第32話 初めての

「――ノクス」


 なんとなく、ここにいるような気がした。

 塔の上の丸い空間、その中でも一番端に立ったノクスは、無言で風が長い髪を乱すに任せている。返事がないことは気にせず、ヴィオラはその一歩後ろに立った。

 黙って、取り出した淡い紫色の袋を背中に向かって投げつける。


 後ろを振り返ることもなくそれを受け取ったノクスの手の内から、かさかさと袋を開く音がした。


「おやつ。砂糖漬けリンゴを乾燥させたの。……ワインを加えてみたの、試作品よ。まだ、誰も食べたことないわ」

「……」


 それ以来、袋を触る音はしない。

 それを口に運ぶこともせず、ただ立ち尽くしているだけのノクスに、ヴィオラは小さく溜め息をついた。


「ねえノクス。黙っていたら分からないわ」

「……」

「私も、知る必要のないこと?」

「ああ」


 短い一言は、紛れもない拒絶だった。

 ざわりと木々が揺れる。ノクスの隣で舞い上がった葉が、ぱちんと弾けた。


「嘘ばっかり」

「……」

「そうやって拒んでばっかりで、でも本当は誰かに聞いてほしいんでしょ?」


 こつこつと足音を立てて歩み寄ったヴィオラは、その背中に黙って頭をつけた。

 後ろから抱きしめるように手を回しても、ノクスは何も言おうとしない。伸ばした手が、砂糖漬けの袋に触れた。


「ご飯はみんなで食べたほうが美味しい。ひとりは寂しい。……お願い、拒まないで」


 声が震えた。抑えきれなかった涙が頬を伝って、ノクスの背中へと染み込んでいく。


「ノクスまで、私を拒絶しないで。話を聞かせて。私をひとりにしないで。勝手にひとりにならないで」

 

 お願い、と呟いた言葉は、ほとんど声にならなかった。

 ノクスが小さく息をつく音がした。ノクスの腰へと回した手が、包み込むように触れられる。

 最初は躊躇いがちだった触れ方は、次第に確かめるようなものに変わっていった。強くヴィオラの手を握りしめて、ノクスは掠れた声で口を開いた。


「――お前は俺に、家族は、と聞いたが。答えよう、俺は人間と魔族の間に生まれた」


 普段から纏っている、圧倒的な強さを脱ぎ捨てたような声だった。


「父親は現国王。当時は王太子だった。母親は魔族の女で、好奇心の塊、したいと思ったことは気がついたらしているような性格だった。……お前と同じだな」


 小さな笑いをこぼして、ノクスは続ける。


「魔族であることを隠して人間の国に入った俺の母に、王太子は恋に落ちた。母が王太子を愛していたかは知らないが、2人は結婚し、子も授かった。それが俺だ」


 握られた手から伝わる震えに、ヴィオラはノクスを抱く腕に力を込める。


「聞いたことがあるだろう? 現国王の前妃。結婚後まもなく死んだとされているが、本当は違う。あの人は王城から逃げ出した。……命の危険を、感じたために」


 ノクスの指先が、するりと頭の角を撫でた。


「生まれた子は、明らかに魔族の特徴を有していた。そして王太子は、最愛の妻の正体を知った。そして、殺そうとした。隠蔽のためにな。王妃が魔族だなんて一大事だ、その息子に魔族の血が流れているなど許されるわけもない。保身だ、あの男は最初から最後までそうだ。……おい泣くな」


 ヴィオラは首を振った。溢れる涙が止まらない。

 どれだけ、どれだけのものを目の前の人は抱えてきたのか。人間でないノクスを王は決して受け入れなかった。魔族でないノクスは、実力主義の世界の中で、魔族でないことを隠し続けなければならなかった。

 

 人間でもない。魔族でもない。

 2つの種族が争う世界で、どちらにも属せなかったノクスは、今まで何を思って生きてきたのだろうか。


「全く」


 ため息をついたノクスが、しがみつくヴィオラの腕を剥がす。ヴィオラの方へと向き直り、ヴィオラの身体を抱きしめ返したノクスは、ヴィオラの頭に手を乗せる。


「この俺に慰めさせるとはな」

「ごめん、なさい」


 呆れたような声色だけれど、その手つきはとても優しい。

 緩やかにヴィオラの頭を撫でながら、ノクスは続けた。


「そういうことだ。偽の勇者を立ててでも俺を殺したがっているのも保身だろう。過去の過ち――魔族の女に騙されて結婚した挙句子まで設けた、過ちを消したがっている。人間だ魔族だ、最初からそんな壮大な話ではなかったというわけだ」

「ノ、クス」


 啜り泣きながら口にしたヴィオラに、ノクスは苦笑する。

 

「泣くな、過ぎた話だ」

「ひとりになってしまったから、」


 切れ切れのヴィオラの言葉を、ノクスは根気強く待ってくれる。

 

「ひとりでも平気だって自分の心に嘘をつくのは、やめてよ」

「……」

「ねえノクス」


 泣きながら、ヴィオラはノクスの頭に手を伸ばした。

 その少し冷たい頬に手を寄せて、するりと撫でると頭ごと胸元に抱き込む。

 

「ひとりでも平気な人なんて、いないよ」


 腕の中の頭が、小さく震えた。艶やかな黒い髪に頬をつけるようにして、ヴィオラは囁く。


「私には、寂しいって言ってほしい」

「……ああ」


 短い呟きに、ヴィオラの頬を涙が伝った。わずかに胸元が湿るのを、同時に感じた。

 腕の中のこの人を、どうしようもなく愛おしく思った。


 力の抜けたノクスの手から、小さな袋がこぼれ落ちる。

 ぱっとノクスの頭から手を離し、ヴィオラは咄嗟にそれを受け止めた。顔を上げたノクスの真紅の目が、ヴィオラの視線と絡む。


 震える手で砂糖漬けを取り出したヴィオラは、自分の口元へと押し込む。

 そして、背を伸ばしてノクスの頭を引き寄せると、そっと口付けた。


 大きく見開かれた赤い目を、睫毛が触れ合いそうな近くで見る。

 初めての心からの口付けは、微かにワインの香る、大人の甘さがした。


「ねえ、ノクス?」


 促すように首を傾けたヴィオラに、ノクスはその頬を包み込んで微笑む。


「……美味い」


 ぱさ、と小さな音を立てて地面に落ちた淡い紫色は、もう目に入らなかった。

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