第19話 意識しろ

 ヴィオラの大好きな光景が、そこにある。


 大ホールの大きな机を囲む者たちと、その中心で寡黙ながらも和らいだ表情をしているノクス。

 ずっと寝ていたヴィオラからすればそこまで昔のこととは思えないのだが、感極まって涙を流すものもいる。不思議な心地がした。


「正直、私がここまで好かれているなんて、思ってもいなかったわ」

「君は魔王城の住人の胃袋を握りしめているからね」


 ヴィオラの隣に立ってその光景を見つめていたレスターが苦笑する。


「君が目覚めなくなってからというもの、厨房への苦情が殺到したよ」

「そんなに再現の難しい料理だったかしら?」

「あの頃は君の料理を覚えようというよりも、ただ君の手足になっていただけだったからね。作ってみても、君の味に慣れた舌では食べられたものじゃなかった」

「そう?」

「ああ。それに魔王様が……いや、やめておこう」

「そんなところで切られると気になるわよ」


 もしかしたら、これは聞いてみるチャンスなのかもしれない。

 レスターを横目で見上げたヴィオラは、努めて冷静を装って問いかける。


「ノクスの様子、おかしいと思わない?」

「おかしい、かい?」

「ええ。まるで別人みたいで」

「別人……って、まさか無自覚なのか」


 なんとも言えない微妙な顔で黙ったレスターに、ヴィオラは妙なことを言ってしまったかと焦る。

 だって、眠りにつく前はこんな感じではなかったのだ。美味しいと言わせたいばかりにしつこく絡むヴィオラを、呆れた顔と冷たい目と皮肉で撃退し続ける男。そんな感じだった。

 間違っても、熱を帯びた目でヴィオラを抱きしめるような、そんな男ではなかったはずだ。何か裏があると言われた方が、まだ納得できる。

 そんなことを熱弁したヴィオラに、さらに微妙な顔になったレスターが溜め息をついた。


「……僕は何を聞かされているんだろうね」

「そんなに変なことを言った? だって明らかにおかしいじゃない。レスターさんはそう思わないの?」

「思わないが、これ以上君に何かを言ったら魔王様が怖い。勘弁してくれ」


 これ以上の追及はごめんだとばかりに顔を逸らし、厨房へと消えていくレスターを、ヴィオラは唇を尖らせて見つめる。

 誰も彼もがこうだ。ノクスの不審な様子について問いただそうにも、ヴィオラが話しかけると貝のように口をつぐんでしまう。魔王様に聞いてくれ、魔王様が怖い、と言うばかりだ。


「ヴィオラ」


 突然かけられた声に驚いて顔を上げれば、ヴィオラの隣の壁に、まるでそうするのが当然かのように、ノクスが寄りかかった。いつの間に。今の今まで、アルノルトと静かに肉を取り合っていたはずだ。


「ノクス」


 やや緊張の滲んだヴィオラの声に、ノクスは肩をすくめる。


「俺はそんなにお前に警戒されるようなことをしたか?」

「あれで警戒しなかったらおかしいわよ」

「俺は変わらず心のままに振る舞うだけだ」

「そういうところ、変わってないわね」


 ヴィオラの言葉に、楽しそうに笑ったノクスがすっと腕を伸ばす。

 壁に手をついたノクスは、向かい合ってヴィオラを囲い込むような格好で動きを止めた。息がかかりそうな距離から整った顔に見下ろされ、ヴィオラの心臓が一度跳ねる。

 おかしい。本当に、おかしい。


「顔が赤いな」

「気のせいよ」

「まあそう意地になるな」

「なってない!」


 ヴィオラの髪を一房掬い上げたノクスは、その栗色の髪へ口元を寄せる。わざとらしく音を立てて口づけて、男はゆったりと流し目を送る。

 その破壊力を全て理解した上でノクスはやっているのだから、本当にたちが悪い。


 熱くなる頬。燃えそうな耳。

 こんなふうに男性に迫られたことなど、ない。

 自分に向けられる、何かを乞うように熱っぽい眼差しなど、知らない。


「ヴィオラ。ほら、俺を意識しろ」


 腰が砕けそうな囁き声。唇を一瞬湿らせて消えた赤い舌。しっとりと濡れた唇が、次に紡ぐ言葉を聞きたくなくて、次に気がついたときには視界が真っ黒になっていた。


「――っ!」


 目の前の男の胸に、思いっきり頭突きを喰らわせたヴィオラは、その隙をついて逃げ出す。

 凄まじい勢いで大ホールを飛び出していくヴィオラを呆然と見ていた男たちは、ゆっくりとその元凶であるノクスへと視線を戻した。

 そして皆、見なかったことにして顔を背けた。


 そこに立つ、頭突きを食らった胸に手を当て、完全に捕食者の目をしてゆったりと微笑むノクスの姿を。



 ◇



「は、はあっ……」


 走った。多分、人生で一番走った。

 高鳴る胸の音を走りすぎたせいにして、ヴィオラは疲れ果てて座り込む。なんだか、前にもこんなことがあった気がする。

 そして顔を上げた先で、例の胸像と目があった。


「胸像さん、お久しぶりね」


 振動。胸像に向かって言うのも変な話だが、驚いた様子もなくヴィオラの存在を受け入れる胸像に、ヴィオラは首を傾げた。丸5年訪れていなかったのだ。もう少し動揺しても良い気はする。


「今日は食べ物は持っていないの。ノクスから逃げてきたから」


 不満そうに、胸像が揺れる。立ち上がって胸像の隣へと座り込み、寄りかかるようにしてヴィオラはぼやいた。


「ノクスが何を考えているか分からないの」


 答えはない。それを気にすることもなく、ヴィオラはかつてのように胸像へと独り言を呟く。


「あんな、突然私を気にし始めたり……キス、したりとか。治療行為って言ってたけど、絶対そんなことない」


 あんなに楽しそうな顔をしたのだ。淡々とした治療行為な訳がない。


「ねえ、胸像さん、ノクスが考えていること、分かる?」


 胸像が瞬きした。けれどもう騙されない。あの時に目を閉じたら、いきなりノクスの寝台の上に放り投げられたのだ。

 あの時ならまだ良い。けれど今ノクスの寝台の上に飛ばされたりしたら、本気で貞操が危ない気がする。なんせ今のノクスからは、とんでもなく危険な匂いがする。

 目を閉じようとしないヴィオラに、胸像は苛立ったように目を瞬かせた。絶対に目を閉じてやるものかと、ヴィオラは胸像を睨み返す。


 かたや石像。かたや生身の人間。勝負は分かりきっている。

 目が乾いて乾いて、必死で堪えた筋肉が痙攣して一瞬ヴィオラの目が閉じられる。その瞬間に身体を覆うのは、慣れ親しんだ浮遊感。


 それが消えた時、身体の下に感じる柔らかい感触に、ヴィオラは最悪の予想が現実になったことを悟った。

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