第二章 魔王の最愛

第17話 豹変

 手入れもされず伸び放題になっていた畑の植物たちを眺めて、ヴィオラは溜め息をついた。


 

 5年前、ヴィオラはノクスを庇って死んだ。はずが、どうやらノクスがヴィオラを5年もかけて蘇生したらしい。

 にわかには信じがたい話だが、こうして生きているのだから間違いなく本当なのだろう。


「女!!!!」

「あ、イグナーツ、久しぶり」

「――っ女!!!!」

「相変わらずうるさいわね」

 

 聞き慣れた大声に、ヴィオラはくるりと振り返る。その目が、凄まじい形相でヴィオラの元へ走ってくるイグナーツの姿を捉えた。

 ヴィオラの声が届くところまでイグナーツが迫ったところで、ヴィオラは思い出した、と両手を叩く。


「そうだイグナーツ。シャロン油の予備ってどこかにあったかしら。この辺のシャロン、もう全部使えそうになくて――って急に何!?」


 体当たりするような勢いでヴィオラへと突っ込んできたイグナーツは、足を止めるとじろじろとヴィオラを眺める。


「生きてる」

「何よ、失礼ね。死にかけたことはあっても死んだことはないわ」

「生きてるぞ!!」

「だからうるさい。イグナーツ、あなた自分の声の大きさを分かってる?」


 鼓膜が破れそうな大声を耳のすぐ近くから叩きつけられ、ヴィオラは思い切り顔を顰めた。


「魔王様から貴様が目覚めたと聞いてはいたがまさか……」

「何、イグナーツがノクスを疑ったの? 天変地異の前触れ?」

「違う!!!!」

「だからうるさいわよ! 病み上がりなんだから、あんまり騒がないで」

「病み上がりっ……というか貴様、動いて良いのか! 魔王様は絶対に部屋から出すなとおっしゃっていたぞ!!」

「ああ、それ、こっそり抜け出してきたの」

「女!!」

 

 だって、とヴィオラは唇を尖らせる。


「ただ寝ているって、退屈なのよ。それにイグナーツ、あなたたち」


 ぴくり、とヴィオラの口角が動いたのを見て、イグナーツはぎくりと身体を強張らせた。


「私が寝ている間、まともに料理しなかったでしょう」

「いや、そのだな……」

「この畑、食材たちは元気いっぱいなのに、調味料や油の類の植物は全滅。使っていないの、私に分からないと思った?」

「レイズの花は手入れしてあるだろう!」

「ええ、確かに」

「魔王様御自ら世話してくださったんだぞ! それで満足しろ! そして魔王様に感謝しろ!」


 あの男が、自ら世話?

 いつものように不機嫌そうな表情のノクスが、その手に不釣り合いなじょうろを握りしめているところを想像して、ヴィオラは思わず吹き出しそうになる。

 

「何がおかしい!」

「いいえ。けど、レイズの花だけでしょ?」

「……」


 沈黙したイグナーツの姿に、ヴィオラは肩をすくめた。まずは雑草を何とかするか、と目を閉じたところで、イグナーツの大声がそれを邪魔する。


「あああ分かった、世話するから! とりあえず貴様は大人しくしていろ!」

「ええ……大丈夫よ」

「大丈夫だと!? 刺されたんだぞ貴様は! 僕の目の前で! 心臓に悪い!」

「それは、だって私は最初の取引を忠実に守っただけよ」

「だとしても魔王様に感謝しろ! そうでなければ貴様は死んでいたからな!」

「それ、不思議なのよね」


 ヴィオラが生きていることを確認するように、執拗にヴィオラに触れようとするイグナーツの指先を煩そうに避けながら、ヴィオラは独りごちる。


「もともとノクスのために残してもらった命を、ノクス自ら魔力を使ってまで助けるなんて。まあ料理長としてそれなりに優秀だったとは思っているけど、そうだとしても、ね。それに――」


 それに。

 ヴィオラが目覚めた瞬間の記憶。好き勝手にヴィオラの唇を奪い尽くした唇と、震えるほどの執着を滲ませていた真紅の瞳と。

 ヴィオラの記憶にあるあの男の姿とは、何もかもが違いすぎて。


 避けきれなかったイグナーツの指先がヴィオラの頬に触れる寸前、艶のある声が空気を揺らした。


「――ヴィオラ。お前は随分と俺を怒らせたいらしいな?」


 突然の閃光。

 何か熱いものに触れたかのようにイグナーツが手を引っ込める。ちりりと頬に焦げたような熱が走って、ヴィオラは目だけで器用に上を見上げた。

 光を遮るようにして立つ、長い黒髪の男。


「ノクス」

「ヴィオラ」


 ひんやりとした指先が伸ばされて、ヴィオラの頬へと触れた。ゆったりと、男の指が肌をなぞる。


「外出を許可した記憶はないが」

「外出にノクスの許可が必要なんて言われてないわよ」

「ほう?」


 うっすらと目を細めたノクスは、ヴィオラの耳元へと口を寄せ、囁いた。


「言ったはずだ。勝手に俺の前から消えることは許さない、と」

「それを言ったら、一日中ノクスの見えるところに居なきゃいけない、ってことになるじゃない」

「だから、そう言っているだろう」

「……本気?」

「本気も本気だ」


 信じられない、とばかりに眉を顰め、ヴィオラはノクスを見上げる。

 漆黒の髪に赤い瞳。寸分違わず整った、息を呑むような美形中の美形。

 そんな男が、蕩けそうな目でヴィオラを見下ろしている。

 

「……ノクス、目覚めたときから思っていたけど、5年の間に何があったの? 性格変わりすぎよ」

「そうか? まあ、強いていうなら」


 すう、と細められた真紅の瞳が、真っ直ぐにヴィオラを射抜く。


「一つ、悟っただけだ」

「何を?」

「さあ?」

「そこまで言って教えないとかあり? 私はなしだと思う」

 

 ヴィオラの言葉を無視し、さて、とノクスは呟く。


「上書きだ」

「……え?」

「全く、幼児並みの色気だな」

「今更ノクス相手に色気も何も――って!?」


 強引に上向かされた顔。人間よりも温度の低い息が、ヴィオラの肌の上を滑っていく。


「ノクス! ねえ、何をしてるの!」

「分かっているだろう?」

「ちょっ――!?」


 押し当てられた湿った感触。そこからぞわりとした感触が全身に広がっていく。

 例えるならば、全身を染め上げられていくような感覚。熱いようなくすぐったいような何かが、唇から肌を伝って滑り落ちていく。

 堪えきれず背筋が震えた。息ができず開いた口から、甘ったるい声が漏れた。


「――っ、ん」

「良い声だな」

「……趣味悪いわよ」

「これはまた随分なお言葉で」


 至近距離で楽しそうに笑った男は、ヴィオラの唇から口を離した。

 逃げるように逸らした視線が、顔を真っ赤に染め上げ、あわあわと両手を動かしているイグナーツの姿を捉える。それもそれで居た堪れなくて、行き場を失った視線があてもなく彷徨った。

 わけもわからず熱を持った顔をノクスに見られているのが、ひどく落ち着かない。


「同意もなくこういうことをするなんて、いくらノクスでも良くないと思うわ」

「本当に嫌だったのなら、突き飛ばせば良い」

「させないように押さえつけてたのに」

「当然だろう」


 ヴィオラは一向に悪びれた様子のない男を睨みつけた。その視線も一切意に介さず、男は両手を組んで笑う。


「だがいくら俺だって、本気で嫌がっている女の唇を奪う趣味はない」

「知ってるわ」

「そうか、お前は本気で嫌がっていなかった、と」

「……」


 ヴィオラは咄嗟に顔を伏せる。荒くなった息の中から、無理やり言葉を絞り出した。


「ノクスほどの美形に迫られたら、誰でも嫌なんて言えないわよ」

「お褒めに預かり光栄だね」

「でも前はこんなことしなかったじゃない」

「もちろん。これは立派な医療行為、だからな」

「どういうこと?」

「言っていなかったか? お前の身体はまだ不完全だ。俺の魔力なしに生きることは難しい。しばらくの間は諦めて俺に身を委ねていれば良い」

「……聞いてないわよ」


 そうか、と意外そうに男は目を見開くが、ヴィオラは騙されない。間違いなくわざと黙っていたのだろう。こうしてヴィオラを揶揄うために。


「というか、どうやって蘇生したの? 私も一応回復術士だけど、絶対に助からないと思ったわ」

「魔力を移した」

「5年も? 嘘でしょう?」

「なぜ俺が嘘をつく必要性がある?」

「だって」

「信じられないのなら、こうだ」


 ぱ、と手を上げたノクスの指先から、術式が可視化されて紡ぎ出される。

 空間にぼんやりと淡い色に光る複雑な術式を長いこと眺めて、ヴィオラは渋々頷いた。確かにこれは、ところどころ分からないところもあるが、魔力移動のための術式だ。


 でも、と言いかけてヴィオラは言葉を飲み込んだ。

 魔力といえば誰にとっても生命線だ。回復術士でもないのに、自らの魔力を他人に分け与えるなんて馬鹿げている。それも5年も。

 体内で精錬した魔力を使う魔術と違い、生のままの魔力の譲渡なんて、互いの相性もある上に非効率極まりないのに。血縁関係があるならともかく、そうでもない限り魔力の相性なんて悪い方が普通なのだ。

 そう思ったけれど、実際にそれをヴィオラにやってのけたらしい男の前には、そんな言葉は出なかった。代わりに、小さく呟いた。

 

「ありがと、ノクス」

「……なるほど」


 突然視界に美しく整った顔が滑り込んできて、ヴィオラは身を強張らせた。

 ヴィオラの顔を覗き込むように顔を傾けた男は、ふっとその顔に浮かんだ笑みを消す。暗い光が、目の奥で揺れた。


「――お前が目の前で刺された時、お前の血を浴びた時、俺がどんな思いをしたと思っている? どれだけ魔力を注いでも目覚めないお前に、何度も死の淵まで行きかけたお前に、俺がどんな思いを向けていたと?」

「それは、ごめんなさい。でも、もともとそういう話だったはずよ。感謝はするけど、私からすればノクスの方がよっぽど分からないんだけ――」

「お前が眠っていたこの5年で、悟ったことを教えようか」


 顔を覗き込んだ姿勢のまま、男がゆっくりとヴィオラの手を取る。


「本当に欲しいものは、囲い込んで誰にも触れさせないのが一番だ」


 そこに唇を寄せて、安心しろ、と囁く。


「お前が、俺なしでは生きられなくなったら、その時はやめてやるよ」

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