三章10 ありがとう
息を切らしながら真下から睨みつけ、威嚇してくる晴人に対し、カンさんは一歩たりとも引かなかった。それどころか、呆れたような表情を見せ、時折鼻で笑いながら晴人を見続けていた。
「お前、どこの人間なんだ? 潮香と親しいということは、ワンダーTVの人間か?」
「そうです。一応、報道部でカメラマンをしている伊藤寛太といいます」
「ふーん、役職無しのただのカメラマンってわけか。ところで、ワンダーTVの人間だったら、この僕のことは知っているよね? 番組制作部でプロデユーサーをしている寺田晴人というんだけど」
「ええ、名前は存じておりますよ。あなたの手掛けた番組はどれも視聴率が高いし、才能があって羨ましいっていつも尊敬していました。でもね、そんな人間でも、潮香ちゃんに手を出す奴は俺は絶対に許せない。見て下さいよ、潮香ちゃんを……あなたに怯え、震えてるじゃないですか。申し訳ないけど、潮香ちゃんはあなたには任せられない。俺が連れて帰りますんで、悪しからず」
カンさんはそう言うと、潮香の肩を抱いて、晴人の側を通り過ぎようとした。
「おい、待てよ!」
晴人はカンさんの肩に手を掛け、自分の方に振り向かせようとした。しかし、カンさんは晴人の腕を掴むと、指先から徐々に力を込めて強く握りしめた。
「……イテテテテ、おいっ、僕の腕を離せっ! 怪我したらただじゃすまないからな!」
「そんなに痛いですか? そりゃすみませんねえ。俺、カメラマンとしてはずーっとヒラのままですけど、体力だけは局内では誰にも負けないと自負しておりますんで」
カンさんは髭面から白い歯を見せながらそう言うと、力任せに腕を思い切り振り下ろした。晴人の体はカンさんに振り下ろされた勢いのまま、床の上に崩れ落ちた。
潮香は二人のすぐ側で、清田に介抱されながら呆然としていた。
「住吉さん、大丈夫ですか? 立ち上がれそうですか?」
「うん……」
潮香は清田に支えられながら立ち上がると、床の上で腕を押さえながらもだえ続ける晴人を横目で見ながら、玄関へと向かっていった。
「ねえ……最後に、信彦君に会ってきていいかな?」
潮香は力のない声で、目の前を歩くカンさんに尋ねた。
「ああ、いいよ。なかなかこっちには来れんじゃろし、ちゃんとお別れを言った方がいいかもしれんな」
カンさんは穏やかな表情で頷くと、床に寝転んでいる晴人に逆襲されないよう潮香の目の前に立って身を挺しながら歩きだした。必死に潮香を守ろうとするカンさんの姿は、やけに頼もしく見えた。それは、いつもくだけた話ばかりしているカンさんと違い、男らしさが全面に溢れ出ていた。
やがて信彦親子のいる部屋にたどり着くと、潮香は信彦の元へ駆け寄った。
「信彦君、ただいま……さっきは怖がらせてごめんね」
潮香は申し訳なさそうな表情で、胸の前で両手を合わせて頭を下げた。
「私、東京に帰るからね。今度はいつ会えるか分からないけど、またきっと、信彦君の顔を見に来るからね」
潮香は階段の下を指さすと、その指を回転させながら再び手前へと戻し、信彦の顔に向けた。
「あ……あ……」
信彦は、喉の奥から吐き出そうとするかのように、息遣いを荒くしながら何かを言い出そうとしていた。
「ありが……と」
信彦がようやく吐き出した言葉を聞いた瞬間、潮香は嬉しさのあまり涙がこぼれ落ちた。そして、両腕を伸ばし、信彦の体を力いっぱい抱きしめた。
「ありがとう。信彦君……大好きだよ」
潮香は信彦の目の前に指を付き出すと、空中にハートマークを描いた。
すると信彦も潮香の真似をして、指をたどたどしく動かしながらハートマークを描き始めた。
「私と信彦君のハートマーク、きれいに重なってるね」
潮香が信彦の指の動きを見ながらそう言うと、信彦は「ああ……」と声を上げ、どことなく照れているように見えた。
カンさんは、清田の肩に手を回しながらその場面をじっと見つめていた。
「じゃあね、信彦君。今はすごく辛いだろうけれど、ここでがんばって生き抜いてほしい。そして、いつかまたどこかで会おうね」
潮香は信彦の耳元でささやくと、腕を離し、ゆっくりと立ち上がった。そして、信彦の目の前で両手を広げると、何度も左右に振り始めた。
信彦の顔はどこか寂し気に見えたが、彼なりに状況を察したのか、潮香と同じように手を振り始めた。
「すーみー……ありが……と」
信彦の言葉を聞きながら、潮香は名残惜しそうに徐々に後ずさりし、信彦の元から離れて行った。そして後ろ手で部屋のドアを閉め、階段をゆっくりと下り始めた。
「気が済んだか?」
「うん」
カンさんは再び潮香の前面に立ち、匿うように階段を下りて行った。
信彦とは今度こそ心置きなく別れたはずなのに、潮香の表情は、まだどこか浮かないように見えた。
「どうした? 元気ないなあ。信彦君に、まだ心残りがあるんか?」
「そ、そんなことないって」
「清田がしばらくこっちに残って取材するってさ。だから、俺の方から取材がてら時々信彦君の写真を撮るようお願いしたからな。写真は清田からLINEで潮香ちゃんにも送るようにするから」
「え? それって清田さんに悪いよ。仕事でこっちに残るんでしょ?」
「遠慮なんかするな。今のままじゃ信彦君のことが気になって、またこっちに来たくなるじゃろ? ん?」
「ま、まあ……」
「じゃあ話は決まりだ。頼むぞ、清田。忙しいじゃろけど、時々信彦君の様子を伺いに行ってやれや」
「はい」
清田は笑顔で頷いていた。
潮香は申し訳なさそうな顔で深々と頭を下げると、カンさんに付き添われながら玄関へとたどり着いた。その瞬間、カンさんは突然表情が険しくなり、潮香を自分の背中に引っ張り込むと、耳元でそっとささやいた。
「潮香ちゃん……気を付けて。ヤツがおる」
「え?」
そこには、さっき床に倒れていたはずの晴人の姿があった。
ポケットに手を突っ込み、自分の側を通り過ぎようとする二人を横目で睨んでいた。
「お前たち……このままで済むと思うなよ。これから泣きを見ることになるから、そのつもりでな」
するとカンさんは額に手を当てて苦笑いすると、晴人の目の前まで近づいた。
「悪いけど、お前たちの『たち』の部分は抜いてもらえますかね? 喧嘩を売ったのは潮香ちゃんじゃなくて、この俺ですよ。俺一人が全てひっかぶれば済む話ですよね?」
「ふざけるな。潮香も同罪だよ。この僕の心遣いを無下にするような真似をして……」
「さっきも言いましたよね。この俺が全てひっかぶると。もし潮香ちゃんを罰したら、俺は黙っていませんから。あなたがどんなに偉くて影響力のある人間であろうと、徹底的に戦うつもりですから」
カンさんは晴人の前に歩み出ると、髭面をゆがませ、鬼のような形相で睨みつけた。
カンさんは、その山男風の容貌のせいか、いざ怒らせると誰もまともに顔を見られなくなるほど恐ろしい形相に変わる。晴人はさすがにその迫力に屈したのか、舌打ちをすると、二人に背を向けて玄関から歩き去っていった。
「はあ……ダメじゃん、カンさん。晴人さんを怒らせちゃ。私、ひょっとしたら番組を降板になるかも」
「じゃあ君は、晴人さんの言うがままになっていいんか? 俺は絶対許せん、こんなことで潮香ちゃんが降板になるなんて……」
カンさんは潮香の手前に座ると、肩に両手を置き、目をまっすぐ見つめた。
「俺はまだまだ潮香さんの『オキドキ!』が見たい。それは誰もが思ってるはず。清田も、そして信彦君も」
「カンさん……」
カンさんは顔をくしゃくしゃにしながら、低い声で必死に訴えていた。
「ありがとう。カンさんの気持ち、すごく嬉しいよ。さ、帰ろうか」
潮香はそう言うと、カンさんの腕に自分の腕を絡めた。
「お、おい。さすがに照れるわ。うちの局の『朝の顔』にそんなことされたら……」
「いいじゃん。『朝の顔』に腕組みしてもらったって、友達に自慢できるでしょ?」
「それはちょっと……。ほら、君には信彦君がおるわけじゃし」
「そうだよね。ごめんなさい、軽はずみな真似して」
潮香が慌てて腕を外すと、カンさんは顔を赤らめて「まったく!」と言ってそそくさと先に車に乗り込んだ。
既に日は沈み、辺りは夜のとばりにどっぷりと包まれた中、カンさんの運転するミニバンは東京に向かって走り出した。
車中では、いつものように浜田省吾のナンバーが流れていた。二人の疲れた心を癒すかのように、ゆったりとしたリズムに乗った甘く優しい歌声が車中を包み込んだ。
「……何だかすごく優しい歌だね。浜田さんが私に歌ってくれてるみたい」
「『もうひとつの土曜日』って曲だよ。今までずっと片想いだった女に対し、自分の真剣な恋心を見せようとする男の気持ちを歌ってるんだ」
「へえ、何だかカッコいいかも」
その後、二人はしばらく沈黙を保っていた。カンさんはハンドルを握ったまま、潮香の方を振り返りもせずまっすぐ前を見つめていた。いつもだったら曲に合わせて唄ったり、曲にかんするうんちくを饒舌に語ったりするのに。
「潮香ちゃん」
「なあに?」
「いや、な、なんでもないわ。東京に着くまでまだ時間がかかるから、寝た方がええぞ」
「じゃあ、おやすみなさい」
カンさんは何か言いたげな様子だった。潮香は窓によりかかるうちに睡魔に襲われ、次第に意識が遠のいていった。
どこからともなく、「潮香ちゃんのこと、本当は好きなんじゃけどな……」という声が聞こえてきたが、潮香は既に深い眠りの中にいた。
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