終章3 彼のためにできること

 カンさんがワンダーTVを退職し、数週間が経過した。

 潮香は『オキドキ!』の収録を終え、出演者たちと談笑しながらスタジオの袖に向かって歩いていた。常山市の中継での騒動後、数日間の休養を経て復活した潮香は、徐々にペースを取り戻し、出演者たちや視聴者にとっても、そして潮香にとっても、あの騒動は遠い過去のように感じていた。

 潮香は台本を片手にアナウンス室に戻ろうとしたその時、突然スマートフォンから着信音が鳴り響いた。

 潮香は廊下の隅でスマートフォンを開くと、LINEにメッセージが到着しているとの通知が来ていた。メッセージの送り主は、清田だった。


「おはようございます。先週、常山市から東京に戻りました。今日は久しぶりに出勤しております。あとでお話したいことがあるのですが、お時間取れるでしょうか?」


 潮香は清田の帰還を聞いて驚き、すぐに返信した。


「お帰りなさい。現地から信彦君の状況を色々教えてくれて、ありがとうございました。今日のお昼休み、ランチがてらお話しましょうか。十一時半頃、三階のカフェテリアにいます」


 清田から聞きたい話は山ほどあったが、特に信彦のことが気になっていた。今回の大雨で被災し、しばらくは「もみの樹荘」で避難生活を続けるのだろうか。そして、病気の母親と二人でこれからどうやって生きていくのだろうか。



 昼前のカフェテリア。社員達が昼食を摂るため次々と席を埋めていった。

 潮香はスマートフォンをいじりながらカフェテリアの入口で待機していたが、やがてスリムなスーツを着こなす爽やかな出で立ちの清田が目の前に姿を見せた。


「お久しぶりです」

「清田さん……」

「被災地での取材が終わり、無事に帰還しました。ごめんなさいね、急に呼び出したりして……」

「いいんですよ。それより……結構、カッコイイんですね。常山ではレインコートや局員用のウインドブレーカーを着てる所しか見たことがなかったから」

「アハハハ、見かけだけですよ」


 清田は照れた顔を見せると、二人分の椅子を確保し、潮香を先に座らせた。


「何食べます? 僕はハヤシライスの大盛にします。あっちに居た時はそんなに食べなくて、結構お腹が空いてるんですよ」

「私はアラビアータのパスタにコーラ……かな」

「じゃあ僕、注文してきますから」


 清田はいそいそとカウンターに向かうと、注文していた。

 潮香は椅子に座りながら清田の様子を見届けていたが、何人かの女性社員が清田に声を掛けていた。清田は照れながらも、楽しそうに会話していた。

 今まではカンさんの陰に隠れた存在だったが、実は結構モテるタイプなのかもしれない。

 しばらくすると、清田は潮香の注文した分も一緒にテーブルへと持ち帰ってきた。


「おまちどうさまです」

「ありがとう。久しぶりだなあ、カフェテラスでランチ食べるのは」

「アナウンサーだと気を遣いますよね。一種の芸能人みたいなものだし」

「そうなのよ。落ち着いて食べられないというか……」


 二人はしばらく食事に夢中になっていたが、しばらくすると、先に平らげた清田が口を開いた。


「信彦さん、元気でしたよ。相変わらず会話は難しいですけど、身振り手振りを入れながら話すとそれなりに意思疎通できますし」

「そう。ならば安心だね」

「それで、ちょっと信彦さんについて気になることが……」


 清田はそう言うと、皿をスプーンでかき回しながら、どこか元気のない声で話し始めた。


「こないだも話したと思いますが、彼は高次脳機能障害を患っていますし、お母さんは寝たきりの生活を続けています。収入が無く生活保護を受給している世帯なので、市のケースワーカーさんが時々二人の様子を見にきていました。僕、取材がてら、二人のことについて色々と聞き出したんですね」  


 潮香は清田の言葉に驚き、パスタを食べる手を休め、身を乗り出して清田の言葉に聴き入っていた。


「僕、信彦さんがどうして高次脳機能障害を患っているのかずっと気になっていて、ケースワーカーさんに聞いてみたんです……そしたら、おそらくは仕事中の交通事故が原因じゃないかって言っていました」

「事故!? 本当に? いつ、そんなことが……」

「信彦さんの家には、すでに病死したお父さんが残した相当額の借金があったそうです。お母さんが病気で働けなくなり、信彦さんがその分必死に働かざるを得なくなったようです。彼は日中は工場の仕事を、朝夕は新聞配達の仕事をしていたそうです。日中の仕事でどんなに疲れていても、配達するのが危険な天気の日も関係なく配達に出ていたそうです。そして大雪が降った日、配達中にスリップして接触事故を起こし、頭を打って脳しんとうを起こしてしまったようで、それが原因なんじゃないかって言っていました」

「……!?」


 潮香は言葉を失った。信彦は高校時代にも大雪の日に自転車で配達に出かけ、点灯する事故を起こしていたことを潮香は鮮明に覚えていたからだ。あの時の彼も、家計が逼迫していることをしきりに口にしていた。


「信彦さんはかろうじて命は助かりましたが、脳しんとうの後遺症が強く残ってしまったようで、徐々に今のような状態になっていったそうです……仕事はできなくなり、家計も破綻し、生活保護の受給と時々訪れるデイサービスの助けで何とか生活していたとのことです」


 さらに清田は、スマートフォンを指でなぞりながら何枚かの写真を探し出し、潮香の目の前に見せた。


「実はですね、こないだケースワーカーに同行して、信彦さんの住んでいた長屋を取材したんですよ。あの長屋、損壊が激しくて取り壊すことが決まりましてね、信彦さんの部屋もあのまま放置はできないので、業者やケースワーカーの皆さんで後片付けをしていたんです。そしたら……」

「え?」


 清田の見せてくれた写真には、押し入れに山のように積まれた参考書が写っていた。その中には、早稲田大学の過去の入試問題を掲載した「赤本」もあった。


「どの本も書き込みがいっぱいありました。仕事に追われていたのに、その合間を縫って相当勉強していたようですね」

「……信彦君、あれからずっと勉強をしていたんだ」


 潮香は目を細めて写真に見入っていた。さらに何枚か写真をめくると、一冊のノートが目に飛び込んで来た。


「ねえ、これって……」


 潮香は清田に、ノートの写っている写真を見せた。


「ああ、このノート……端から端までびっしり書かれていましたよ。確か、小説を読んだ感想みたいなものでしたかね」

「やっぱり……それじゃノートは今、どこに?」

「それはわかりません。常山市としては、基本的にあの部屋にあったものは、貴重品や被災しなかった家具以外は近日中に処分する方針のようです」

「処分? 本当に?」

「はい。部屋にあるもののほとんどが、泥に浸かっていたからです」

「そんなの絶対にダメ! これだけは絶対に……絶対に処分させたくない」


 潮香は拳を握りしめると、全身を震わせながら小声でそう呟いた。そして突如テーブルに手をついて立ち上がり、自分の皿の上に清田の皿を乗せると、早足で食器返却棚へと持って行った。その様子を、後ろから清田が心配そうに見つめていた。


「一体どうしたんですか? 急に焦りだして」

「今から熊谷部長に、もう一度取材で常山市に行かせてくれるよう談判しにいくの。だって……すぐにでも、あのノートを取り返したいから!」


 潮香は眉間に皺をよせ、叫ぶかのように言い散らすと、ヒールの音を響かせながらカフェテラスを後にした。

 あっけにとられた清田は、何も言えないまま潮香の背中を見つめていた。


 潮香は全速力で廊下を走り抜けると、アナウンス室のドアを開けた。中では熊谷が一人でコーヒーをすすりながら、新聞を読みふけっていた。


「そんなに慌てて、何かあったのか?」

「部長、お話が……」


 潮香は熊谷の前に立つと、机に手をついて深々と頭を下げた。


「私、もう一度常山市に行きたいんです。どうしても自分で確かめたいことがあります。それが終わり次第すぐ戻りますから!」


 すると熊谷は読んでいた新聞を机に叩きつけ、潮香に顔を近づけて鋭い目線で睨みつけた。


「こないだ君が休んでいた時、それをカバーすべくアナウンス室を始め社内のみんながどれだけ大変な思いをしたのか、分かってるか? だからもう二度とあんなことはするなと、君にも言ったよな? もしまた番組を休んで常山市に行くつもりなら、こっちとしてはもう守るつもりはない。番組の降板と、左遷も含めた処分を考えさせてもらうからな!」


 熊谷は指を潮香の鼻の先まで近づけ、つばを飛ばしながらまくし立てた。

 しかし潮香は表情を変えず、まっすぐ熊谷を見つめていた。


「それでも行かせてもらいます。どんな処分も受けるつもりです。失礼します」


 潮香は熊谷の側をすり抜けるかのように歩きだし、自分の机に置いた鞄を手にすると、激しい音を立ててドアを閉めた。


「待て! おい! 本当に行くのなら、今度こそ覚悟しろよ!」


 ドアの向こうから熊谷の叫び声が聞こえてきた。しかし、潮香は振り返ることも無く、そのまま廊下を走り去ってエレベーターに乗り込んだ。

 玄関にたどり着いた時、潮香は周囲を見渡し、待機している車がないことに気が付いた。いつもなら、この場所でカンさんが潮香を見つけてミニバンに乗せてくれた。カンさんがいない今となっては、電車を乗り継いでいくしかない。でも、どの程度の所要時間で現地に着けるのだろうか? ノートが捨てられないよう、一刻も早く現地に行きたい所であるが……潮香はカンさんの存在の大きさを改めて身に沁みて分かった気がした。

 その時、潮香の真後ろから激しい音を立てて銀色のスポーツカーが近づいてきた。

 車は潮香の真横にぴたりと停まると、助手席の窓が開いた。


「どうしたの? さっきから辺りをキョロキョロ見回して」


 車を運転していたのは、晴人だった。


「あ、な、何でもないです……失礼しました」

「そうなの? すごく焦った顔してるけど、急ぎの用件でもあるんじゃないの?」

「いや、大丈夫です!」


 潮香は必死に抵抗していたが、晴人は冷静に潮香の顔を見続けていた。


「ひょっとしたら、また常山市に行きたいのかな?」

「え?」

「こないだも、どこかまだ心残りがあるように見えたからね」

「実は……急いで確かめたいことがあって」

「じゃあ乗りなよ。送っていくから」

「でも……」

「大丈夫、道中何もしないから。絶対に約束するよ」


 晴人のことはまだどこか信用できない所があったが、今の潮香は一刻も早く常山にたどり着きたい一心だった。


「わかりました。じゃあ、お願いします」


 晴人は軽く微笑むと、助手席のドアを開けた。潮香は助手席に乗り込むと、車は勢いをつけて、多くの車が行き交う都心の幹線道路へと一気に走り出していった。





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