第16話 始まりの終わり

 勇者率いる一軍が、魔王城内に侵入した。


 その知らせを聞いた時、不思議とヴィオラの心は動かなかった。

 ただ、来るべき時が来たと、そう思っただけだ。


 ――お前の言う勇者が魔王城へ訪れたら、俺を庇って死ね。名誉なことだろう?


 ヴィオラは部屋を飛び出した。ざわめく廊下を走り抜け、人の流れに逆らって、混乱の中心へと向かう。

 ヴィオラは、そこに魔王がいると確信していた。元々偉そうな男ではあるが、配下だけを戦わせて自分はいつまでも城内にこもっているような男でも、最大の敵を前にしてその姿を確認もしないような男でもない。


「ヴィオラさん!」

「ヴィオラ!!!!」


 2つの声に、ヴィオラは辺りを見渡した。だが、誰の姿もない。


「上です、上!」


 ぱっと上を見上げれば、2人の男が、その翼を大きく広げていた。

 イグナーツは鮮やかな赤。燃えるようなそれは悠々と空をきり、一度羽ばたくごとにかすかに火花が散る。

 アルノルトは硬質な銀。鋭く尖った羽の先が壁をかすかに擦り、細く鋭い傷跡を残す。


「アルノルト! イグナーツ!」

「戻れ女!! なぜ出てきた!!!」

「レオン……勇者の顔を知っているのは私だけよ! 侵入者は、誰が勇者か、分からないようにしてきているでしょう?」

「ええ。ですがやることは変わりません。片端から殺すまでです」

「そうしている間に、レオンがノクスに接近したら手遅れなのよ!」

「……ヴィオラさん」


 的確に空気を切って高度を下げたアルノルトが、ヴィオラをじっと見つめ返す。


「貴女は、なぜそんなに魔王様の身を案じるのです」

「……」

「ここで魔王様が勇者に殺されれば、貴女は家に帰れるんですよ」

「アルノルト貴様!!!」

「イグナーツ、黙っていなさい」


 心の奥底まで見通そうとするようなアルノルトの瞳に、ヴィオラはぐっと視線を下げる。そのまま、絞り出すように呟く。


「……そういう取引だったでしょ。それに」


 顔を上げたヴィオラは、同じく高度を下げてきたイグナーツと、アルノルトを見つめ返す。


「あなたたちだってどうして私を心配するのよ。魔王様の方が大事でしょ?」

「……」

「魔王様のところに案内して。同じ人間でも、正規軍の人は私の顔なんて把握してない。魔王様のところに辿り着くまでに私が殺されたら、意味ないもの」

「……分かった」


 口を開いたのはイグナーツだった。ばさりと羽を動かしたイグナーツは、ヴィオラへと襲いかかってくる男を黙って見つめ返す。

 それだけで動けなくなった男からヴィオラへと視線を戻し、もう一度高度を上げる。


「ついてこい」

「イグナーツ!」

「アルノルト、僕たちは何だ?」

「……魔王様の、側近です」

「分かっているなら、急げ!!」


 そこから先は、一瞬だった。

 上から降ってくる炎や氷が、いとも容易くヴィオラの前に道を作る。

 走って走って、次第に喧騒が近づいてくる。廊下の角を一気に曲がり、バルコニーにたどり着いたとき、ヴィオラは階下に対峙する2人の姿を捉えた。


 片方は黒髪。長い髪を靡かせて、感情のこもらぬ目で抜き身の剣を握っている。戦闘の構えを取ることもなく、ただそこに立っているだけだ。

 もう片方は金髪。さらさらと揺れる髪に縁取られた顔は伏せられているが、油断なく剣を握る構えは真剣そのもの。


 向かい合う魔王と勇者の姿に、ヴィオラは全てが手遅れだったことを悟った。

 

 しかし、よく見れば、勇者――レオンの様子はヴィオラの知る彼とは違っていた。自暴自棄、とでもいうのだろうか。一瞬上げられた青い目は、ひどく澱んでいるように見える。


「……レオン?」


 戸惑いに、思わずと言ったふうに漏れたヴィオラの声を、レオンは、正しく聞き取ったようだった。

 弾かれたようにその顔が上がり、階段を登った先のバルコニーに立つヴィオラの姿を捉える。その瞬間、秀麗な顔が泣き出しそうに歪んだ。


「……っヴィオラ」


 振り絞るような声で告げたレオンは、目の前に立つ魔王の存在すらも目に入らないというように、ヴィオラに向かって叫ぶ。


「助けに来た!」

「え?」

「君を助けに来たんだ。一緒に帰っ――!?」


 咄嗟にレオンが体を逸らす。そのぎりぎり上を、冷たい剣先が通り過ぎた。


「なるほど、俺を前にして気を散らすくらいには、勇者様は余裕があるらしい」

「ノクス!」

「ヴィオラ。殺さないで、とでも言うつもりか?」


 初めて呼ばれた自分の名に、一瞬ヴィオラの動きが止まる。それを勘違いしたのか、ノクスは吐き捨てるように口にした。空気にぴりりとした棘が混ざる。


「お前の覚悟も、その程度か。噓も方便だ、全く生きる道を心得ていらっしゃる」

「違うわ。初めて名前を呼ばれたから」

「名前?」

「ヴィオラって。そう言ったでしょう?」

「……ああ」


 今初めて気がついた、と言うようにノクスは返事をする。

 2人のやりとりを呆然と眺めていたレオンは、勢いよく一歩を踏み出した。


「ヴィオラ! どうなってるの、君と魔王との関係は!」


 レオンの問いに、咄嗟にヴィオラは答えられなかった。

 盾、と答えれば良い。その後でここでレオンに向かって飛び出せば、きっとレオンはヴィオラを守ってくれる。死ぬ気で逃がそうとしてくれるだろうし、そうしたらヴィオラは人間の住む国に帰れるかもしれない。

 正義感が強くて、人を思うことをやめられない。レオンはそういう人間だから。


 それでもヴィオラの足は動かなかった。ヴィオラ、と初めて呼ばれた名前が、ヴィオラをその場に縫い付けていた。


「ヴィオラ! 君は騙されているんだよ、そうだよね!?」

「ごめんレオン」


 ゆっくりとバルコニーから降りるヴィオラに、2つの視線が突き刺さる。


「私にはここが、そんなにひどい場所とは思えないの。それどころか――」


 ノクスの隣に立って、ヴィオラは笑った。


「私にとっては、ここのご飯が一番美味しい」

「ヴィオラ!?」


 レオンの表情が、絶望に変わった。しかしそれも、すぐに湧き上がる激しい感情に歪む。


「君は騙されてる! 何か術をかけられてるんだ! 今の君はおかしい……!」


 ゆらり、とレオンが一歩を踏み出した。銀色に冷たく光る剣先を地面に擦るようにしながら、よろよろとヴィオラの元へと向かってくる。

 まるで戦意の感じられない姿に、ヴィオラは目を瞬かせる。よろけるようにしてヴィオラの近くまで歩いてきたレオンは、何かを言おうとするかのように小さく息を吸った。

 ヴィオラをまっすぐに見つめた目の奥で、強烈な光が迸った。


 その光を見た瞬間、ヴィオラは一歩踏み出していた。

 迷うことなく駆け出しながら、ヴィオラは呟いた。


「ノクス。私はちゃんと、覚悟してたわよ」


 その言葉に、驚いたようにノクスがヴィオラを見つめる。一瞬訳がわからないと言うように細められた目が、一気に見開かれた。剣を握っていない方の手が、強くヴィオラの手を掴もうとした。

 けれどそれは、遅すぎた。


 レオンは見た。

 真っ直ぐに魔王を狙ったはずの剣撃。予備動作は0、だが全身全霊を込めたそれが、もはや制御不能な領域に突入した時、魔王と剣との間に滑り込んできた小柄な人影を。


 ヴィオラは見た。

 光る剣先が、過たず自らの胸へと吸い込まれる瞬間を。仰け反った身体から噴き上がる鮮血が、後ろに立つ美しい男の頬を転々と染めた光景を。


 ノクスは見た。

 鬱陶しくて堪らないが、無視できなかった女が、自分を庇ってその儚い身に剣を受けた瞬間を。腕の中に崩れ落ちてくる女の、柔らかい微笑みを浮かべた血の気のない顔を。


 咄嗟に抱きしめた女の身体は、空気かと間違うくらいには軽かった。

 鮮血と共に流れ出ていく命に、背筋が凍りつくような恐怖を覚えた。


 世界が遠くなる。熱いはずの身体に、冷たい汗が流れる。水の中にいるのかと思うほどに息苦しい、真っ白な世界の中で、ノクスは吠えた。


 地面が揺れる。窓が割れ、花瓶が砕け散る。崩落した天井が山となって降り積もり、土埃が全ての視界を奪う。

 何も見えない世界の中で、ただ腕の中の微かな温かさだけが鮮明だった。


 ヴィオラ、とノクスは掠れた声で呼びかけた。


 足が震え、力の抜けた身体が崩れ落ちる。埃を浴びて真っ白になった髪が、一筋ヴィオラの頬へと垂れた。

 それを追うように落ちた水滴が、髪の上を滑る。艶やかな黒髪が覗くようになったそこを見て、綺麗だ、と言われたことを思い出した。

 俯いた拍子に、胸元から小さな袋がこぼれ落ちた。淡い紫色が、じわじわと赤く蝕まれていくのを見た。


「ヴィオラ」


 かろうじて残っている、けれど少しずつ遠のいていく体温へと、唇を寄せる。


「――美味い、から」


 頼む、と縋るような呻きに、答えは返ってこない。

 



 


 そして、5年が経った。


「――遅い」

 

 ヴィオラの寝台の横に据えられた簡素な椅子に座った男は、その視線をヴィオラから逸らしながら、長い髪を窓からの風に遊ばせていた。

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