第20話 暗闇の中

「ヴィオラ」


 暗闇の中から響いてくる、艶めいた低い声。

 それを聞いた瞬間、扉へと全力で走り出そうとしたヴィオラの足首を、何かが掴んだ。何か、なんて考えるまでもない。ノクスの手だ。

 つんのめり、頭から倒れ込みそうになったヴィオラを、力強く支える腕。だがヴィオラは騙されない。元々どうして転ぶような事態になったのか。それは、今平然とヴィオラを抱き止めている男のせいだ。


「お礼は言わないわよ。ノクス、教えて。あの胸像は何?」

「何、とは?」

「生きてるの? あなたの家来か何か?」

「さあ? どうだろうな」

「答える気はないってことね」


 ヴィオラは一瞬でも早く腕の中から逃げ出そうともがく。ノクスの気を逸らそうと、関係のない話題を続けながら。


「ねえノクス、あの後レオンはどうなったの?」

「……は?」


 しかし、それは愚問だったようだった。

 ヴィオラを抱く腕に一気に力が入り、部屋の空気がちりりと焦げるような気配がする。明らかに苛立った様子の男に、ヴィオラは自らの失言を悟った。


「丁度良い、お前が目覚めたら聞こうと思っていた。あの男とお前はどういう関係だ」

「知り合いって、最初に言ったでしょ? だからノクスとあの取引ができた。覚えてないの? ノクスともあろう人が?」

「覚えている。だが本当に知り合いか?」

「何、実は知ったかぶりをしていたって言いたいの? 向こうだって私に気づいていたでしょ、れっきとした知り合いよ」

「違う」


 ノクスの腕に力が入り、無理やりヴィオラを上向かせる。嘘は許さないとばかりに至近距離で真紅の光を浴びせられ、ヴィオラは咄嗟に逸らしたくなる視線を抑え込んだ。ここで目を逸らしたら、本当に嘘をついているみたいだ。


「恋人か?」

「……え?」


 想像もつかない質問に、ヴィオラは間の抜けた声を漏らす。


「恋人? 何言ってるの、レオンにとっては私なんて大量にいる回復術士の中の1人よ」

「あの男は、お前を助けにきたと言っていた。そんな方便を俺が信じるとでも?」

「使命感の強い人だから。昔からそうだったのよ」

「昔?」

「魔王討伐部隊として訓練を受けていた時。勇者の仕事なのよ、各施設を回って鼓舞するのが」

「帰りたくなったか」

「え?」

「勇者に会った時だ」

 

その意図するところが分からず、目を瞬かせたヴィオラの頬を、ノクスが乱暴につついた。


「分からないなら良い」

「……ああ、人間の国に帰りたいかどうかってこと? それなら全然。私は魔王城ここが好きなの。ねえ、嬉しい?」

「ああ」


 迷いない肯定に、からかったつもりのヴィオラとしては沈黙するしかない。なんとも言えない空気を先に破ったのは、ノクスだった。

 

「もう一度問う。帰りたくはないんだな?」

「また? それなら帰りたいと言ったら、帰してくれるの?」

「そう思うか?」

「全く」

「分かっているなら聞くな。逃してなどやるか」


 唇を尖らせたヴィオラから表情を隠すように、ノクスは強くヴィオラを抱きしめた。


「ちょ、ノクス?」

「勇者は生きて帰った。俺が正気を取り戻した時にはもう消えていた。全く、この俺最大の失態だ」


 ヴィオラの首筋に顔を埋めて、ノクスは深く息を吸う。


「お前を刺され、頭に血が上った。その姿を勇者が見て、国王へ報告したようだ。……今やお前は、この俺の唯一の弱点だと思われている」

「待って、全然知らない話なんだけど」

「全てお前が寝ていた5年の間のことだ」


 平坦に話していたノクスの声に、わずかに感情が乗る。

 怒りと後悔を滲ませたようなその震える声に、ヴィオラは息を止めて聞くことしかできない。


「国王は、これを好機と見ている。お前の元パーティーメンバーを名乗るものが表立って部隊を組み始めた。勇者の攻撃もしつこい。偵察部隊の数も増えた。最近騒がしいのはそのためだ」

「でも、私が生きているって、国王は知っているの? 普通あの傷じゃ生き残れないわよ」

「知らない。だがそれこそが好機だ。俺の心につけいる隙ができたと。そういう時期もあった、仕方がない」

「5年も経ってるのよね?」

「5年だぞ? もしお前が死んでいたら、5年程度で俺がお前を忘れるとでも? 随分と舐められたものだな」


 ヴィオラから離れたノクスは、ゆっくりとその手を取った。真っ直ぐに、紅玉の瞳がヴィオラを捉える。


「だが心配することはない。この俺がお前を守るんだ、指一本触れさせてたまるか」

「ノクスには危険はないの?」

「は?」


 本気で意外だったのだろう。しばし固まっていたノクスだったが、やがて腹立たしいというように頭を振る。


「この俺が、勇者如きに傷つけられるとお前は言うのか」

「そうは思ってないわよ。でもそれと心配するかどうかは違う話じゃない?」

「心配は、侮りも同然だろう」

「愛情と一緒よ」


 咄嗟に言い返したヴィオラは、慌てて自らの口を塞ぐ。今、何を口走った。

 暗闇の中でも、目の前のノクスの頬が上気したのが分かった。


「ヴィオラ」


 名を呼ぶ声が、明らかな熱を灯す。


「ヴィオラ。……いつまで気づかないふりをする」

「気づかないふり、って」

「この俺の感情に、気づいていないとは言わせない」

「そ、れは」


 口籠るヴィオラの肩を、ノクスは軽く押した。なすすべなく寝台へと倒れ込んだヴィオラに、すぐにノクスが覆い被さってくる。美しい黒髪の奥で、天蓋から垂れ下がる真紅のカーテンが揺れた。


「安心しろ、何もしない。当然俺はお前が欲しいが、お前は大切にして甘やかしてくれる人の方が好き、なのだろう?」

「……何で覚えてるのよ」

「お前の男の好みを忘れるより、魔法の一つや二つ、忘れる方が早いだろうな」

「あれはその、その場の勢いというか方便というか! 無理やりそういうことしようとするノクスに腹が立ったから! というかあの時のあれ、なんだったのよ。普段からあんなに節操ないの?」

「ひどい誤解だな。相手は選ぶと言ったはずだ」

「私なのに?」

「お前だからだ」


 その腕と流れ落ちる髪の毛の中にヴィオラを閉じ込めたノクスは、ゆらりと笑う。


「言葉にしないと分からないか?」

「そういうことじゃなくて。急に変わりすぎて、全然信じられないのよ」

「5年もあれば変わる」

「ノクスにとっては5年でも、私にとっては一瞬なの。何か裏があると言われた方が納得できるわ」

「それならば、信じさせるまでだな」


 手始めに、と呟いたノクスは、流れるようにヴィオラの唇を奪った。

 何度目になるかも分からない口付け。ひんやりとして柔らかい感触と、流れ込んでくる痺れるような甘さには、まだ慣れない。慣れるわけがない。


「俺は本気だ。すぐに信じさせてやるから、せいぜい頑張ると良い」


 暗闇の中うっそりと目を細めて笑う男に、ヴィオラは逃げ道が完全に絶たれたことを知った。


「ノク――」


 ばん、と凄まじい音を立てて、扉が開かれる。

 

「魔王様! ご報告が――」


 イグナーツの声が、途中で途切れる。


「どうしました、イグナーツ。何か中に――」


 後を追うように入ってきたアルノルトも、言葉を失って立ち尽くす。


 真っ暗な室内。ヴィオラを寝台へと押し倒し、その上に覆い被さるノクス。

 かっと耳まで赤くなったイグナーツが、よろよろと後ろに下がっていく。そのままアルノルトにぶつかるが、アルノルトも岩のように動かない。


「ち、違うのよ」


 焦ったように無言で部屋を出て行こうとする2人に向かって、ヴィオラは叫ぶ。


「誤解なのよ!! 信じて!!!!」


 イグナーツにも匹敵するような、魔王城中に響く大声だった。

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