終章2 青空のゆくえ
カンさんのミニバンは都心の道路を飛ばし、やがて首都高速に乗るとさらに速度を上げた。高層ビル群の中を流れるように通り過ぎていくと、やがて窓の外に海が広がり始めた。そして、真上にだけ見えていた空が、一気に百八十度見渡せるようになった。
「ひゃあ、気持ちいい空だね」
「じゃろ?」
ジェット機が次々と離着陸する羽田空港、そしてプラントと煙突が立ち並ぶ川崎の工業地帯の付近を通り過ぎ、真下に白波が輝く横浜ベイブリッジを渡り、横浜の中心市街地が見えてきたところで、カンさんの運転するミニバンはようやく高速道路を下りた。
「どこまで行くの?」
「もうすぐ着くよ」
横浜スタジアム前の大通りをしばらく進むと、二人の目の前の視界が広がった。真っ青な海には大きな客船が停泊し、海辺に沿ってどこまでも公園が広がり、平日にも関わらず沢山の人が散歩を楽しんでいた。
「ここって……横浜港?」
「そう。ハマショーも学生時代はここ横浜で過ごしてたんよ。俺もこの町が好きでな、たまに憂さ晴らしにこうしてドライブしにくるんよ」
「へえ、カンさんもストレスが溜まることがあるんだ?」
「あ、あのなあ! 俺、見た目はケダモノみたいだけど、一応は人間なんやからね」
カンさんは駐車場を見つけると、車を停め、「はぁ~……疲れた!」と大きな声を上げながら背伸びをした。そして、一足先に車から降りると、助手席のドアを開け、潮香の手を引いて降ろした。
「少し散歩しようか。こんないい天気なのに建物の中にいるなんて、もったいないわ」
カンさんはズボンのポケットに手を突っ込んだまま、山下公園に向けてフラフラと歩きだした。そして近くの自販機の目の前で足を止めると、何本かジュースを買い、潮香の元へと戻ってきた。
「ほら、飲めや。ダイエットじゃないコーラでもええか?」
「うん、いいよ。カンさんはいつもの無糖コーヒー?」
「そうじゃ。これがあれば元気百倍よ」
「単純だね、コーヒー飲めば元気が出るなんて」
「それは潮香ちゃんも同じじゃろ? コーラ飲んだらえらくご機嫌になるもんな」
「ふーん、良く分かってるね。さすが付き合いが長いだけあるね」
潮香は笑いながらペットボトルのコーラの蓋を開けると、ゆっくりと喉に流し込んだ。
「ぷはあ、最高だね。こんな気持ちいい青空の下で飲むコーラは」
「じゃろ? どれ、俺も飲もうかな……うはっ、美味いなあ。今日の天気はコーヒー日和じゃな」
二人はしばらくの間、ペットボトルを口に当てながら柵ごしに海を眺めていた。
目の前には、大きな客船が停泊していた。港にはたくさんのカモメが甲高い声を上げながら目の前を旋回し、時には公園に飛来して地面をうろつき、落ちている餌をついばんでいた。
「ねえカンさん、どうして辞めようと思ったの?」
潮香は、隣で海を見ながらひたすらコーヒーを飲んでいるカンさんを心配そうに見つめていた。
「ここ数日、色々考えたんよ。俺の人生、このままでいいんか? って」
「今の仕事に納得していないの?」
「まあ……待遇はそれなりに良いんじゃけど、やりたい仕事はあまりさせてもらえんのよね。時には相手が泣いてる場面や、むごたらしい場面でカメラ回さなくちゃいかんこともあるしな……そんな仕事を我慢しながらやる位なら、もっとやりたいことをやらせてくれる場所に行きたいって思ってな」
「それは私も同じだよ。どうしてこんな悲しいニュースなのに、淡々と事実だけ伝えることしかできないんだろうって、疑問を持つことも多いわよ。だけど、仕事する以上、ある程度は我慢しなくちゃいけないでしょ?」
潮香がそう言い返すと、カンさんはちょっぴり神妙な面立ちで潮香の方を向いた。
「ねえ、本当は違う理由なんでしょ?」
「……」
カンさんは無言のまま柵に腕を乗せると、大きくため息をついた。
「潮香ちゃんの言葉、半分は当たり、半分は違うかな」
「え、全部違うわけじゃないの?」
「……こないだ、君を乗せて常山市から帰った矢先、うちの報道部のボスから呼び出されてな、厳重注意を食らったんよ。謹慎中の君を勝手に連れ出したうえに、俺よりもずっと偉い立場の晴人さんに失礼な態度を取って、一体何考えてるんだよって。これ以上勝手な真似しないよう、しばらくの間は俺に見張り役をつけるぞって」
「見張り役? ひどい! 大体、ボスが何でそんなこと知ってるの? それって、ひょっとしたら……」
「晴人さんなのかな? ボスは上層部から話を聞いたって言ってたけど」
「……晴人さんだよ、それ。手を下していないって言ってたけど、嘘だったんだ」
「いや、手は下しとらん。俺、さすがに覚悟はしてたんよ。あんな失礼な態度を取って、おまけに全て俺がひっかぶると大見得切ってさ。こりゃクビになるわと思ってたけど、何とか首の皮一枚繋がっていたというのかな」
晴人は確かにカンさんをクビにはしなかったが、自分からは手を下さず、上司から圧力をかけさせたのかもしれない。相も変わらず打算的で卑怯な男だと、呆れ果ててしまった。
「でもな、今後は見張り役まで付けられて仕事するなんて、想像するだけで窮屈でたまらんわ。そう思った時、辞めるには今が潮時なんかなって」
カンさんはコーヒーを一気に喉に流し込むと、ペットボトルの瓶を片手で握りつぶした。
「さ、これから新しい出発じゃ。帰ったら、早速辞表を書くつもりじゃけの」
「出発って……一体どこに行くつもりなの?」
「もう行先はほぼ決めているんよ。正式に決まり次第、潮香ちゃんにもちゃんと伝えるけえ。そして、これで俺たちは完全にお別れするわけじゃない。これからもLINEを使って、君に近況を伝えるからさ」
「それは嬉しいけれど……カンさん、もう一度考え直してくれる? 私、カンさんがいたから、どんなに辛い時も乗り越えて来られたんだよ。今回の水害の取材も、そして信彦君と再会できたのも、カンさんのお蔭なんだから!」
「ハハハ……そうじゃったな」
カンさんはそう言うと、海の向こうまで続く気持ち良い青空を眺めながら大きく背伸びをした。
「俺も正直言うと、自分の決断が本当に良いことなのか、ずっと悩んどった。キー局のカメラマンという、世間で一目置かれる立場を捨てることになるからね。だけど……」
カンさんは潮香に背を向け、ポケットに手を突っ込みながら公園の方へと歩きだした。
「俺の人生は、on the road……まだまだ旅の途中じゃけ。ここでずっと安穏としていちゃいかんのよ」
カンさんの背中が遠くなるのを見て、潮香は自分が取り残されていくようで急に寂しさで胸が苦しくなった。
「待ってよ!」
潮香は全速力で走りだし、カンさんの背中に追いつくと、背中からそっと手を回した。
「置いていかないで……カンさんがいなくなると寂しい」
潮香と身体を密着し、長い髪とコロンの香りに包まれるうちに、カンさんは魂を吸い取られたかのように全身が硬直し、いつもの豪快さが無くなっていた。しかし、背中から潮香が泣き声を上げて鼻をすする音が聞こえてくると、カンさんは驚いた。カンさんは潮香の背中や髪を何度も撫でると、耳元でそっとささやいた。
「泣くなよ……俺、笑顔の潮香ちゃんが好きじゃけ。『オキドキ!』で満面の笑顔を見せる潮香ちゃんが好きじゃけ」
「……!?」
突然泣きはらした顔を上げた潮香を見て、カンさんは自分の感情を思わず口にしたことに気づいた。
「……ずっと出すまいと思い続けたけど、つい口に出ちまったか」
カンさんは顔を赤らめながら、極まりの悪そうな顔で何度も頭を掻いていた。
「今だから言うけどさ。取材で君と初めて帯同した時、胸がずーっとドキドキしていたんよ。俺がくだらん冗談言った時に見せる笑顔がホントにかわいくってな。この人の笑顔を守るためなら、俺の出来ることは全てしてあげたいって思ったんよ」
カンさんは泣きじゃくる潮香の髪を撫でながら、ゆったりとした口調で話していた。潮香はしゃくり上げながら、無言のままカンさんの胸にずっと顔をうずめていた。
「さ……これから東京に戻るぞ。明日も朝早いんじゃろ? そしてもう泣かんでくれ。さっきも言ったじゃろ? 俺は潮香ちゃんの笑顔が好きなんよ」
「……ありがと、カンさん」
潮香は大きく頷くと、涙を拭き取った。
「ねえカンさん……ちょっと待っててくれるかな?」
「何だい?」
潮香は突然体の向きを変え、公園の隅にある自販機へと駆け出していった。やがて潮香は二本のペットボトルを両手に持ち、再びカンさんの元へ戻ってきた。
「はい。カンさんの大好きな無糖コーヒー。私はコーラを頂くね」
「お、おい。さっき飲んだばかりじゃぞ?」
「いつかまた会える日まで、お互いの健闘を祈って、乾杯しようと思って」
「……サンキュ、潮香ちゃん」
カンさんはペットボトルを空高く掲げると、潮香はカンさんのボトルに自分のペットボトルをそっと押し当てた。
「頑張れよ、潮香ちゃん」
「カンさんもね」
さっきまで泣きじゃくっていた潮香に笑顔が戻ったのを見て、カンさんは頬を緩め、安堵した様子を見せていた。
港から時折吹く潮風が心地よい山下公園を、二人はペットボトルを手に、肩を並べてゆっくりとした足取りで歩いていた。まるでしばしの別れを惜しむかのように。
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