終章 思い出のノート

終章1 この新しい朝に

「みなさん、朝ですよ~! 五時三十分、みなさん、起きてますかぁ? 今日も『オキドキ!』始まりました。今日も日本全国に元気な朝をお届けします!」


 メインキャスターの小野寺の掛け声で、ワンダーTVの朝の情報番組「オキドキ!」の放送が始まった。小野寺の隣には、緊張した面持ちの潮香の姿があった。潮香は局から言い渡された休養期間を終えて、今日の収録から無事に復帰することができた。


「今日からアシスタントの住吉潮香アナが無事復活しました。先日の常山市からの中継からしばらく体調を崩し、休養を取っておりました。それでは住吉アナから、さっそくご挨拶があります」


 小野寺に背中を押され、潮香は緊張の面持ちでカメラを前に一礼した。


「住吉です。全国の皆さん、先日の中継ではご心配をおかけし、申し訳ありませんでした!」


 潮香は、深々と頭を下げた。小野寺は隣に立ち、頭を下げる潮香をずっと見守った後、背中を支えながら「もういいよ」と小さく声を掛けた。


「住吉アナ、気分はどうですか? まだ病み上がりなんですから、無理はしないで、みんなと力を合わせて番組を盛り上げていきましょうね」

「は……はい」

「さ、今日はまず、これからの寒い季節にぴったりの防寒グッズを紹介しましょう。住吉アナは東北出身だから寒さには強いと思いますが、最新のグッズを紹介お願いしますね」

「い、いや、私、そんなに強くないですよ。アハハハ」


 小野寺の進行にも助けられ、潮香は徐々に普段のペースを取り戻し始めた。そして番組終了間際には、ブランクがあるとは思えないほどきびきびと司会進行をこなしていた。

 無事収録が終わると、潮香は胸に手を当ててその場にしゃがみこんだ。その様子を見た小野寺が、慌てて潮香の元へ駆け寄ってきた。


「大丈夫か? まだ万全じゃないのかい?」

「……久しぶりなんで緊張しちゃって」

「病み上がりなのに、上手くこなしていたよ。でも、無理はしないで、少しでもおかしいと感じたら遠慮せず休むといいよ」

「はい。ありがとうございます」


 小野寺に介抱されながら潮香は立ち上がると、台本を手にアナウンス室へと戻っていった。

 ドアを開けると、熊谷と紅緒が拍手で潮香を出迎えてくれた。


「住吉さん、お疲れ様! いや、お見事。さすがはワンダーTVの『朝の顔』だけあるね」


 紅緒はそう言うと、小さな花束を潮香に手渡した。


「関本さんには迷惑をおかけしました。急な代役を引き受けてくださって……」

「いいのよ。こういう時のために私がいるんだから。どんどん使ってちょうだいよ。じゃないと『元・朝の顔』だった私の存在感が薄くなっていっちゃうからさ」


 紅緒がそう言っておどけると、室内は爆笑の渦に包まれた。


「お疲れさん。とりあえずはあのトラブルを何とか乗り越えられて良かった。でも、もう二度とあのようなことがないよう、十分気を付けるようにな」


 室内の砕けた雰囲気を引き締めるかのように、熊谷は潮香を一喝した。


「はい……すみませんでした、部長」


 熊谷は頭を下げる潮香を顔をしかめていたが、それ以上は何も言わずに部屋の外へと出て行った。


「噂では、晴人さんが上層部に根回ししていたって聞いたわよ。さすがだよね、潮香は強力な後ろ盾がいて羨ましいよね」


 紅緒は横目で潮香を見ながらそう言うと、潮香は頭を掻きながら苦笑いした。内心はとても複雑であったが……。

 潮香は椅子に腰かけると、疲れがどっと体中に押し寄せた。久しぶりの出演である上、先日の中継で失態を犯してしまったこともあり、必要以上に周囲に気を遣っていたため、終始心が張り詰めていた。

 少し気分を落ち着かせた後、潮香はスマートフォンを開いた。トップ画面が映ると、LINEにメッセージが到着しているとの表示が出てきた。

 最初の数件はアナウンサー仲間や学生時代の友人からで、無事に休養から復帰できたことを祝うメッセージだった。最後に表示されたのは、清田からのメッセージだった。


「おはようございます。今朝の『オキドキ!』見ましたよ。信彦さんと一緒に。その時の画像を何枚か送りますね」


 メッセージには、信彦がテレビを食い入るように見つめる写真や、口をあんぐりと開けて指さす写真、画面に映る潮香と同じ動作を取る写真が添付されていた。


「住吉さんがテレビに映るたびに『すーみー!』って大声で叫んでいましたよ。そして、その時の顔はすごく嬉しそうでした」


 潮香はメッセージを読みながら、目を細めて信彦の写真に見入っていた。写真を見終わり、信彦が福祉避難所である「もみの樹荘」で元気に暮らしていることを知り、胸を撫でおろした潮香だったが、気が付くと清田からはもう一通メッセージが届いていた。


「それから、カメラマンの伊藤さんですが……今月でワンダーTVを退職するのだそうです。理由について、伊藤さんは何一つ教えてくれませんでした。こないだ寺田さんとひと悶着あったことで、上層部に話が行ったのでしょうか?」


 潮香は目を見開いて驚いた。せっかく信彦の元気な姿を見ることが出来たのに、続けて送られてきた清田のメッセージを読み、愕然とした。

 先日常山市から帰った後、潮香はカンさんとは全く顔を合わせてもいなかったし、メッセージや電話のやり取りもしていなかった。

 確かにカンさんは、潮香を守るべく晴人の腕を強く握ったり、鬼のような形相で睨みつけたり、暴言ともとれる言葉を言い放った。「お前たち、ただで済むと思うな」と言い放った晴人に対し、カンさんは「自分が全てひっかぶる」と言っていた。

 あれ以来、潮香には番組降板や異動などの話がなく、晴人が仕組んだ計画通りにアナウンサーとして復帰することが出来た。一方で、カンさんがどういう処分を受けたのか、何一つ情報が無かった。

 心配になった潮香は、晴人にメッセージを送った。


「先日はカメラマンの伊藤さんが失礼なことをしてすみませんでした。今日私は無事に復帰できましたが、伊藤さんがどのような処分を受けたのか気になります。差支えなければ、教えてくれますか?」


 すると、数分も経たぬうちに潮香のスマートフォンから着信音が鳴り響いた。

 宛名を見ると、晴人からの返信だった。


「お疲れ様。無事復帰できて良かったです。やはり『朝の顔』は潮香じゃないと務まらないね。さて、伊藤カメラマンの件ですが、僕は何も手を下しておりません。あの日はさすがに腹に据えかねて、人事と相談しようかと思いましたが、僕にも悪い所があったと思いまして。あの人は、誰よりも潮香のことを考えていると思いました。悔しいけれど、彼に何か手を下しても負け犬の遠吠えでしかないと思い、やめました」


 潮香はメッセージを何度も読み返した。自分の非を認めたかのような文面が、プライドの高い晴人が作ったものだとは思えなかった。

 あの時のカンさんの言葉と態度に、晴人には何か感じるものがあったのだろうか。それは多分、怖いとか憎いという感情だけではなかったのかもしれない。

 潮香は咄嗟にカンさんに電話をかけたが、応答しないまま留守番電話サービスに繋がってしまった。潮香は通話を諦め、LINEを通してカンさんにメッセージを送った。


「カンさん、潮香だよ。仕事してる? それとも寝てるの? さっき『オキドキ!』の収録が終わったよ。見てたかな? 清田さんに聞いたよ。どうしてワンダーTVを辞めちゃうの? 晴人さんはカンさんに何の処分も下さなかったって言ってたよ。それなのに、どうして? 今日はもう収録の予定がないし、ちょっとお話をしたいから、今から会えるかな?」


 しかし、カンさんは晴人と違って、なかなか返信をよこしてくれなかった。カメラマンは取材が入ると日夜問わず仕事に出るので、ひょっとしたら仕事中かもしれないし、仕事を終えて寝ているかもしれない。

 潮香は自宅に戻って、カンさんの返信を待つことに決めた。

 鞄を手にアナウンス室を出て、正面玄関に向かった潮香は、玄関近くの駐車スペースに見たことのあるミニバンが停まっているのを発見した。


「カンさん……!」


 潮香はヒールの音を鳴らしながら一目散にミニバンに駆け寄ると、ドアを何度も叩いた。そこには、頬杖をつきながら眠っていたカンさんの姿があった。


「開けて、カンさん! 潮香だよ!」


 するとカンさんは顔を起こし、けだるい様子で窓の外を見つめた。そして、ゆっくりと助手席のドアを開け、潮香を中に招き入れた。


「ありがとう。というか、どうしたの? すごく眠そうだよ」

「アハハハ、所用があって、ちょうど帰ってきた所だったんじゃ」

「所用って、こんな朝早くに?」

「まあな。次の就職先を探しに、ね」

「やっぱり……退職するんだね」

「うん。さっき君のメッセージ見たよ。清田が教えたんやな」

「どうして辞めるの? 私、カンさんと一緒に取材に行くのが唯一の息抜きだったのに。それにカンさんには何でも相談出来たし、愚痴もわがままも聞いてくれたし……」


 潮香は捲し立てるように話しながら、自分の気持ちをカンさんにぶつけた。しかしカンさんは何も答えず、ハンドルを握ったままじっと窓の外を見ていた。


「今日は良い天気じゃの。ほら、見てみ。抜けるよう青空や」

「う、うん……」

「なあ、今日はもう収録ないんか? ならばちょっとドライブに付き合ってくれるか?」

「え? ま、まあ……いいけど」

「じゃあ、行くか」


 カンさんは車のエンジンをかけると、ミニバンはゆっくりと前進し始めた。カーオーディオからは、弾むような声で楽しそうに歌う浜田省吾の声が聞こえてきた。


「『この新しい朝に』か、俺も潮香ちゃんも、今日はそんな感じだよな。新しい第一歩を踏み出したというか」


 カンさんは楽曲に合わせて気持ち良さそうに鼻歌を唄っていた。いつも助手席で聞かされていたこの鼻歌も、もう聞けなくなってしまう……そう思うと、潮香はどこか切ない気分になった。

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