第13話 夜

「お前、こんなところで何をしている?」

「……別に、散歩? 離れましょう」


 廊下の奥で行われている会話。それに気がついてしまえば、ここから少しでも早く魔王を引き離すべきだという思いが先に立つ。けれどとっくにその会話の内容を把握しているらしい男は、ふ、と軽く息をついた。


「あの程度の内容を俺が気にするとでも?」

「気にならないの?」

「ああ」

「噂通り、強いのね」


 そうヴィオラが口にした瞬間に寄せられた眉。ちりりと揺れる空気。

 平然と気にならないと言ってのけながら、そういうところに滲む何とも言えない繊細さが、ヴィオラとしては気になって仕方がない。迷いは一瞬だった。


「魔王様、ちょっとついてきて」


 冷たく断られるかと思ったが、予想に反して魔王は大人しくヴィオラについてくる。魔王を引き連れて魔王城を闊歩するヴィオラに、通りすがった男が驚愕と羨望の眼差しを向けてくるのを無視して、ヴィオラは淡々と廊下を歩いた。

 くるりと城壁を回って、四隅にある塔のうちの一つに辿りつく。こつこつと音が反響する中螺旋階段を登り終え、ヴィオラは塔の上の丸い空間へ立った。

 

「この俺の時間だ、くだらない用事なら分かっているだろうな」

「魔王様にとってくだらないかどうかなんて私には分からないわよ」


 ヴィオラは、遠く広がる景色に目を向ける。

 断崖絶壁を降りた先は、見渡す限りの森だ。赤黒く霞んで見える木が延々と続く、人間にとっては本来立ち入ってはならない土地である。

 見える木々はどれも捻れて互いに絡み合い、幹の上を蔓草がびっしりと埋め尽くしている。時折ちらりと集落のようなものも見えるが、全て森から切り出した木で作られているのだろう、周りに違和感なく溶け込んでいた。

 最初に口を開いたのはヴィオラだった。


「どうぞ」


 懐から取り出したものを、ヴィオラは袋ごと放る。

 そちらを見ることもせずに片手でそれを捕まえて、魔王は警戒するように淡い紫色の包みを開いた。


「何だ」

「おやつよ」

「答えになっていない」

「前にリンゴのジャムを作ったでしょう? ついでに砂糖漬けにして乾燥させておいたの。口寂しい時に良いわよ」


 黙ってそれを口に運んだ魔王に、ヴィオラは緩く笑いながら聞いた。


「美味しい?」

「……」


 元から期待などしていない。肩をすくめたヴィオラは、目の前の男へと視線を戻した。

 ヴィオラと同じように遠くの景色に視線を送っている魔王。その黒髪は風でなびき、濡れたような艶を放っている。生気を感じられないほど白く透き通った肌の中に、ほんのりと色づく濡れた唇と、圧倒的な力を宿して光る紅玉の瞳。

 それがすっとヴィオラへと流される。


「人を無遠慮に眺めるのは失礼だと、習わなかったのか?」

「ごめんなさい。だって綺麗だったから」

「綺麗?」

「魔族の価値観では違うの?」

「魔族には容姿よりも種族の方が関心が高い。上辺ばかり気にするのは人間だけだ」

「私は褒めてるのよ。一言皮肉を添えないと満足できないわけ?」

「褒め言葉を素直に受け取れるとは、幸せな女だな」


 それは一見痛烈な皮肉だったけれど、ヴィオラは言い返す気になれなかった。なぜなら、そう口にした時の魔王が、微かに目を細めたから。

 その仕草はあの時の色を思わせるようなものとも、威嚇するようなものとも違って、痛みを堪えるようなものを含んでいるような気がした。

 

 目の前の美しい男が、どういう過去を生きてきたのか、ヴィオラには知る由もない。ないけれど、力が全てという魔族の頂点に立つ男だ。その道が決して楽で幸せなものではなかったくらいの想像はつく。


「……ねえ魔王様、少し私の話をしても良い?」


 一瞬ヴィオラに目を向けた魔王だったが、何を答えるでもなく視線を森へと戻す。

 それを勝手に了承と取って、ヴィオラは口を開いた。


「私ね、天涯孤独、ってやつなの」

「……」

「だからさ、こうしてご飯を作って、誰かと一緒に食べるのって、すごく久しぶりで……なんか、嬉しかった」


 森を見つめて、ヴィオラは目を細めた。

 女手一つでヴィオラを育て上げたヴィオラの母は、いつだって仕事で忙しかった。幼いヴィオラが母と一緒に過ごせる時間は、唯一、一緒にご飯を作っている時と、食べる時だけだったのだ。

 だからヴィオラは、料理が好きだ。作るのも、食べるのも。


「魔王城に来てから、ご飯が美味しい。ありがとう、魔王様」

「……俺が感謝される筋合いはないだろう」

「感謝くらい素直に受け取っておけば?」


 ふふ、と笑いを漏らして、ヴィオラは言葉を続ける。


「それで、私は人間で、魔王城の皆さんは魔族だけど、一緒に食べたご飯は美味しかった」


 隣で、魔王が身じろぎする気配を感じた。けれどヴィオラは視線を森から逸らさず、穏やかに微笑む。


「人間と魔族と、確かに魔族を恐れて線を引いたのは人間だけど――昔はそういう区別もなくて、一緒にご飯を食べていた時代もあったんだなって、思ったの」

「……」

「だから、魔王様にとっても私のご飯は美味しいはずじゃない?」

「結局、そこへ戻るのか」


 呆れたように溜め息をついた魔王だったが、めげる事なくヴィオラは魔王へと視線を戻す。

 

「私の話をしたついでに、魔王様、ずっと聞いてみたいことがあったのだけど」

「その前に、俺から質問させろ」

「魔王様って、私に興味あったの?」

「減らない口だな」


 文句を言いながらも、その表情は本気で苛立っている風でもない。


「お前は、なぜ俺を討伐する部隊に入った?」

「……私のこと、敵だと思ってる?」

「敵の数にも入らんがな」

「ごめんなさい」


 小さく眉を上げた魔王に、ヴィオラは静かに頭を下げた。


「深く考えていなかったの。母の病気を治すために回復術士を目指して、その目標も途中でなくなって、ふと気づいたら食べていくために国に仕えて魔王様を討伐するしかなくなっていて……ごめんなさい。後悔してる」

「くだらない」


 突然頭に手が乗せられて、ヴィオラは驚いて顔を上げる。手を跳ね除けられたような形になった魔王は、不服そうに眉を寄せた。それでも、言葉は続けられる。


「羽虫が一匹増えたところで俺が気にすると思うか?」

「羽虫、って」

「俺が気にしていないんだ、お前の後悔にはなんの価値もない」

「……慰めるの、へったくそね」

「この俺がお前を慰めていると思えるのか、お気楽な頭だな」

「私が勝手に慰められてるだけよ」


 ヴィオラは魔王を見上げた。

 薄暗くなってきた空気に溶け込むように1人立つ、圧倒的な力を持つ王者。


「私の質問、していい?」

「答える保証はしないが」

「名前、なんていうの?」

「……は?」


 初めて見る表情だった。

 その顔を彩るのが、困惑であることは確かだ。大きく見開かれた目に、わずかに開かれた口元。けれど、それだけではない感情が宿っているかのように、空気がざわりと音を立てた。不穏に揺れる木々は、きっと目の前の男の心情を映したものであるはず。


「名前。魔王様の」

「さあ。忘れたな」

「忘れた? そんなことある?」

「名前とは、他と区別するためにあるものだろうが」


 見開かれていた目が、気だるげに伏せられる。長い睫毛が影を作り、その赤を濃くした。


「俺を区別できない者など存在しない。俺に名前が必要か?」

「ええと、魔王様と呼ばれれば満足ってこと?」

「ああ」

「それだと、永遠にあなたは魔王様じゃない?」

「それを疑ったことはない。それともお前は、いつか俺が謀反に遭うなどとくだらない予想をしているのか?」

「そういう意味じゃないわよ。魔王様は、魔王様をやめたくなる瞬間ってないの、ってこと」


 全く理解できないといった様子の魔王に、ヴィオラは根気強く続ける。


「私はあなたも知っての通り、第23偵察部隊所属の回復術士だったわけだけど、いつまでもそう呼ばれ続けたら私は嫌よ。回復術士であると同時に、私は料理が好きであなたに絶対美味しいと言わせたいヴィオラだから」

「……」

「魔王様は強い。力でもそれ以外でも大抵の生き物には負けないかもしれない。でも私には、最強の魔王様の看板は、常に掲げ続けるには重すぎる気がするけれど」

「それを下ろしたら、殺される。魔族とはそういうものだ」

「私は違う」


 間髪入れずに言い返したヴィオラは、テラスの端へと歩くと手すりに手をかけ、身を乗り出す。

 少しずつ日が落ち始めた時間。ひんやりとした風が頬を撫でる。手前からゆっくりと闇に沈んでいく森を見つめながら、ヴィオラは呟いた。


ノクス

「なんだ唐突に」

「魔王様の名前。忘れたなら私が勝手につけて勝手に呼ぶわ」

「全く、安直な。目の前の景色から発想したとでも?」

ルクスとかよりは似合っていると、自分でも思うでしょ?」


 こつ、とヴィオラの元へと近づいてくる足音がした。少しの距離を置いて立ち止まった魔王――ノクスに、ヴィオラは苦笑する。

 やはりそう簡単には、心を許してはもらえないらしい。


「なぜお前は、やたらと俺に構う?」

「え?」

「お前だけだ。この俺に敬意も払わず、失礼な振る舞いばかり繰り返すのは」

「ノクスだけが私の料理を美味しいって言ってくれないから」

「くだらない」

「そんなこと言っても、怖くないわよ」

「魔王だぞ?」

「ノクスでしょ」


 苛立ったように魔王が頭を振り、木々が蠢く。飛んできた枝がヴィオラの横で弾けた。木の破片がその頬を掠め、一瞬焦げたような痛みが走る。


「これでも怖くない、と?」

「ええ。ノクスは私を殺さない」

 

 あっさりと言い放ったヴィオラは、くるりと回ってノクスを見つめ返した。

 すっかりと日も落ち、暗闇の中で、2つの瞳が見つめあう。


「ノクス。何が何でも、あなたに美味しいって言わせてみせるから」

「……せいぜい期待せずに待っておこう」


 ノクスは微かに口元を持ち上げた。

 それが笑みであることを理解したのは、少し経ってからのことだ。今まで見た挑発的なものとも、色気を漂わせたものとも違う。どことなく不器用な表情は、不思議とヴィオラの中に残って消えなかった。

 長い髪を靡かせて去っていくノクスを、ヴィオラは止めない。


「料理長」


 低い、小さな声が響いた。

 2人の間はかなり開き、遠くなった声がかすかにヴィオラの元へ届く。


「お前がやれ」

「え、ノクス!?」


 これ以上は答えない、とばかりに首を逸らしたノクスの姿が、あっという間に掻き消える。転移系統の魔法だろう。

 呆然と、ヴィオラはテラスに立ち尽くす。


 暗くなっていく森の上には、美しい夜空が広がっていた。

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