第28話 慕情

 レオンは走っていた。

 無茶苦茶に手足を動かして、前も見ずに喘ぐように走り続ける。


 今見たばかりの光景が、頭から離れなかった。

 ヴィオラ。レオンの、全て。


 初めて会ったあの日にレオンにかけた言葉を、ヴィオラはきっと覚えていないだろう。それがレオンにとってどういう意味を持つかも、何も知らないヴィオラには分からないだろう。

 それでも良かった。ヴィオラが幸せに生きていてくれさえすれば、それで良かった。


 ずっとヴィオラのために戦っていた。ヴィオラのためなら何でもできた。


 ぐるぐると、黒髪の男の姿が頭の中を回る。

 ヴィオラの唇を奪って。わざとらしく水音を立てて、レオンの視線に気がついたように視線を上げて。

 煽るように笑ってみせた上に、あんな、女の顔をしたヴィオラを見せつけるように、口付けの角度を変えた。

 そしてその間、ヴィオラは抵抗していなかった。


 忙しなく、右手が腰のあたりを引っ掻く。そこにはない剣を求めて無駄な足掻きを繰り返すことを、レオンはやめられない。

 走っても走っても廊下ばかりだ。道はとうに分からなくなった。薄暗く冷え切った魔王城の空気が、肺の中に忍び込んでくる。後ろから、わんわんと反響する足音がレオンを追ってきているのが分かった。


 魔王は、あの男は、ヴィオラを騙しているのだと。ヴィオラは騙されて、心にもないことを言わされているのだと。そう思っていた。そう思っていなければ、やっていけなかった。


 足がもつれて、身体が傾く。全身を石の床に叩きつけられた痛みに、鈍い呻き声が漏れた。


 ヴィオラを魔王城から助け出すためなら、ヴィオラに謝罪するためなら、この手を血に汚すことだって躊躇わなかった。

 数えきれないほどの魔族を殺した。魔王へ暗い殺意を向け続けた。ヴィオラのために。ヴィオラの、ためだけに。

 

「ヴィオラは、騙されているんだ、そうだ、そうなんだ……」


 騙されていないのなら、ヴィオラが心から望んであの男の元に残っているのだと、そういうことになってしまう。

 今更ヴィオラが魔族の、魔王の死を望んでいなかったなんて、そんなこと、言われても。


「っ違う、騙されて、いるんだ」

「勇者!!!」


 油断なく自分を取り囲む男たちを、レオンは見た。何本もの冷たい切先が、地面に座り込んだレオンの命を静かに狙っていた。


「何をしている!!」

 

 一切反応を示さないレオンに、1人の男が焦れたように槍を下ろした。慎重に輪の中心に入ってきた男は、やや躊躇った後、レオンの襟元へと手を伸ばす。


 その男が屈んだ拍子に、肩から結ばれた黒髪がこぼれ落ちた。


 目の前で揺れる長い黒髪を、レオンは見た。

 かっと頭が白く染まった。震える手が、出番を得たとばかりに動き出す。


「魔族が!」


 止まれなかった。

 彼らは、魔族は、魔王は、ヴィオラを騙している。


「僕に触れるな!!」


 ぱん、と肌を打つ乾いた音が、寒々しい廊下に木霊した。

 


 ◇



「レオン! いたら返事しなさい!」


 廊下を走りながら、ヴィオラは苛立ちを吐き出すように叫んだ。

 あまり見て気持ちの良い光景ではなかったと思うし、それは申し訳なく思うが、だからと言ってあれはヴィオラが始めたことでもない。

 いきなり飛び出されると困るのだ。だって、まだレオンを単独で城を歩かせられない。魔王城はヴィオラにとっては優しい場所だが、全ての人間にとってそうではないし、勇者ともなれば尚更だ。


「レオン!!」


 思い切り声を張り上げた時、慌ただしい物音と怒号を、ヴィオラの耳は捉えた。まさか、と音の聞こえる方に向かって走っていく。

 そして廊下を曲がった先に立っていたのは、思いつく限り最悪の光景だった。


 廊下に座り込んだレオンと、それを取り囲んで真っ直ぐに槍を向ける男たち。その背に庇われているのは1人の男で、信じられないというように自分の手を見下ろしているようだった。

 その手が酷く腫れ始めているのを確認して、ヴィオラは思わず叫ぶ。


「どうなってるの!?」

「ヴィオラさん」


 男たちの表情は、ヴィオラを見ても変わらなかった。頑なに敵意だけを持って、レオンを見つめていた。

 手早く説明された事情を聞いて、ヴィオラは言葉を失う。レオンは、何もしていない相手に手を上げるような人ではないはず。何か事情があったとしか思えない。

 けれど今それを言うことが悪手でしかないことは、ヴィオラでも分かる。口をついて溢れそうな言葉を飲み込んだところで、レオンが声を漏らした。


「ヴィオラをここから解放しろ」


 レオンの言葉に、男たちは顔を見合わせた。だがそれも一瞬のことで、ヴィオラに背を向けたまま、男たちは唸るような声で言った。


「だそうだ、ヴィオラさん。さっきからこれしか言わん」


 つかつかとレオンに近づいたヴィオラは、じっとレオンを見つめる。


「レオン。何回も言わせないで、私がここにいるのは私の意思よ」

「それも、言わされているんだよ!」

「違うわよ!」


 ぐいとスカートを引っ張って、足音高くヴィオラはレオンに近づこうとする。一発殴ってやらないと気が済まない。

 だがそれは、レオンの周りを取り囲む男たちによって阻まれた。


「ヴィオラさんでも、結局は人間なんだな。勇者を殺されるわけにはいかない、ってか」


 さすがにかっとなった。怒鳴り返そうと口を開きかけた時、レオンがばっと顔を上げる。


「ヴィオラを侮辱するな、魔族が!」

「やめなさい!!」


 思い切り、ヴィオラは目の前の男を叩いた。大した力ではないだろうに、意表をつかれたのだろう、わずかに人垣が緩む。その隙間を縫ってレオンの近くへと歩み寄ったヴィオラは、躊躇いなく腕を掴み上げた。


「レオン! 魔族とか人間とか、そういうのにいつまで囚われてるつもりよ!」

「……」

「本当は分かってるんでしょ! ここにいる人たちは、私たち人間が教えられてきた、残虐非道な奴らなんかじゃない! どうしてそんなに頑ななのよ!」

「……ヴィオラ」


 ヴィオラを見上げたその顔を見て、ヴィオラの手から力が抜けた。

 泣き出しそうな、諦めたような、そんな顔。青い目がヴィオラを捉えて、すうっと涙が溢れた。


「なんで、そこで泣くのよ。意味が分からないわ」

「うん、ごめん。君が正しいんだ」


 ぐ、とヴィオラを人垣の外へ押し出したレオンに、ヴィオラはよろけて数歩下がる。その瞬間、目の前の人垣が閉じた。


「ちょっと!」

「殺して。ヴィオラが本心からここにいるなら、勇者ぼくは邪魔なだけだ」

「レオン!」

「だそうだ、ヴィオラさん。……殺すな、とは言わないよな。貴女は、魔族我らの味方のはずだ」


 一歩足を踏み出して、何か言葉を発そうと口を開いた。

 ヴィオラはノクスに言った。レオンを魔王城に殺さずに迎え入れるのは、レオンから情報を引き出すためだと。けれど今それを口にしたところで、きっとひどい詭弁にしか聞こえない。

 それに。それならヴィオラがあの時レオンの命を助けるように言ったのが、本当に利用するためだけだったかと問われたら、ヴィオラはきっと頷けない。


 魔族のみんなが好きだ。でも勇者レオンも大事な友人だ。それは、許されないことなのだろうか。


 ヴィオラの無言を肯定と取ったのだろう。男たちが、無感情な瞳で槍を振り上げる。その穂先を、レオンは静かに微笑んで見つめていた。

 その時だった。


「やめろ」


 その一言で、誰もが動けなくなった。

 呆然と立ち尽くす男たちの前に現れたノクスは、状況を一瞥すると、煩わしそうに溜め息をつく。


「何度も言わせるな。俺の客人だ」


 その言葉に呪縛が解けたように、男たちは槍を下ろした。その中心で呆然と座り込むレオンを一瞥し、ノクスは黙って立ち去ろうとする。


「待ってくれ」


 呼び止めたのは、レオンだった。ノクスの背に向かって、レオンは問う。


「なぜ僕を助けたんだ?」

「勘違いするな、お前に興味はない」


 そこで言葉を切ったノクスは、ゆっくりと歩き出しながら呟く。


「お前が死んだら、ヴィオラが悲しむ」

「……はは」


 疲れたように、レオンが笑った。


「僕と同じってわけ?」

「さあな」


 去っていったノクスを見つめていたレオンが、ふ、と吐息を溢した。


「敵わない、な」

「レオン」

「ごめんヴィオラ」


 ヴィオラは黙ってレオンへと近づくと、座り込んで目線を合わせる。


「僕が間違ってた。君は本心でここにいる。……あんな男がいれば、いたくもなるよね」

「ノクスだけが理由じゃないけどね」


 小さく微笑んだヴィオラは、レオンの顔を覗き込む。

 取り繕ったかのように浮かべられていた綺麗な笑顔が抜け落ちた表情は、痛みを伴ってこそいるが今までで一番自然だった。


「私はここにいるみんなが好きだからここにいる。それだけ。だからね、レオン」


 レオンに顔を近づけて、ヴィオラは笑った。


「私はわがままなの。魔王城の大事な人たちと、レオンの命のどっちかを選ぶなんてしたくない。私はどっちも欲しい。……協力してくれる?」


 ヴィオラの問いに、驚いたように目を瞬かせたレオンは、少し置いて、ゆっくりと頷いた。

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