第14話 曇った眼鏡

「おい、人間」


 ずり、と下げた足は、硬い石の壁に当たって止まった。

 ヴィオラを取り囲んだ男たちは、下卑た笑いを浮かべながら距離を詰めてくる。


 どうしてこうなった、とヴィオラは溜め息をついた。

 いつも通り、料理の支度をしていただけだ。特に目立つようなことはしていない。強いていうのなら、料理長に、なったくらい。

 レスターには悪いと思ったけれど、むしろレスターは笑顔だった。ヴィオラがいる状況で料理長をやる方が苦痛だとまで言われれば、ヴィオラとしても引き受けざるを得ない。

 だがそれも一部だけが知る内々の話で、こうして明らかに警備兵の格好をした男たちが厨房へと無遠慮に踏み込んでくる理由には、ならないはずだ。


「私に用? 今仕込みで忙しいんだけど、後にしてくれない?」

「偉そうな口を叩いてくれるじゃあないか」


 後ろから顔を出した男が、にやにやと笑いを浮かべながらその腰に穿かれた剣をわざとらしく撫でる。その仕草に、ヴィオラは思い切り顔を顰めた。


「脅してるつもり? それで態度は変えないわ」

「今ここで切り捨ててやったところで、誰も咎めないと分からないかあ? 人間さんよ」

「え、多分死ぬほど咎められるわよ」


 つい真顔で返したヴィオラに、目の前の男は笑うばかりだ。


「自分が偉いとでも思ってるのか? ここの支配者は魔王様なんだからよ、魔王様の覚えが全てだろう?」

「そうね」

「それなら、あんたが取るべき態度、分かるよなあ?」

「あなた方をここから叩き出す、ってこと?」

「……おいおいおい」


 ちゃり、と男の腰で剣が音を立てた。下品な威嚇だが、ヴィオラとしては火にかけたままの鍋が気になって仕方がない。そろそろノクスの名前を出すか、とヴィオラが口を開きかけたところで、凛と落ち着いた声が厨房に響いた。


「貴方」

「ア、アルノルト様!?」


 普段と変わらずきっちりと髪の毛を撫で付けたアルノルトは、おもむろにかけていた眼鏡を外す。きゅ、と音を立てて眼鏡を拭いながら、アルノルトは見本のように整った笑顔を浮かべた。


「失礼。眼鏡が曇っていて何が起こったのか、私にはさっぱり。何をしていたのか、ご説明願えますね?」

「は、はい!」


 ヴィオラは鍋へと急ぎながら、ちらりとアルノルトに視線を送る。助けてくれたのは確かだ。あれは、男たちの回答によっては見なかったことにする、という意味なのだろうが。

 あの男が、と感慨を抱きながら、ヴィオラは鍋を開ける。一気に厨房中に広がった湯気に、今度こそ本当に曇った眼鏡に視線を落としたアルノルトが、遠くから笑顔の裏でヴィオラを睨みつけた。


「アルノルト様、魔王城内に人間がいたので、正しく対処してた、っす」

「正しく対処? 私の記憶には、魔王城内に人間がいた場合の対処法を記した書物などはありませんが……果たして、正しい対処とは何か、浅学な私にご教授いただいても?」


 皮肉で飾り立てられたアルノルトの言葉に、男たちはようやく何かがおかしいと気づき始めたようだった。

 盛んに仲間内で視線を送り合い、発言を促しあっている。その時、勢いよく厨房の扉が開いた。


「女!!!!」

「イグナーツ、声を落としなさい。騒々しい」

「アルノルト、なんで貴様がここにいる?」

「……通りかかったまでです。少々気になることがありまして」

「そうか、つまみ食いをしにきたのだな! 前に僕が話した時にやたら羨ましがると思ったら! 薄情だぞ、知らせてくれたら僕も来たものを」

「黙りなさい、イグナーツ」

「そうか、ふん、そうか!」

「どうして貴方が得意そうなんです」


 勢いよく眼鏡を掛け直したアルノルトが、この話は終わりとばかりにイグナーツに背を向ける。アルノルトの視線の先の男たちに気がついたのか、イグナーツも大股で近づいてきた。

 男たちの顔色はもう、真っ青を通り越して土気色に近い。さすがに可哀想だと、ヴィオラでも思った。魔王の側近2人がかりなど、明らかにオーバーキルだ。ヴィオラはそこまで気にしていない。

 そう言おうにも、明らかに剣呑な空気は、今更割って入れる感じでもない。


「アルノルト、こいつらはなんだ」

「ヴィオラさんに、をなさっていたそうですよ」

「……つまりどういうことだ?」

「貴方ほど皮肉が通じない人を、私は知りませんね。簡単に言えば」


 そこで言葉を切ったアルノルトは、わざとらしく腰の剣へと手を当てる。


「まあ、少々乱暴な態度を、ですね?」


 三日月型に細められた目が、弁解は許さないとばかりに男たちを見つめる。震えるばかりの男たちを前に、イグナーツの頬がひく、と揺れた。


「つまり貴様らは、魔王様の御覚えの良いヴィオラに、手を出したと?」


 その言葉に、ヴィオラは苦笑する。イグナーツからしてみれば、ヴィオラの価値はノクスからそれなりに気に入られているという、その一点だけなのだろう。

 けれど、とヴィオラは気がついた。イグナーツがヴィオラの名前を口にしたのは、きっとこれが初めてだ。


「魔王様の……?」

「そうです。ヴィオラさんに手を出して、一番怒るのはおそらく魔王様ですからね。ああ怖い怖い」


 胡散臭い笑みを浮かべたアルノルトが、ゆっくりとヴィオラの元へと近づいてくる。何をするのか、と黙って見ていれば、ちょうど煮込まれている鍋に向かって、アルノルトが身を乗り出した。

 真っ白に染まった眼鏡。それをもう一度外したアルノルトは、それを懐から取り出した臙脂色のクロスで拭きながら、ゆっくりと口にする。


「失礼。また眼鏡が。……それで、何をされていたので?」

「い、いえ」


 1人の男が、震えて裏返った声を漏らす。


「何も。ご、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんっ……! し、失礼します」


 そのままとんでもない勢いで厨房を飛び出して行った男たちを、ヴィオラはぼうっと見守った。なんというか、嵐のような登場と退却だ。


「ヴィオラさん」


 ゆっくりと歩み寄ってくるアルノルトに、ヴィオラは曖昧な微笑みを返す。前と態度が変わりすぎて怖い。顔を合わせれば皮肉ばかり言ってくる男だったはずだ。まさかこんなふうに、ヴィオラを庇うとは。


「この度はとんだ失礼を。彼らに代わって、お詫びいたします」

「別に何もなかったのだから、気にしなくていいわ。……でもそうね、ああいう人が、まだここにいるとは思っていなくて」

「普段は、そうでもないのですが」


 迷うように口をつぐんだアルノルトの後を、イグナーツが引き取る。


「勇者の軍勢だ」

「……」

「普段魔王城を守っている優秀な奴らが、前線に行っている。突然募集した人員だ、くだらない奴らは完璧には防げない」

「そ、れは」

「ヴィオラさんが気に止むようなことではありませんからね」


 溜め息をついたアルノルトが、横から口を挟んだ。なぜ言うんです、とイグナーツに文句を言ったアルノルトに、イグナーツもどうせ分かることだ、と言い返す。


「分かることかもしれませんが、魔王様が」

「魔王様が何だ」

「ヴィオラさんを気にしておられます。無闇に彼女を刺激するような真似は――」

「あの」


 ヴィオラのあげた声に、言い争っていた2人が同時に顔を上げた。


「勇者は、ここまで辿り着くの?」

「辿りつかないようにするのが、私たちの仕事です。……と、言いたいところですが」

「その勇者とやらの力が分からん。貴様は知っているのか」


 黙って首を振ったヴィオラに、だろうな、とイグナーツが頷く。


「ないとは思うが、備えておくべきだ」


 その落ち着き払った口ぶりに、ヴィオラは少し驚いてイグナーツを見上げた。

 レスターの、泣く子も黙る、という言葉を思い出す。こうして立っているイグナーツの姿は、確かに魔王の右腕に相応しい貫禄を備えているように見えた。


 同調するように頷いたアルノルトの銀翼が、落ち着かなげに蠢く。


「それで」


 やや躊躇うように口にされたその言葉に、ヴィオラは次に何がくるかと身構える。

 その様子を見たイグナーツが、問いかけるような視線をアルノルトに向けたところで、アルノルトは口を開いた。


「今日の夕食は、何です?」


 一拍置いて、ヴィオラが吹き出した。後を追うように、イグナーツも。

 2人分の笑い声と、1人分の怒りの声が響く厨房。よく煮込まれた野菜の良い匂いが、ふわりと広がる。そんな時。


 がた、と前触れもなく厨房の扉が開けられる音がした。

 ノックもしないなんて、とヴィオラは振り返り、そして笑顔を浮かべる。


「ノクス!」

「ノクス? 誰だそれは――って!?」

「どうしました、イグ――!?」


 腕を組んで壁に寄りかかる長身の男――ノクスに、目を剥くイグナーツとアルノルト。そんな2人の反応は気にせず、ヴィオラはぱっとノクスへと駆け寄った。

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