第15話 分からない

「ノクス!」


 駆け寄ってきたヴィオラをうるさそうに横目で見やったその男に、ヴィオラは目を輝かせて迫る。


「厨房まで来たのは初めてね、もしかして今日の夕食が気になる? 気になるのね?」


 無言のままに冷たく見下ろしてくる真紅の瞳には、もう慣れたものだ。ちょうどできたばかりのスープをさっと取り分けると、ノクスへと差し出す。


「ほら、つまみ食いとかどう! 特権よ特権、いつもより美味しく感じたりするかもしれないわ」


 相変わらず面倒臭そうな態度は崩さないが、ノクスはヴィオラから器を受け取ると一気に飲み干した。その姿を見て、ヴィオラは満面の笑みを浮かべる。


「素直じゃないんだから! 本当は食べたくてここに来たんでしょ?」

「違う」

「酷いわね」


 文句を言うヴィオラの頬へと、白い指先が触れた。

 人より冷たい体温が、探るようにヴィオラの肌をなぞる。突然の行動に、ヴィオラはぴたりと動きを止めた。ぽろり、と持っていた器がヴィオラの手から滑り落ちる。

 それが地面に当たって砕ける寸前、ヴィオラの頬から手を離したノクスがぱっとそれを捕らえた。


「おい」

「ごめんなさい。でも、え、ノクス?」


 器を無造作に平台へと乗せたノクスは、再びヴィオラへと触れようと手を伸ばす。よく分からないけれど逃げなくては、とヴィオラは慌てて下がると、イグナーツを盾にしてその背中に隠れた。


「ノ……クス?」


 放心状態らしいイグナーツは、ぶつぶつと口の中で何かを呟いている。それはそれで怖いが、どちらかというと明らかに様子のおかしいノクスの方が怖い。

 こつこつと足音を鳴らして近づいてきたノクスが、イグナーツを回り込んでヴィオラへと手を伸ばそうとしたところで、イグナーツが突然叫んだ。


「魔王様!!!!」

「……何だ」


 さすがのノクスでもこの至近距離からイグナーツの大声を聞けばうるさいらしい。嫌そうな顔ですっと距離をとったノクスに、ヴィオラは胸を撫で下ろす。イグナーツの大声が初めて役に立った。


「その、ノクス、というのは……?」

「……」


 黙って顔を逸らしたノクスに、ひょこりとイグナーツの背中から顔を出したヴィオラが嬉々として説明する。


「名前よ。魔王様の」

「そ……んな、このイグナーツ、今まで存じ上げず……」

「それはそう。だって私がつけたんだもの」

「…………は?」


 長い沈黙の後、何が何だか分からない、と言うように間抜けな声を漏らしたまま機能を停止したイグナーツに変わり、かちゃかちゃと眼鏡を忙しく鳴らしながらアルノルトが繰り返す。


「つけた? 貴女が?」

「ええ。なかなか良い名前じゃない? 魔王様っぽいし、でも怖すぎないし」

「しん、じられません」

「なんでよ」

「逆に貴女、どうしてそんな、命知らずな真似ができるのですか」


 思ったような反応を得られなかったヴィオラは、イグナーツの陰から飛び出し、ぐっとノクスの手首を掴むと自分の方へと引き寄せる。


「ほら見てよ、この冬の夜空みたいな髪の毛! 似合ってるでしょ!」

「女!!!!」


 イグナーツが悲鳴のような声を上げる。そこでようやくヴィオラは、つい思い切りノクスの腕を掴んでしまったことに気がついた。

 ぱ、と両手を離すと、ヴィオラは上目遣いに謝罪する。


「ごめんなさい。……許して?」

「わざとらしい仕草はやめろ。似合わん」

「だってノクス、怒るから」

「お前相手にこんな些細なことで怒るか。何回怒っても足りん」

「ほら、怒らないって、イグナーツ!」


 ふふん、とイグナーツに向かって胸を張ったヴィオラだったが、突然、視界が黒く染まる。

 急に何も見えなくなって、ヴィオラは咄嗟に顔を背けようとした。だがそれも、強い力によって阻まれる。


「え? 何? ……いや、ノクスね?」


 顔に感じるひんやりとした手。指先が、容赦無く瞼を閉じさせる。何がしたいのかさっぱり分からない行動に、ヴィオラは文句を言おうとして口を開く。

 その唇を、掠めるような手つきで指先がなぞった。


 まるで、黙れ、と言っているかのようなそれに。

 ヴィオラは、大人しく口をつぐむ。そうしてしまえば、厨房にはなんとも言えない沈黙が訪れた。形を確かめるかのようにとん、とんと唇に触れていく指に、ヴィオラはぎゅっと目を閉じる。

 やめてよ、とそう言えば良い。それなのに、なんだか動けなくて。ノクスの指が触れているところが、どうにも熱く感じる。


「イグナーツ、アルノルト。外せ」

「……ですが」

「外せと言った。聞こえなかったか?」

「はっ!」


 高らかな足音が遠ざかっていく。しばらく間があって、はい、と言う小さな声が聞こえた。そしてすぐに、もう一つの足音も消えていく。

 厨房にぱらぱらといた他の男たちも、ノクスが現れたあたりから隣の酒造庫や食糧庫に引っ込んでしまった。

 ノクスのかすかな吐息だけが聞こえるこの状況に、ヴィオラは暗闇の中で意味もなく指先をすり合わせる。


「……ノクス、どうしたの?」


 何をするの、と怒るはずだった言葉は出ず、結局探るようなものになった。

 しばしの沈黙の後、溜め息と共に言葉が吐き出される。


「分からん」

「え?」

「だから、分からないと言っている」

「ええ……」


 分からない、と言われても困るのだ。その間もあやすようにヴィオラの肌に触れる手は止まらない。いい加減我慢ならない、とヴィオラがノクスを押し除けようとしたところで、ノクスはゆっくりとヴィオラから離れた。


 真紅の瞳が、やや困惑したようにヴィオラを見つめる。じっと見つめ返せば、その瞳がどろりと色を濃くした。

 え、と吐息を漏らしたヴィオラに、我に返ったようにノクスは目を瞬かせる。眉間に皺が寄るほどに強く目を閉じた後、小さく息をつくとノクスは首を振った。

 そのまま、黙って厨房を出ていく。その背に、長い黒髪が艶やかに滑った。


「なんだったの、あれ……」


 思わず漏れた呟きに答える人は、いない。



 


 そして何事もなく、日々は過ぎていく。

 相変わらずイグナーツはうるさいし、アルノルトは皮肉ばかりだ。ノクスもあれ以来、妙な行動をすることもなく。ただ美味しいとだけ口にしないのは、意地か。

 だが、ゆっくりと、影は忍び寄る。


 それは、何の変哲もないとある1日のことだった。


 勇者率いる軍が、魔王城内に侵入した。


 その知らせは、光よりも早く魔王城を駆け巡り、そこに住む者たちを混乱の渦へと叩き入れた。

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