第6話 掴みたい胃袋
す、と。
無言で細められた真紅の瞳が怖い。
「あ、あの魔王様……ごめんなさい!!」
「……」
「でも悪気はなくて! 確かに私の不注意のせいで、それは弁解のしようがないけど、私にも私なりの事情があってね」
「……」
何を言っても凍りついたように口を開こうとしない男を前に、ヴィオラの背筋が冷える。
まさか殺したりはしないだろうが。そうだとしたら気が短すぎる。
でもヴィオラの命が、目の前のとにかく怒っているらしい男の手のひらの上にあるのは紛れもない事実。
「……お前、」
「女!!!!」
魔王が口を開きかけたのと、廊下を震わせる勢いの大声が響き渡ったのは同時だった。
耳が弾け飛びそうなイグナーツの声に、感情を宿さない瞳が遠くに向けられる。その瞬間、廊下を曲がって、イグナーツがヴィオラたちの前に飛び込んできた。
「おん――っ! ん゛んっ、え、あー、……魔王様!」
「イグナーツ、もう手遅れだと思うわ」
「魔王様! おはようございます! 本日も大変お美しいご尊顔、このイグナーツ、感涙の極みです」
「え、私の時と態度の差ひどくない?」
ヴィオラの声は、どうやらイグナーツには一切聞こえていないようだ。ぴしりと背中に板でも入っているかのように直立したイグナーツは、じっと魔王の言葉を待つ。
「イグナーツ! いましたかあのおん――っ! え、えー、魔王様。お早う御座います」
「アルノルト、それも手遅れだと思うけど」
2本の目を一身に受けて、魔王は小さく息を吐き出した。
「イグナーツ、アルノルト、朝から随分と元気なようだな」
「はっ! 元気だけが取り柄でっ!?」
後ろから、アルノルトはイグナーツの脇腹に肘を突き込んで黙らせる。
乱れた髪を神経質に整えたアルノルトは、一歩前に出ると頭を下げた。
「魔王様。早朝から申し訳御座いません」
「ああ」
「魔王様! そこの女に何かされたりなどは! もし御身に何かあれば、私は――」
ヴィオラはひょいと目を逸らした。
魔王城から見る空はあまり綺麗ではない。曇っている上に、その雲がどことなく赤みを帯びているのだ。雲の前を行き交う鳥も、おそらくは魔獣の一種だろう。
黙っていても、後ろから突き刺さる視線を感じる。温度のないそれは、振り返らなくても分かる、魔王のものだ。
そんな2人の様子を見比べていたイグナーツは、突如叫んだ。
「女貴様!!!!!」
背中でばさりと羽が動き、その拍子に近くの扉が不穏な音を立てる。唯一静かなのは、先ほどの装飾が施された重そうな扉くらいだ。びゅうびゅうと吹き荒れる風に、ヴィオラは乱れていく髪を抑えた。
「イグナーツ、この俺に同じことを二度言わせるのか?」
「も、申し訳ございません! しかし、」
「良い。俺が聞く」
悪寒がして、ヴィオラは一歩下がる。そのまま背を向けて走り出そうと思った瞬間に、足首に何かが絡みつくような感触があった。
驚いて見下ろすも、見た目には特に変化はない。けれど見えないそれは確かにヴィオラの足を地面に縫い付け、逃げ出せないようにしていた。
犯人など1人しかいない。恐る恐る魔王を見上げたヴィオラは、曖昧に笑った。
「ごめんなさい。次から気をつけるわ」
「この俺に衝突しておいて謝って済ませようとは良い度胸だな」
「え、これだけだと足りない? あ」
どうすれば良いかと視線を巡らせたヴィオラは、結局手に持ったままになっていた包みの存在を思い出す。それと同時に、その本題も。
包みを両手で差し出して、ヴィオラは首を傾げる。
「これで許してくれたりしないかしら? 朝食のお裾分け」
一瞬で、魔王の眉間に皺が寄った。
叫び出しそうになったイグナーツの口を、黙ってアルノルトが押さえつけると羽交い締めにする。
「……なるほど、巧妙な手口だ」
「えっと、毒殺を疑ってる? 私、魔王様に毒が効くなんて全然思ってないけど」
「それを俺がお前如きに教えるとでも?」
「別に教えなくていいよ、魔王様を暗殺できるかどうかとか興味ないし」
ゆっくりと包みを解いたヴィオラは、やや冷めているものの未だ良い匂いを漂わせる二つのパンを見せる。
「これ、一緒に食べない? お詫びというか、本当はこれを食べてほしくて魔王様を探してたんだけど」
「……」
黙ったまま、男は踵を返した。
もはやヴィオラなど眼中にないとばかりに歩き出す。
「ちょっと、魔王様! いくら魔王様といえども、それはさすがに失礼だと思わない? 私は思う!」
「……」
「魔王様、魔王様!」
先ほどの重厚な扉に魔王が近づくと、触れることもなくするりと扉が開く。
その奥は暗闇に包まれていて、室内がどうなっているかはヴィオラの位置からは見えなかった。それでも迷うことなく足を踏み出そうとした魔王に、ヴィオラは咄嗟に男の手を掴む。
半ば暗闇に包まれかけていた顔が、一気に驚愕の表情に歪んだ。
その反応の激烈さに、驚いたヴィオラもぱっと手を離す。
「ごめんなさい、触れてほしくなかった? 気分を害したなら謝るわ」
「……お前は」
先ほどの温度のない声とは違う。
わずかに困惑の滲むその声に、ヴィオラは勝利を感じた。
「何を考えている?」
「魔王様にこれを食べてもらうこと」
「そんな酔狂なことをわざわざする理由は何だ?」
「酔狂かな?」
もう一度魔王の手を掴み、部屋に入りかけていた半身を外へと引っ張り出す。
両手でもう一度包みを差し出したヴィオラは、にこりと笑った。
「誰かに私のご飯を美味しいって言ってもらうって、幸せじゃない? それに、誰かと一緒に食べた方が、ご飯は美味しいでしょ」
「……」
「あの時、私言ったわよね。この際だから、思いっきり楽しませてもらうって。だから、私は私のしたいことをすることにしたの」
「俺の気分を害したら、楽しむどころではなくなるだろうがな」
「魔王様は確かに心狭いけど、その程度で私を殺すとは思えない。それに、1回これ食べてみて。そうしたら、あまりの美味しさに、私を殺そうなんて気持ちは綺麗さっぱり消えるわ」
「最初からそれが狙いか。大した自信だな」
「そういう気持ちがあったことは否定しないけど」
魔王から手を離したヴィオラは、さっと自分の分を取ると、残りを包みごと魔王へと差し出す。
「私は魔王様に美味しいと言わせないと気が済まなくなったのよ」
「くだらんな」
「ほら、そういうこと言う。でもそういう人が思わず美味いって言っちゃうくらいの料理を作ってやろうと思うと、燃えるわよね」
ひどく強引な手つきで、ヴィオラは男の手へと包みを押し込んだ。
アルノルトがイグナーツを拘束しているうちに、とヴィオラは踵を返す。
「あげる。感想は期待していないけど、食べてよね。せっかく作ったんだから」
「……」
黙ったままの魔王を気にすることなく、ヴィオラは走り出した。またイグナーツやアルノルトが追いかけてきたら困る。もう追いかけっこはうんざりだし、ヴィオラはいい加減落ち着いて朝ごはんが食べたい。
走って走って、廊下を曲がったところでヴィオラは足を止める。ちょうど廊下の奥に立っていた謎の胸像が、ヴィオラを見つめ返していた。
「……ここ、どこ?」
魔王城は、広い。
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