかったし、さすがにマギアニクス・ファウストとて幼子が簡単に刃物を触れるようにはしていなかった。
だから、ローロは自然な思い付きで【切断】魔法を発動して──位置精度が狂っていた魔法は、あっけなくローロ・ワンの薬指を切り落とした。痛みで泣き叫べばすぐアルが駆けつけてきて、アルは必死に私の切り落とされた小指を治そうとしてくれて。
思い出す。
あの時初めてアル・ルールは魔法を使った。
『へえ……アルちゃんあなた、治癒系魔法が得意なのねえ。これはとんだ拾い物になったわねえ』
そして、叫び声に何事かとやって来たマギアニクス・ファウストに、その治癒系魔法における天賦の才を見出されて。
目の前に、地下室へと続く階段があった。
切り出した石を組み合わせて作られた伝統的な階段。灯りがなければ濃密な闇だけが階下を浸し、それだけで人の侵入を拒む。
ここだ。
1907年のある日。この奥で私は指を切り落とし、アルが魔法で指を復元し、マギアニクス・ファウストはアル・ルールに向けて
それで。
死んだ。
死んだ?
うん。死んだ。……あれ、でも、どうやって死んだっけ。
「何か大事なことを忘れてる気がする」
私は、ここで、ここで──。
◇
──・条件は未達であるため、侵入は不可能である
◇
「──あれ? 何してたんだろ」
いつの間にか、屋敷の外に立っていた。広げた傘の下でぼんやりと立ち尽くしていることに小さな疑問を覚えたが、
自分も長旅で疲労がたまっているのだろう。ぼんやりと歩くなんて危ないことだ。いけないいけない。
気を引き締め直したローロは、散歩を切り上げてアルの家へと戻ろうと、足の向きをそちらへ変えて。
街路の奥から、見知った黒髪の持ち主の姿を認めた。
「──メフトさま?」
つい言葉に出して、しかし気付けばローロは街路の外れにあった茂みの奥へと姿を隠してしまった。幸いまだ日は上っておらず辺りは暗い。そのためか夜目の効いていたローロと違い、外に出たばかりのメフトはこちらに気付いていない様子だ。
何故……今、隠れようとしたのだろう。
自分でも理解できない衝動に、咄嗟の行いに、しかしローロは息を潜めることしか出来ない。真っすぐに街路を歩くメフトの行き先が何となく予想できてしまったからだろうか。
そしてローロが見つめる中、メフトは静かに屋敷の中へと入っていった。そう、ローロとその母マギアニクス・ファウストが暮らしていた廃墟に。
「……」
茂みから出て、何を感じればいいのかも分からないままローロはメフトの後を追った。
呼吸をする以上の思考は発生していなかったし、足音を徹底的に殺して彼女の後姿を探す行いに『なぜ?』と問いかけることも出来なかった。
何故──メフトを尾行しているのだろう。
何故──メフトは一人黙って屋敷に向かったのだろう。
何故──メフトは一切迷うことなく屋敷の中を歩いて、真っすぐに母が使っていた書斎へ入っていった?
「……」
書斎唯一の扉を、ローロは静かに、極々僅かだけ開けた。室内で何やら物色しているらしいメフトはおかげでか扉の隙間から伺い見るローロの存在に気付いていない。
彼女は、書斎に置かれた大きな机と椅子をゆっくりと指先で撫でている。暗がりの中でもどこに何があるのか把握しているように彼女の動きに迷いは無い。
「何年経っても、たいして変わってないのね」
ぽつりと呟いて、次いで聞こえてきたのはくすりとメフトが漏らした小さな小さな笑い声だった。
その、机へと向かう視線。横顔。仕草。
「あなたはあれからもずっとここで本ばかり読んでいたの?」
──ああそうか。
メフトは五年以上前の時点でマギアニクス・ファウストの名を知っていたらしい。であれば当然、この屋敷のことも、そこで暮らしていたマギアニクス・ファウストとも旧知の間柄だったに違いないのだ。
でなければあのような愛情で満ちた横顔をメフトがするものか。
「……」
音を立てずに書斎の扉から離れ、そのまま屋敷さえも抜け出た。庭を出た辺りでローロは耐え切れなくなって街路を小走りに駆けだした。アルの家とは反対方向に。ひたすらに。
見たくなかった。
思い出したくなかった。
メフトが、自分以外にあんな素敵な表情が出来るという事実を。
きっと。間違いなく嫉妬していたのだ。
母の残滓に愛情を浮かべてみせたメフトを見て──自身の母に。
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