魔王の最愛 〜囮として見捨てられた回復術士、魔王城で餌付けを始める
細波
第一章 魔王城の料理長
第1話 5年越しの溺愛
「――遅い」
艶やかな低い声に、ヴィオラはひどく重い瞼をこじ開ける。
視界に飛び込んでくる漆黒の髪。ヴィオラの横たわる寝台の隣に据えられた簡素な椅子に、1人の男が腰掛けていた。
少しずつ意識がはっきりしてきたヴィオラは、混乱のままに呟く。
「……あれ、私、生きてる?」
確かに見たはずだった。この男――魔王を庇って身を投げ出した直後、銀色の刃が自分の胸を突き通した瞬間を。辺りに飛び散り、この美しい人を染め上げた自らの鮮血を。
「目覚めて初めに言うことがそれか。全く、この俺を5年も待たせるとは良い度胸だ」
「……5年? 何の話?」
「お前、普段から惰眠を貪っていないで少しは身体を鍛えろ。俺の全力で目覚めるまで5年とは、脆すぎるにも程がある」
「ノクス、待って。正直、全然状況が分からないというか――っ!?」
その先の言葉は、男の唇の中へとあえなく消えた。
男が立ち上がった勢いで吹き飛んだ椅子が、壁に衝突し、耳障りな音を立てる。
必死にその胸を押して抵抗するも、ヴィオラの力如きで魔族最強と謳われるこの男を押し除けられるはずがない。
ようやくヴィオラが息をすることを許されたのは、好き勝手にヴィオラの口内を荒らしていった舌が、銀の糸を引きながら離れていった時だった。
おかしい、とヴィオラは思う。
ヴィオラはただの魔王城の居候。偵察部隊に囮として見捨てられて、死ぬよりはと強引に魔王城に転がり込んだ、どこにでもいるような回復術士。
その、はずなのに。
至近距離で、真紅の瞳がすうっと細められる。
濡れた唇を淫靡に歪め、掠れた声で男は囁いた。
「ヴィオラ。――もう二度と、俺の前から勝手に消えることは許さない」
おかしい、と再びヴィオラは思う。
この男はこんな性格ではなかったはずだ。ヴィオラたちの関係も、あくまで取引の上に結ばれたものだったはず。
だって、初めて出会った時、この男は傲岸不遜に言ってのけたのだ。
「お前の言う勇者が魔王城へ現れたら、俺を庇って死ね。名誉なことだろう?」
◇
――それは、5年と少し前の話。
「ヴィオラ、きみの仇は必ず討つよ、安心してくれ!」
「私、まだ死んでないけど」
「今までありがとう。ここまで僕たちが来られたのは、ヴィオラのおかげだ。最高の仲間だったよ!」
「最高の家政婦の間違いじゃないかしら?」
「本当にありがとう! ヴィオラ! きみのことは忘れないよ!」
この話は終わり、とばかりに会話を打ち切り、長剣を背負った男が走っていく。その後ろ姿をぼんやりと見つめながら、ヴィオラは溜め息をついた。
「最高の仲間、ね。笑えるわ」
全くどの口が、と漏らした言葉は走っていった男には届かない。
あの決め台詞を言う前、ヴィオラと同じ回復術士のラーラにヴィオラの名前をしっかり聞いていたことを、ヴィオラは知っている。ちなみにラーラは金髪碧眼、童顔小柄で巨乳の美少女だ。あの男の鼻の下がしっかりはっきり伸びていたことも、ヴィオラは知っている。
「こんなことになるなら、もうちょっと人間関係を築いておくべきだったかしら」
口ではそう言ってみるも、無理だということは分かっている。ヴィオラがこの偵察部隊に配属された時には既に、男性陣は皆ラーラに首ったけで、ヴィオラの話を聞こうともしない。ヴィオラのことを自動調理器具、兼回復薬か何かだと思っているのは最初から明白だった。
「きゃっ!」
「ラーラちゃん! 僕に捕まって」
白々しい会話が聞こえてくる。もうさっさといなくなってほしい、とヴィオラは悪態をつきそうになる口を押さえた。
こうしている間にも、少しずつ周囲の温度が下がっている。魔王はもう近い。ヴィオラの張っている結界が破られるのも時間の問題だろう。
まさか本当に魔王に遭遇するとは、正直思ってもいなかった。いつも通り、探しましたがいませんでしたー、の定例報告で終わると誰もが思っていたのだ。
その結果がこれだ。全く準備のない状態での、唯一魔王に攻撃できるという勇者も無しでの、偶然の遭遇。しかも既に向こうにはばっちり気が付かれているだろう。囮を立てて残りは逃げる、というのは、まあ合理的と言えば合理的だ。
仲間を助けるため、と言えば格好良い。あの男の最後の台詞と合わせれば、巷で流行りの「ここは俺に任せて先に行け!」になるのかもしれない。立候補制でないところがふざけているとしか思えないが。
「あー、おっかしい」
ぴしり、と結界にひびが入る音がした。持ってあと数十秒か。最期に見た顔があの男とラーラとは、とヴィオラは肩をすくめた。
ぱらぱらと、光の粉となって結界の破片が降ってくる。
「……これは、死んだ、かしらね」
そう呟いた瞬間、ヴィオラは結界の向こうに3人の男の姿を捉えた。
2人の男に挟まれるようにして、すらりとした長身の男が立っている。その髪は黒、瞳は真紅。街ですれ違ったら、あっという間に女性の塊ができそうな美貌だった。だが、その頭部から伸びる黒光りした雄々しい角が、その男が明らかに人間ではないことを知らしめている。
今まで魔王に遭遇して帰ったものはいないのだから、知られていないのは当然だったが、まさかこんなにも美しい生き物だとは。
自分の置かれた状況も忘れて、ヴィオラは魔王の姿をしげしげと見つめた。
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