第27話 渡さない

「ヴィオラ。今日は何を作るつもりなの?」

「朝ごはんは毎日気合いも入れてられないから、適当に。でもお昼はせっかくだから手の込んだものを作ろうと思って、その準備よ」

「手伝えることがあったら言ってね」

「ええ、ありがとう」


 言葉を交わしながら厨房へ向かって歩く2人の姿に、壁際へ立っていた早番の男の顔が引き攣る。かちゃ、と金属のぶつかる音。


 その瞬間、レオンはふっと小さく息を漏らした。流れるように一歩下がると腰を低くして警戒の構えを取る。腰に添えられた手が、空を切った。

 少しだけ間があって、我に返ったようにレオンは構えを解いた。そして、丁寧に礼を取る。


「初めまして。これから、よろしく」


 にこやかな笑みを浮かべたレオンに対し、男は未だ警戒を解く気配がない。槍を掲げ、腰の短剣に触れていることを隠しもしない様子に、ヴィオラは眉を顰める。


「ねえレイク」

「ヴィオラさん、この男は勇者です!」

「ええ、知ってるわ。その上でここに置いているの、ノクスも知ってるわ」

「……でもっ!」

「レオンが、あなたたちにとって受け入れたくない存在なのは知ってる」


 男へと振り向いたヴィオラは、その槍に手をかけてゆっくりと下げさせる。


「それでも、今はレオンは魔王城の客人なの。分かってくれる?」

「ヴィオラさんが、言うなら」


 槍を下ろした男の手は震えていた。指先が白く染まるほどに握られた手を見下ろして、ヴィオラは振り返ってレオンを見つめ直す。


「レオンも。やめて、彼らは悪くない」

「……うん、分かってるよ。ごめんね、気をつけてるんだけど癖で」


 ヴィオラへと笑いかけて、丁寧に謝罪をしたレオンに、黙って男は頷く。

 そこから先は、ヴィオラが初めて魔王城に来た時を思い出すような光景が続いた。いや、それより酷いかもしれない。

 廊下を歩けば武器の音が鳴り、数多の視線が突き刺さる。レオンは目を伏せ、唇を噛みしめてヴィオラの後へ続く。

 ようやく厨房へ辿り着いた時には、思わず小さく息が漏れた。


「レオン、ごめん。でも分かってあげてほしいの、悪い人たちじゃないわ」

「そう何度も言わなくても、僕は分かってるよ」

「そう、ね」


 朝ごはんの支度をしながら、ヴィオラは山積みになっていたジャガイモを取り出す。さっと検分して形の悪いものを取り出すと、さらさらと皮を剥き始めた。どうせ潰すのだ、綺麗なのは付け合わせにとっておこう。

 普段はこれくらいの時間に来てヴィオラを手伝ってくれる者もいるのだが、今日は入口付近に背筋を伸ばして立つレオンの気配を察したのか、厨房にはヴィオラだけだ。


「ヴィオラ、君はさ。魔王だけじゃなくて、魔族にも信頼されているんだね」


 口火を切ったのはレオンだった。ヴィオラは、向いたジャガイモを塩と一緒に鍋へ放り込みながら答える。


「そう?」

「あの魔族、ヴィオラが言うなら、って言ったから」

「彼はレイクって言うの。魔族って呼び方は失礼よ」

「そうだね、ごめん」


 ぐつぐつと煮える鍋を横目に、さっと洗ったセロリをみじん切りにしながら、ヴィオラはなんでもないことのように続けた。


「レイクたちが私を信じてくれているかは分からないけど、私は彼らを信じてるわ」

「それは、すごく良いことだね」


 その宥めるような言い方に眉を寄せたヴィオラは、戸口付近のレオンを振り返る。ヴィオラと目があって、レオンは柔らかい笑みを浮かべた。


「どうしたの、ヴィオラ」

「いいえ。別に、気にしないで。それより、向こうの話を聞かせてほしいわ。私がいなくなった後、何か変わったことはあった?」

「そうだね。五士が本格的に魔王討伐に参加し始めた、っていうのは知ってる? 特に水士の勢いがすごいって」

「少し聞いたわ。そうだ、ねえレオン」


 フォークを突き刺してジャガイモがよく煮えたことを確認し、ヴィオラはジャガイモをザルへと取り出す。水気を切りながら、ヴィオラはレオンへと問いかけた。


「2回とも、レオンはほとんどひとりでここに入ってきたけど。危ないわよ、なんでそんな無茶なことしたの」

「もちろん、ヴィオラが攫われたって聞いたから」

「攫われた……っていうと少し違うかも。私は自分の意思でここに来たわ。でもそれより、私1人のために、勇者様がわざわざ命をかけるだなんて、」

「平気だ」


 遮るように口にされた言葉に、ヴィオラは驚いて後ろを振り返る。その拍子にぱしゃ、と跳ねた水が服にかかって、ヴィオラは咄嗟にそれを見下ろした。

 さっと水をぬぐい、顔を上げれば、レオンは先ほどと変わらずに笑っている。


「大丈夫だよ、結局僕は生きてるしね」

「それはそうだけど」


 す、と冷たい空気が頬を撫でて、ヴィオラは勢いよく右へと首を向けた。大ホールと厨房をつなぐ扉。普段は配膳のためだけに使われているその扉が開き、1人の男が厨房へと入ってくる。


「ヴィオラ」

「ノクス? 早いわね」

「ここで何をしている?」

「何って、え?」


 手に持ったジャガイモと、それを潰すための棒を掲げてみせたヴィオラに、ノクスは静かに溜め息をついた。瞬間、さっと空気が揺れる。

 気がついた時には、すぐ側にノクスが立っていた。その手がヴィオラの腰に回されようとした瞬間、鋭い息の音が聞こえる。


「何だ?」


 レオンへと視線をやったノクスは、すっと目を細めた。その視線を気にすることなく、レオンは流れるように笑顔を浮かべ、ことりと首を傾げる。


「いいや、何も?」

「用がないなら黙っていろ」


 躊躇いなく、ノクスの腕がヴィオラの腰へ回る。寄せられた口から冷たい息が耳の中に入り込み、背筋がざわめく感覚に、ヴィオラは警戒するようにノクスを見上げた。


「ヴィオラ、お前でも分かるように言い直してやろう。ここで何をしている?」

「雑談よ。話し相手がいた方が楽しいもの」

「俺が相手になる」

「え?」


 あまりにも意外な言葉に、警戒も忘れてノクスを二度見する。ヴィオラの話し相手になる、とノクスは言ったのか。


「俺が相手になろう。何の話をご所望だ?」

「何でそんな、突然。今までそんなことなかったじゃない」

「今までに俺のいないところで人間の男と話したことがあったか? そもそも勝手に消えることは許さんと言ったはずだ」

「そんなの無理って言ったはずよ」

「無理? お前が生きるためには、まだ俺の魔力が必要だ。俺から逃れられると思うなよ」


 ノクスの魔力。

 その言葉に、今までのあれやこれやを思い出して顔を真っ赤に染め上げたヴィオラに、ノクスは満足げに微笑むとその頬を撫でる。

 その色めいた執拗な動きに、さらに熱をもつ顔を自覚しながら、ヴィオラは言葉を絞り出した。


「話に付き合ってくれるなら、ノクスのことを知りたいわ」

「俺のこと?」

「ええ。何も教えてくれないでしょ?」


 ヴィオラの言葉はきっと想定外のことだったのだろう。考え込むように視線を伏せたノクスに、ヴィオラは重ねて問いかける。これはもしかしたら、チャンスだ。謎に包まれているノクスを、もっと知るための。


「好きなものがワインなのは知ってるわ。そうね、いつも部屋が暗いのはなぜ?」

「その方が落ち着くからだ。それに、向いているだろう?」


 くつ、と喉を鳴らして微笑み、ゆっくりと唇を舐めてみせたノクスに、ヴィオラはこの話題には深入りしないほうが良いと確信する。


「んー、じゃあ年齢は?」

「お前とそう変わらん」

「そうなの? ずっと年上だと思ってたわ」

「年上ではあるだろうが。次は何だ、俺の好きな――」


 ――でも聞くか?

 その言葉に思わず後退り、自分の身体を抱きしめたヴィオラに、ノクスは心底楽しそうに笑う。


「揶揄っただけだ。それとも、本気で知りたかったか? それなら実技で」

「別に知りたくないわよ!」

「そうか」


 悠々と立っている男に、自分ばかりが乱されているようで腹が立つ。睨みつけるも、ノクスにとっては蟻が凄んでいるのと大して変わらないはずだ。

 つまみ食いでもしようとしているのか、潰しかけのジャガイモへと伸ばされた手を払い除けると、ヴィオラは必死に会話を続ける。


「それなら、好きな色!」

「どう思う?」

「黒。だっていつも着てるし、というか黒くないノクスなんて見たことないし」

「分かっているのに聞く必要があるか?」

「じゃあ分からないことを聞くわよ。家族は?」


 しん、と一瞬の沈黙に、ヴィオラは自らの失言を悟った。誤魔化すように言葉を紡ごうとする口を、ノクスの指先が塞ぐ。後ろからヴィオラを抱きしめて、ノクスは耳元で溢した。


「お前と同じだ」

「そう。その、ごめ――」


 謝ろうとした言葉は、ノクスの唇に封じられる。すぐにとろりと蜜のように甘い魔力が流れ込んできて、ヴィオラは堪えきれず目を閉じた。

 何で今、レオンだっているのに。


 抵抗の意思も、文句の言葉も、圧倒的な甘さと艶かしく蠢く舌の前には無力だ。いつものごとく、口付けだけでヴィオラの腰を砕いてみせた男は、震えながら座り込むヴィオラをうっとりと見下ろす。

 伸ばされた手がヴィオラの髪をすいた時、ヴィオラは未だ違和感の残る口を開いた。


「卑怯よ。抵抗できないの知ってるくせに」

「抵抗する意思もなかっただろう? 初めはあれだけ暴れたのにな」

「諦めただけよ」

「果たして、本当にそうか?」


 髪を伝った指先がヴィオラの耳に触れ、その柔らかい部分をゆっくりと撫で下ろす。かさ、という音が、頭の中に反響している。泣き出しそうに震えたヴィオラの呼吸に、ノクスは満足の吐息を漏らした。


「そう、よ」

「ヴィオラ。早く、俺に堕ちろ」

「……」

「俺は気が長くない」

「5年待てたのに」

「5年も待った」


 その切実な響きに、ヴィオラは耳の甘やかな刺激も忘れて顔を上げた。その真紅の目に揺れる切望の光に、は、と小さな息が漏れる。


「……ノクスは、私にどうしてほしいの?」

「俺、は」


 そんな時だった。がた、という突然の物音に、ヴィオラは驚いて後ろを振り返る。

 かろうじて、廊下へと消えていく白いローブの端がひらりと揺れるのを捉えて、ヴィオラは震える足を叱咤して立ち上がる。


「追うのか?」

「ええ。何が起こるか分からないもの。レオンも他のみんなも危険よ」

「ヴィオラ」


 急に肩を強い力で掴まれて、ヴィオラは息を呑んだ。至近距離で浴びせられる強い赤と、喉元を滑った冷たい指先。


「行くなら行けば良い。お前が勇者を気にかけているのは分かった。だが」


 濡れた唇が、掠めるようにヴィオラの唇に触れる。

 魔力を伴わない、ただ触れるだけのそれ。


「あの男に、お前は渡さん」

「……」


 言葉を失っているヴィオラから手を離すと、ノクスはゆっくりとヴィオラから離れた。数秒後、ノクスの姿が掻き消える。

 は、と我に返ったヴィオラは、レオンを追って駆け出した。


 問題が起こらないでほしい、と心の底から願いながら。

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