第2話 魔王との邂逅
魔王の視線が、ヴィオラの結界を捉えた。煩わしそうに目を細めた魔王は、無造作に手を持ち上げる。どんな魔法が放たれるかなどヴィオラには分からないが、その先に待ち受ける運命は間違いなく死。
「なんか、ねえ?」
ヴィオラは呟く。
だらりと身体の両側に垂らされていた手に、ぎゅ、と力が入った。
死ぬかもしれないとは思っていた。けれど。
「あんな奴らを生き延びさせるために死ぬなんて、なんか癪じゃない!?」
ヴィオラが手を掲げた瞬間、今にも壊れそうに震えていた結界が跡形もなく消えた。
自ら結界を解くとは思っていなかったのだろう、魔王が一瞬動きを止める。その隙をついて、ヴィオラは自らの身体に手を伸ばす。
ヴィオラの淡い紫の瞳と、真紅の瞳が絡み合う。
一拍置いて、魔王は聞いた。
「……そこの女、何をしている?」
「何って、色仕掛けだけど」
「この俺に? お前如きが?」
「仮にも女性に向かって失礼じゃない? ラーラ……逃げた回復術士の女ほどじゃないけど、私もそれなりに胸はあると思うんだけど」
はらり、と纏っていた白いローブが地面に落ちる。
薄手の軽装になったヴィオラは、さらに腰のベルトへと手を伸ばした。
「ほう?」
その声が聞こえた、と思った時には、もう眼前まで魔王の顔が迫っていて。
現実を認識した時には、ヴィオラの身体はぴくりとも動かなくなっていた。
その、威圧感。
少しでも逆鱗に触れれば、ほんのわずかでも刺激すれば、ヴィオラの命は容易く消える。それをヴィオラは理屈ではなく、肌で感じた。
けれど魔王は、その予感に反して、楽しげに口元を歪めた。
「色仕掛けか、面白い。切り掛かってきた人間は星の数ほどいたが、色仕掛けを試みた人間は初めてだ」
「だったら、乗ってくれる?」
「それは俺が色を好むと聞いての行動か? ならば、少しばかり情報が足りていないようだな」
ぴたり、と魔王の手がヴィオラの首筋に添えられる。その冷たさは人のものとは思えず、ヴィオラは目の前の男が人間ではないことを改めて悟った。ちくり、と刺すような感触が走ったのは、鋭く尖った爪か。
「俺は色を好むが、相手は選ぶ。決死の覚悟だったようだが残念だったな」
「残念。なら次の手があるんだけど」
「ほう?」
「取引する、というのはどうかしら?」
真紅の瞳が、一度大きく見開かれた。そのまま魔王はぴたりと動きを止める。
そして、笑った。
低く唸るようだった笑い声は、次第に哄笑へと変わる。
その目に宿る呆れたような光をそのままに、魔王は悠々と口にした。
「お前が? この俺と?」
「それ以外にある?」
「では聞いて差し上げよう、お前が俺の望むものを持ち合わせているとでも?」
「うーん、家政婦?」
「……は?」
ヴィオラは唇を尖らせると、腰に手を当てて言い返す。
「私の料理、そこそこ評判なんだけど。ほら、これとかどう?」
懐を探って小さな袋を取り出したヴィオラは、それを魔王に向かって放り投げる。
中身は砂糖で漬けて乾燥させたリンゴだ。日持ちが効くので運良く持ち歩いていたが、今食べられるものといえばこれくらいしかない。
もしかしたらこれが気に入ってくれたり、という淡い期待は叶わず、魔王は無感情な瞳で投げられた袋が地面に落ちるのを見ていた。暗い地面に投げ出された淡い紫色に、ヴィオラは軽く頬を膨らませた。
「ひどいわね。森の中では甘味は貴重なのよ……って待って、魔王様って食事するの?」
「そのくだらない質問に俺に答えろと?」
「いやなんか、こう、ふわあっと魔法の力で活動できるのかなって」
「魔法は万能でないことも知らないほどの無能なのか?」
「それくらいは知ってるけど、魔王様くらいになれば、もう世界の理とか関係ないかなって」
「……世界の理を外れた、ねえ」
その言葉に一瞬の含みを感じ取って、ヴィオラはわずかに視線を上げた。瞬間、真紅の目がぴたりとヴィオラを捉える。
その両眼は、ただヴィオラの答えを待っているように思えた。
「……少なくとも、人の道は外れているんじゃない? こうしてか弱い無抵抗の回復術士を八つ裂きにしようとしているんだから」
「全く、不愉快だ」
すっと目を細めた魔王は、ヴィオラを睨みつける。す、と周囲の温度が下がった。
「この俺が、意味もなく人間を殺すと?」
「違うの?」
「違う。そんなくだらないことをして何になる」
「人をゴミのように殺すのが楽しい?」
「俺がそこまで歪んでいるように見えるか?」
じっとヴィオラは魔王を見つめた。表情は動かさないまま、魔王は微かに首を傾げる。
「分からないけど、でも、私を消せば魔王様を殺そうとする戦力が減るでしょ」
「お前ら如きがどれだけ集まろうと俺は殺せん」
「随分な自信じゃない」
「事実だ」
ふ、と魔王は息を漏らすと、微かに口元を笑みの形に釣り上げる。
「だがどうやら、人間は俺を理性のない獣か何かだと思っているらしい」
「へえ」
「聞いておきながら、随分と気のない反応だな」
「殺されないなら良いと思って。色仕掛けしただけ損だったわ。帰っていいかしら?」
そうだな、と魔王は呟いた。
「気が変わった」
言うなれば、纏う空気が変わった感覚。すっと魔王の表情が凪ぎ、真紅の瞳が平坦にヴィオラを見つめる。
「お前は、殺す」
「……意味がわからないんだけど。今のは見逃す流れでしょう?」
「知るか」
「殺されるのはいいけど、いや全然よくないけど、とりあえず理由を聞いてもいい?」
「お前が言っただろう、この世の理だ。先に不可侵を侵したのはお前ら人間だ、その覚悟はしていて当然だろう?」
「そうね。でも――」
「身の程を弁えろ。……俺が殺したいと思った以外に理由が必要か?」
その目に光る冷徹な色に、ヴィオラはその男の本気を悟った。
魔王は間違いなくヴィオラを殺す気でいるし、事実、それを実行することは赤子の手をひねるより簡単なことだろう。ヴィオラの何がその男を刺激したのかは全く分からない、けれど。
「だったら、最初にも言ったけど、取引をしましょう」
今度は、魔王は笑わなかった。
「良いだろう。話せ」
かすかに顎を持ち上げた高飛車な姿勢で、魔王はヴィオラを見下ろしていた。
その目を見つめ返して、ヴィオラは平然と言った。
「私が、魔王様を守ってあげる」
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