終章8 傷心

 潮香はしばらく机の上に顔を伏せて泣き続けていたが、しばらくすると、別な番組の収録を終えた後輩アナウンサー達が続々と室内に入ってきた。潮香は泣いている姿を見られたくない一心で、溢れ出る涙をハンカチで必死に拭き取った。そして、握りしめてくしゃくしゃになったタブロイド紙を誰にも見られないように鞄に突っ込み、アナウンス室の外へと駆け出していった。

 廊下ではいつものように行き交う局員たちが「おはようございます」と元気のいい声で挨拶をしてくれた。しかし潮香には、彼らがいつもと違う目つきで潮香を見ているように感じた。いつもならば潮香を「朝の顔」として羨望の眼差しで見ているのに、今日はどこか軽蔑しているようかのように感じた。そして、陰の方から誰かがひそひそと小声で話し合っている言葉が聞こえてきた。


「ねえ、あの人って住吉アナよね……」

「脳に障害を持ってる人と付き合ってるんだってさ。立ったまま粗相するような人らしいよ」

「というか、聞いた噂だと、住吉アナって寺田さんと別れてその人を選んだんだってさ」

「ええ? マジで? ちょっとありえなくない?」

「普通なら、寺田さんと付き合って結婚するよね? 顔も性格も仕事もピカイチなのに。頭がおかしいとしか思えないわ」


 潮香は後ろを振り向き、噂話をしていた女子局員たちを真っ赤に泣きはらした目で睨みつけると、局員たちは苦笑いしながら蜘蛛の子を散らすかのように逃げ去っていった。

 潮香は大きなため息をつくと、重い足取りで玄関から外へと出て行った。しばらくは、局の建物の中に一歩たりとも入ろうとは思わなかった。

 玄関周辺で待機しているタクシーを捕まえて乗り込むと、潮香はアナウンサー仲間と一緒に作ったLINEグループを通し、他のアナウンサー達にメッセージを送った。


「皆さんにお聞きします。今回『週刊黎明』に私と岡部信彦さんの件について情報を流した方を知っていたら、教えてもらえますか? 私は全く心当たりがないので」


 潮香はメッセージを打ち込むと、車の天井を仰いだ。一体誰が、タブロイド紙の記者に情報を売ったのか? 潮香はどうしても確かめたかった。陰に隠れて姑息な手段で情報を拡散する人間を、心から許せなかった。

 しかし、仲間たちからは「知らない」という答えしか返ってこなかった。

 潮香は、一番最初に「信彦が好きだ」という気持ちを伝えたまどかに対し、改めて同じ質問をぶつけたが、「アナ仲間には潮香の好きな人のことを話したよ。でも、マスコミには一切何も話していないからね」と淡々と返信してきた。

 彼女たちは、本当に何もしていないのだろうか? 連絡を取った仲間たちはことごとく否定していたが、潮香は完全に彼女たちの言葉を信じているわけではなく、この中の誰かが情報を漏らした可能性は高いと考えていた。

 その時、手にしていたスマートフォンから突如着信音が鳴り響いた。潮香はスマートフォンを耳に押し当てると、晴人の声が聞こえてきた。


「お疲れ様。知ってるとは思うけど、タブロイド紙に君と信彦君の名前が出ているね」

「はい。部長からは、さすがにもう庇いきれないって怒られちゃいました」

「熊谷部長以外からも、君を更迭すべきとの声がちらほら上がっていてね。僕は人事を通して何とか阻止しようと思うけど、君は以前も同じような問題を起こしているから、今度はちょっと難しいかもしれない。それにしても、一体誰が情報を漏らしたんだろうね?」

「わかりませんが、きっとアナウンサーのうちの誰かだと思います。彼女達はこぞって否定してますが、他に考えられなくて」

「そうか。まあ、君はうちの局でも特に人気があるから、君をねたみ、引き摺り下ろしたいと思っているアナもいるのかもね。この世界ではよくある話だよ」

「そういうの、何だか悔しいですよね。ネタを利用して蹴落とそうだなんて……。私が更迭されたら、どうするんだろう。信彦君も、カンさんも、そして晴人さんも……みんな『オキドキ!』を楽しみにしてるのに」

「僕自身、潮香の笑顔がテレビから消えてしまうのが本当に口惜しい。君を守るために、出来ることは何でもするつもりだ。正念場だけど、お互いがんばろうな」


 晴人の通話が途切れると、潮香は頭を抱え込んだ。晴人でも庇いきれないほど状況が悪化していたなんて。


 潮香は自宅にたどり着くと、そのままベッドの中に倒れこみ、布団の中にもぐりこんだ。そして目の前にあった枕を抱えこみながら、悔しい気持ちをひたすらかみ殺していた。

 枕の側では、潮香のスマートフォンがけたたましい音を立てて振動し始めた。しかし潮香はずっと無視していた。またどこかの誰かに下らない詮索をされそうで、スマートフォンに手を触れるのさえためらっていた。潮香は布団の中にくるまるうちに、徐々に睡魔に襲われ、そのまま深い眠りについた。

 


 窓の外が夕闇に包まれ始めた頃、潮香はようやく目が覚めた。寝ているうちに心の中のもやもやした気分がほんの少し解消されたのか、潮香は枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばすと、メッセージの到着や着信を確認した。


「あれ? カンさん……?」


 どうやら眠りにつく前にけたたましく鳴っていた着信音は、カンさんからのメッセージ到着を知らせるものだったようだ。メッセージを開くと、そこには豪快な性格のカンさんらしからぬ文章が残されていた。


「ごめんな、潮香ちゃん……さっき清田から教えてもらったんじゃけど、まさかゴシップ新聞なんかに掲載されていたなんて。地元の記者だと聞いていたのに、騙されて恥ずかしいったらありゃしないわ。今頃きっと、潮香ちゃんの所に問い合わせとかきてるんじゃろな。ホントごめん。いくら謝っても足りんぐらいだわ」


 取材に来た「週刊黎明」の記者は、身分を偽っていたようだ。取材の場にカンさんが居合わせたのは確かなようだが、潮香としてはカンさんを責めることはできなかった。潮香は、メッセージを送ってくれたカンさんに電話をかけた。


「……もしもし、カンさん?」

「ああ、潮香ちゃんか。メッセージ、読んだじゃろ? 俺……本当に、何と言えばいいのか」


 カンさんは、どこか元気のない声で話していた。


「大丈夫だよ! もう私のことは気にしないで」

「で、でも。俺は、その……」

「それよりもさ、信彦君は元気なの? 私は信彦君のことが一番気になるんだけど」


 潮香はお互い暗い気分にならないように、話題を変えようとした。


「信彦君は元気じゃよ。君がテレビに出ると、ずーっと目が釘付けになっとるわ。君の顔が画面に大写しになると『すーみーがいた』っていって、手を叩いて大はしゃぎするんよ」


 カンさんの話を聞き、潮香の心中は複雑だった。自分はアナウンサーを続けられるかどうかの瀬戸際にいるのに。


「あ、そうそう。信彦君な、脳機能障害からのリハビリを受けるために、近々専門の病院に入院することになったんよ。俺、信彦君の姿を見るうちに、今のまま障害抱えて生きていくのが、彼の人生にとって果たしていいことなのかと思うようになってな。彼はまだ若いし、今なら十分に人生のやり直しができると思う。だから俺、リハビリが可能かどうか、ケースワーカーさんとも相談したんよ」


 潮香はカンさんの話を聞き、驚いた。

 高次脳機能障害については自分で調べて断片的ながら理解していたつもりだったが、無事に回復し社会復帰することは容易ではないという印象があった。


「リハビリ……結構大変じゃない? それにお金だってかかるでしょ?」


 すると、カンさんから返ってきた答えは実にあっさりとしていた。


「お金は俺が出す。どうせ独り身だし、出費なんて食費とハマショーのライブチケットぐらいしかないからさ。貯金だけは結構あるつもりじゃから、何とかするよ」


 まるで大した出費ではないと言いたげな答えだったが、リハビリに要する費用は相当なものであるのは、医療関係者ではない潮香でも容易に想像がついた。そこにはカンさんの信彦に対する深い愛と、何とかして立ち直って欲しいという強い願いを感じずにいられなかった。


「ありがと。私も信彦君に負けちゃダメだよね。また近況教えてね」


 潮香はスマートフォンを閉じると、布団から体を起こし、拳を強く握りしめた。信彦が頑張って立ち直ろうとしているんだから、自分もこんな下世話な記事に負けるわけにいかないと、何度も頷きながら闘志を沸き上がらせた。


 コロコロコロ、コロコロコロ。


 潮香のスマートフォンが再び着信音を上げた。

 またカンさんから連絡が来たのかと思い、潮香はスマートフォンを耳に当てた。


「あ、晴人だけど、まだ寝ていたならごめんな」

「大丈夫です。何かあったんですか?」

「さっき上層部で会議があり、君はアナウンス部から販売事業部に更迭されることになった。『オキドキ!』のアシスタントは次回から関本さんが引き継ぐことになったから」

「え?」

「ごめん。力になれなくて本当にごめん……」


 スマートフォンの向こうから、晴人のむせび泣く声が聞こえてきた。そして数秒後、通話が途切れた。


「どうして……どうしてよ!」


 信彦がこれからリハビリを受けて立ち直ろうとしている時に突如知らされた非情な知らせに、潮香は全身から力が抜け、崩れ落ちるかのように床にしゃがみ込んだ。

 自分はこれからどうすればいいのだろうか? このまま会社に残るのか、それとも別な道を歩むのか? そして、信彦をこのまま愛し続けていくのか、このまま関係を終わらせるべきなのか?

 色々なことがぐるぐると頭の中を錯綜したが、今の潮香は全てのことに決断を下す気力を失っていた。電気も点けず真っ暗な部屋の中には、抜け殻となってその場にずっとしゃがみ込む潮香の姿があった。

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