第37話 この世界でひとりだけ
あっという間に見えなくなった黒い剣に、水士は大きく目を開いた。
「驚いたね。本当に捨てるか、半信半疑だったんだ」
「……」
ノクスは何も言わなかった。
その目はただ水士だけを見つめ、その周りをゆらりと魔力が漂っている。それを一瞥して、水士はさらに言った。
「結界も、全部といて?」
「っノクス! そんなことしなくていい!!」
やっと出るようになった声で、ヴィオラは叫んだ。からからに乾いた口に、涙が流れ込んだ。
「やめて! ノクス!!」
す、とノクスの周りを取り巻く魔力が消えた。満足したように水士は頷く。
無防備なノクスに向かって、水士の手が向けられる。その指先で、金色の光が次第に輝きを増していく。
「ヴィオラ」
「お願いやめて!!」
「俺がこの程度で死ぬと思うか?」
やめて、と泣き叫んだ声は、言葉にならなかった。
つき、と喉に刺すような痛みが走って、口の中に鉄の味が広がる。
――お前が目の前で刺された時、お前の血を浴びた時、俺がどんな思いをしたと思っている?
見ていられるわけがない。耐えられるわけがない。
「イグナーツ!! アルノルト!!」
「……」
「あなたたちはノクスの側近なんでしょ! ノクスを守らなきゃでしょ!! 私なんか見捨ててノクスを守ってよ!!」
「駄目だ」
震えるイグナーツの声に、ヴィオラは叫んだ。
「なんで!」
「魔王様に、言われている」
「どんなことがあっても、御身よりもヴィオラさんを守れと。そう、命令されています」
「っノクス!」
ふ、とノクスは笑った。
「用意が良いだろう?」
「レオ――」
「あの男の最優先はいつでもお前だ」
涙でぐちゃぐちゃになった視界で、ヴィオラはレオンを見つめた。
歯を食いしばって、レオンは首を振った。
「嫌、やめて!!」
水士の手の先の光球が一気に膨れ上がり、打ち出された。
真っ直ぐに飛んだそれは、過たず、ノクスの心臓の上を捉えた。
ヴィオラ、と名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
爆音と共に吹き飛ばされた身体は、あっさりと手すりを超えた。長い黒髪が広がり、空中を泳ぐ。
手すりの向こう、遥か下へと落ちていく最愛の人の身体を、ヴィオラは呆然と見つめていた。
がっと身体が引かれ、振られた首に痛みが走る。テラスの縁、手すりの上へと飛び乗った水士は、その下の男へと、迷いなく追撃を放った。
ノクスは地面に倒れていた。投げ出された四肢は動かない。その目は閉じたまま、開かれることはない。
閃光がノクスへと迫る。髪が舞い上がり、じゅ、と嫌な音を立てて燃えた。それがノクスへと突き刺さる寸前。
ぱっと、その光が拡散した。
「――っ!?」
は、と息を呑むような音が耳元で聞こえた。
ノクスの身体をぼんやりと覆っているのは、結界だ。けれど七色に光るあれは間違いなく、ノクスのものではない。
「卑怯だぞ!!」
テラスの下、城を囲むようにして集まっていた民衆の中で、白いローブを纏った男が大声を上げた。
「やり方が汚ねえ!!」
さっと顔を向けた水士が、その男へと光球を放とうとする。弾け飛ぶぎりぎりまでたわめられたそれは、けれど放たれることなく霧散した。
悟ったのだ。今ここにいる民衆に向かって攻撃したら、何が起こるのかを。守るべき人に向かって攻撃魔法を撃つことの恐ろしさを。
「そうだ!!! それにな!!」
ヴィオラはノクスを包む結界へ目を戻した。ありとあらゆる術式、属性の入り混じったそれは、絶対に1人のものではあり得ない。一枚一枚は非力だけれど、何十、何百にも重ねてかけられたそれは、十分に水士の攻撃に耐えうるだけの強度を保っていた。
思い切り両手を振り上げた男が、声を張り上げた。
「好きな女守るために身ぃ張ってる男だぞ!! 悪いやつなわけあるか!!!」
ノクスの瞼が、震えた。
ゆっくりと覗いた真紅の瞳が、ヴィオラを見上げた。ふ、と唇の端だけで浮かべられた微笑みに、堪え切れず涙が溢れた。
ヴィオラを見つめるノクスの目が細められ、真剣な光が宿る。
それを見た瞬間、ゆっくりと頭が冷めていくのが分かった。
ヴィオラが人質である状況に変わりはない。けれど打開策は、きっと、ある。
ノクスがゆっくりと指先を上げ、口の端から溢れる血を拭った。紅を引いたかのように、その唇が真紅に濡れた。
そう、か。
ヴィオラは目を閉じて、ゆっくりと息を吸った。
身体の中をいつものように流れていく魔力。その中から、少しずつ、
――お前の身体はまだ不完全だ。俺の魔力なしに生きることは難しい。
そう言って、少しずつ、少しずつヴィオラの中に貯められていったノクスの魔力。
――魔王様の魔力の残り香が、貴女様の体に。
ノクスの魔力には、ヴィオラには分からないけれど独特の香りがするらしい。
それならば。今、全神経をノクスに傾けている、この水士からしてみれば。
「解放」
身体中からかき集めた魔力を、ヴィオラは一気に解き放った。
「――っ!?」
近くで突然湧き上がったノクスの魔力など、脅威でしかないはずなのだ。
咄嗟に地面を蹴った水士が、ヴィオラから距離を取る。水士がその過ちに気がついた時には、全てが終わっていた。
凄まじい爆発音がして、視界が一気に闇に染まる。ふらり、と力の抜けた身体を、ひんやりとした体温に抱き止められた。
「ノ、クス」
震えるヴィオラを抱きしめて、ノクスは囁いた。
「悪い、遅くなった」
泣きながら、ヴィオラは思い切りノクスにしがみついた。
「怪我は」
「あの程度、もう治した」
「無茶ばっかりして」
「お前を守るためなら、な」
「心配は愛情の裏返しだって、言ったのに」
「ああ」
「っありがとう、ノクス」
ふ、と頭の上で笑う気配がした。優しく頭に乗せられた手に、落ち着いてきたはずの涙がまた込み上げる。しゃくりあげるヴィオラを抱きしめたまま、ノクスはゆっくりと口を開いた。
「先ほど俺を救ってくれた方々に。感謝する」
わああ、と好き勝手に発される言葉に、ノクスは苦笑した。何百人もが同時に叫べば、そのひとつひとつの言葉など聞き取れるわけがない。
それでも、その温度だけは分かる。きっとそれは、とても温かい。
すう、とノクスが息を吸った瞬間、一斉に大声が止んだ。
「結界を張り、不可侵を結び直す。戦は終わりだ。反対は?」
しん、と国中が静まり返った。
人も、草木さえもが音を出すのを躊躇っているかのような沈黙。静寂が数秒続いた後、爆発するような歓声が上がった。
空が鳴る。地面が揺れる。両手を空へと突き上げて、人々は長く苦しかった戦の終わりを寿ぐ。
こつこつと、ノクスが国王の元へと足を進める。わずかばかりの結界で身を守り、座り込んで震えていた国王に向かってノクスが手を振った瞬間、その身体が黒い縄のようなもので一気に拘束された。
集まってきた人間が、地面に座り込む国王の手首を掴む。半ば引き摺られるようにして連れて行かれる間際、国王は叫んだ。
「魔王!」
「何だ」
「許さない! 儂から何もかもを奪ったお前を、絶対に! いつか儂の前に膝をつかせてやる!」
わずかに目を細めたノクスだったが、すぐに口元に不敵な笑みを浮かべた。
覗いた赤い舌が、するりとその唇を舐める。
「悪いが、この俺が膝をつくのは、この世界でひとりだけだ」
連行されていく男を気にすることもなく、ノクスは髪を靡かせて向き直る。
ゆっくりとヴィオラの元へ歩いてきたノクスは、静かに膝を折った。
「ヴィオラ。……愛している。どうか、俺の側にいてほしい」
長い黒髪は肌を滑り、真紅の瞳が輝く。何者にも屈することのない最強の男、全ての王たる男は、跪いてただヴィオラへと愛を乞うた。
心底愛おしそうな光を宿してヴィオラを見上げるその目が、その背中に広がる長い髪が、滲んで、揺れた。
流れ落ちた涙が、ノクスの黒髪の上を滑る。泣きたいのと笑いたいのが入り混じって、どんな表情になっているのか、ヴィオラにはもう分からなかった。
ただ、ノクスを見下ろして、囁くだけだ。
「はい。喜んで」
立ち上がったノクスが、その腕の中にヴィオラを閉じ込める。落ちそうなほどに手すりに強く押し付けられて、ヴィオラは泣き笑いしながらノクスを押し返そうとする。
それでもノクスは、決して離そうとはしない。
「ノクス」
ノクスを抱きしめる腕に、強く力を込めた。
「私も、愛してる」
ノクスの腕の中で、ヴィオラは微笑んで目を閉じた。
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