三章7 二人だけの夜
潮香が選曲したのは、竹内まりやの「ミラクル・ラブ」。
運命の出会いは、すぐそばにある……それはまるで、高校の図書室で一緒に勉強していた頃の潮香と信彦を歌っているかのようだった。
潮香は、信彦の歌った「初恋」に対するアンサーソングのつもりでこの曲を選んでいた。
原曲と同じように伸びやかな声で歌えれば良いのだが、潮香は、両手でマイクを持ちながらぼそぼそと自信の無さそうな声で歌っていた。所々音程が外れたり、変な所で息継ぎしたりと、終始悪戦苦闘していた。
歌い終え、潮香からマイクを受け取った珠里は「ちょっと聴くに堪えないなあ……」と呆れかえっていたが、潮香が一番気にしていたのは、信彦の顔だった。信彦は今の歌を、果たしてどう受け止めてくれただろうか?
「じゃあ、そろそろ中締めとしますか。みんな、今日は集まってくれてありがとう! 来年は成人式だしその時にはみんな帰ってくるだろうから、そしたらまたここで会おうね」
珠里が大声で叫ぶと、盛大な拍手が沸き起こった。そして参加した同級生たちはいくつかのグループに分かれ、散り散りに帰っていった。
潮香と信彦はどこのグループにも混ざらず、二人きりでその場に残された。
「……どうします? とりあえず帰りましょうか?」
「そうね。ここにずっと残っても仕方がないもんね」
二人は会場を後にすると、まだネオンが輝く繁華街の中を歩き始めた。
今年の夏はとりわけ気温が高く、最高気温が四十度近く、そして最低気温も三十度を下回らないという熱帯顔負けの天気が続いていた。
潮香は花柄のノースリーブのワンピースを着こんできたが、少し歩いただけでも額に汗がにじんで来た。
「住吉さん、大丈夫ですか? だいぶ汗をかいてますけど」
「だ、大丈夫だよ。私は元々汗っかきだから。気にしないで」
「どこかで休みましょうか?」
信彦は周りの店を見て回ったが、どこも空きがない様子だった。
やがて二人は駅前の複合施設の前にたどり着いた。施設の一階には、ファーストフードのマクドナルドが入居していた。
「ここでいいですか? ここならまだ席が空いてるみたいだし、住吉さんの好きなコーラもあるみたいですよ」
「アハハハ。お気遣い、ありがとう」
折角の再会なのに、マクドナルドというのは何だか味気ないけれど、二人とも酒が飲めないし、長い時間一緒に過ごす場所としては丁度いいかなと感じた。
明るい照明が灯る店内には、高校生と思しき若いカップルが一番奥の席を陣取っていたが、他には誰もおらず、日中のような賑わいは全く無く閑散としていた。
「懐かしいなあ。マクドナルドには幼い頃、両親によく連れてきてもらったことがあるんですよ。最近は全然ですけど……」
「両親……?」
「はい。父親がまだ生きていた頃です」
信彦は何のためらいもなくそう言うと、大きな目を見開きながら、レジの真上に貼り付けられたメニュー表をじっくりと見定めていた。
「じゃあ、これで……」
潮香は信彦が選んだメニューを見て目を丸くした。
「ちょっと、ポテトとアイスコーヒーだけでお腹いっぱいになるの?」
「良いんです。これだけでも十分腹持ちしますから。さ、住吉さんもどうぞ。僕は椅子を確保してきますから」
信彦は急き立てるようにそう話すと、ちょうど二人分の椅子が空いていた窓際のテーブルを確保した。潮香は信彦の注文分と併せて代金を支払い、信彦の注文したフライドポテトとアイスコーヒー、そして自分で注文したアップルパイとコーラを持ってテーブルへと戻ってきた。
「あの……僕の分は自分で支払いますから!」
「いいのよ。さ、どうぞ。温かいうちに召し上がれ。あ、お金のことならご心配なく。アルバイトで臨時収入があったからね」
「そうですか……じゃあ、お言葉に甘えまして」
信彦は神妙な顔で、目の前に置かれたフライドポテトを見つめていた。
「私、夏休みの間だけアルバイトしてるの。テレビドラマのエキストラなんだけど、結構楽しかったなあ。憧れてた俳優さんを間近に見ることができたし、テレビ局って楽しい所なんだなって思ったよ」
「へえ……さすが、東京は違いますね」
「探そうと思えばいくらでもチャンスがあるんだよね。こっちだといくら探しても見つからなかったのに」
「……そうですよね。なのに僕は、この田舎町で何をやっているんでしょうね」
信彦はうつむいた姿勢のまま、言葉を続けた。
「早稲田は素晴らしい作家を数多く輩出しています。住吉さんもきっと、早稲田で素敵な男性に出会ってますよね。僕など足元にも及ばないような」
「べ、別にいないわよ。考えすぎだよ、信彦君」
信彦は厭世的な言葉を並べながら、アイスコーヒーを少しずつ喉に流し込んでいた。
「僕、毎日仕事に追われていますが、少しずつですが、受験勉強もしています。今はまだ稼ぎが少ないし、母さんの病気のこともあるから、いつ受験できるのかは分からないけど……でも、いつか絶対に早稲田に行きたいです。憧れの文学者の皆さんが通っていた学校ですし、それに……」
信彦はそこで言葉が止まった。一生懸命何かを言おうとしているが、なかなか言いにくそうな感じがした。やがて信彦は残りのアイスコーヒーを全て飲み干し、苦しそうな表情で胸に手を当てながら口を開いた。
「住吉さんと、ずっと、一緒に居たいから……」
信彦は全て言い終えると、口元を押さえて軽くげっぷをしていた。潮香は信彦の言葉に驚きつつも、詰まりながらも一生懸命吐き出した信彦の言葉を愛おしく感じていた。
「私も一緒に居たい」
潮香はそう言うと、信彦の目を真っすぐ見つめた。
「私、嬉しかったんだ。さっきのカラオケで信彦君の気持ちに触れることができて」
「そ、そうですか?」
「だからさ、私もそれに応えたんだよ。『ミラクル・ラブ』……私達二人は、運命の赤い糸で結ばれていたって」
「そうなんですか。あの曲って、そういう意味があったんですね……」
ここまでずっと硬かった信彦の表情は、ようやくほころび始めた。
その時、近くに座っていた高校生カップルが立ち上がり、仲睦まじそうに寄り添いながら、店の外へと出ていった。
「あの二人……すごく仲が良いですね。何だか羨ましいなあ」
信彦は二人の背中を、時折微笑みながら見守っていた。潮香は一瞬耳を疑った。信彦から「羨ましい」なんて言葉が出るなんて。
「僕たちも、そろそろ行きませんか」
「そうだね」
信彦は立ち上がると、潮香の分も含めてトレイの上に残った包装を近くのゴミ箱に投げ入れると、再び潮香の元に戻ってきた。
二人が店の外に出ると、先ほどの混雑が嘘のように、繁華街にはほとんど人通りが無かった。時計を見ると、いつの間にか十一時を回り、まもなく日付が変わろうとしていた。
「住吉さん、帰り、どうするんですか? これから家族に迎えに来てもらうんですか?」
「うん……でも……」
潮香は黙ったまま、じっと立ち止まっていた。
このまま信彦と別れると、次いつ会えるのか分からなかった。
大学入学以来、信彦との手紙のやり取りをここまで続けてきたが、大学のサークル活動やアルバイトに追われるうちに、手紙を書く時間も段々取れなくなっていた。
信彦は家計を支えるために必死に稼ぎながら勉強を進めているが、今の彼の家庭状況を考えると、果たしていつ受験が可能になるのか、そして無事早稲田に合格できるのはいつになるのか、見通しは全く立たないように見えた。
そう考えた時、目の前にいる信彦ともっと一緒に居たいと思った。
「ねえ、この辺りでもっと時間が潰せそうなところはないかな?」
「この辺りで……ですか?」
信彦は体を回転させながら辺りを見渡していたが、ある程度動いた所で突然動きを止めた。潮香がその視線の先を見ると、そこには「ホテル マリアージュ」と書かれた看板がかかっていた。
潮香は「ここ?」と叫び、両手を口に当てた。しかし、沿道の店のほとんどがシャッターを下ろし、見た限りでは、中に入れそうなのはこのホテルしかない様子だった。
潮香はこのままホテルに行くべきか、別な場所を探した方がいいのか戸惑っていたが、その時、潮香の中である願望が突如湧き上がった。それは、信彦と出会い、付き合い始めてからずっと、表に出すことなく、心の奥底で持ち続けていた願望であった。
お互いに大学生になってからでも遅くないと思っていたが、それがいつになるか分からない今となっては、これが最後のチャンスかもしれないと思った。
「うん、いいよ。中に入ろうか」
「じゃ、行きましょうか」
二人は肩を並べ、一緒にフロントに向かった。
「二人部屋を一室、お願します」
「はい、空いてますよ。五階の五〇三号室です」
二人は受け取った鍵を手にエレベーターに乗り、五階で降り立つと、窓の外には暗闇の中灯りが点在する常山市街地が見渡せた。
「わあ、とても眺めのいい階ですね」
「そうだね」
「ここなら、時間を忘れてお話できそうですね」
「そうだね……」
二人はベッドに腰掛けると、向き合って話しを始めた。
信彦は、いつものように最近読んだ文庫本の話や仕事での話などを饒舌に語りだした。潮香は、信彦の話を頷きながら聴き入っていた。
時間は刻一刻と過ぎ、饒舌だった信彦も次第に言葉の数が減ってきた。
「あれ? どうしたんですか、住吉さん。さっきからずっと黙っているけど……」
すると潮香は長い髪の毛を掻き上げ、真後ろに流すかのようにふわりと舞い上がらせた。信彦は潮香の髪を、口をぽっかりと開けながら見続けていた。
「信彦君、好きなんでしょ? 私の髪……。以前言ってたよね?」
「は、はい。そうですけど」
「私はね、信彦君の全部が好きだよ」
「僕の……全部?」
「そう」
潮香は信彦の肩に手を回すと、信彦の大きな目をまっすぐ見つめた後、頬に口づけした。
「ど、どうしたんですか、いきなり」
「大好きだよ、信彦君」
潮香はそう言うと、信彦の顔中に口づけした。額、耳たぶ、鼻、あご……そして最後に、信彦の唇を塞ぐかのように自分の唇を押し当てた。信彦の顔中には、潮香の付けていた薄紅色のグロスが沢山付着していた。
部屋の鏡を覗き込んだ信彦は、顔中を手で撫でながら驚いた表情を見せていた。
「フフフ、信彦君の顔に沢山口紅を付けちゃった。ごめんね」
「住吉さん……僕は一体、どうすれば」
「私もわからない。でも、今の私は信彦君が欲しいの。信彦君と本当の意味で結ばれたいの」
潮香は部屋の電灯の明かりを落とし、着ていたワンピースと下着をそっと脱ぎ捨てた。信彦は、露わになった潮香の胸と局部を見てしばらく戸惑っていたが、やがて覚悟を決めたのか、着ていたシャツとズボンを脱ぎ捨て、潮香の身体に覆い被さるかのように倒れこんだ。
「僕……初めてなんですけど、いいんですか?」
「いいよ。気にしないで」
わずかに灯る薄明かりの下、二人は生まれたままの姿で互いの名前を呼び、汗にまみれながらきつく抱きしめ合っていた。
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