三章6 君に捧げるラブソング

 二〇一三年七月

 四月から早稲田大学に通い出した潮香は、キャンパスでの講義が終わると、鞄を抱えたままそそくさと教室を後にした。今日も午後から夜までサークルの練習が組まれていた。

 潮香は高校時代の吹奏楽部の経験を活かして吹奏楽団に入り、練習に追われる毎日を過ごしていた。

 入学時での勧誘では、先輩たちからの「高校時代ほど厳しくないから」とか、「緩い雰囲気だから気軽にどうぞ」などの誘い文句にフラフラと釣られてしまい、気が付けば入部していたという感じであった。確かに先輩たちは優しく、高校時代の吹奏楽部ような緊迫した雰囲気は感じなかったけれど、定期演奏会やコンクールを目指して徐々に練習量を上げていく所は何ら変わらず、時には厳しい言葉が飛び交うこともあった。

 また、通常の練習のほかに、広報などの運営業務も一年生からどんどん任されており、勉強する暇などはほとんど無いに等しかった。

 六月には新人の最初の関門と言われた「定期演奏会」があり、そこまではほぼ練習漬けだったが、無事に終了すると、ようやく少しだけ余裕が出来た感じがした。

 そして、気が付けば大学生活にどっぷりと嵌り、学部や学年を越えた沢山の友達ができていた。

 潮香は学生会館にたどり着くと、自分のパートであるホルンの練習室に入ろうとしたその時、ポケットに入れていたスマートフォンが振動音を立てて激しく震えだした。

 大学合格のお祝いに買ってもらったまだ真新しいスマートフォンを潮香は丁重に取り出し、画面を確認すると、どうやらLINEに母親の小枝子からメッセージが届いていたようだった。


「久しぶり。大学生活、楽しんでる? 高校の同級生の珠里さんから同窓会のお知らせが来たよ。写真で撮って送ったから、珠里さんにメールで出欠を連絡してあげてね」


 メッセージに添付された写真を見ると、八月のお盆期間中に地元常山市で同級会を開くとのことだった。まだ卒業して数ヶ月で開くのは早くないか? と思ったし、何よりも珠里が幹事を務めているということが、潮香の気持ちを尻込みさせていた。

 ところで、信彦はこの会に出席するのだろうか……?

 信彦はスマートフォンはおろかガラケーすら持っておらず、信彦との連絡手段は、手紙のやり取りのみであった。しかし、潮香がサークルで忙殺されるようになると手紙を書く回数も減り、信彦とは段々疎遠になってしまった。直近のやり取りでは、信彦は新聞配達以外に、缶詰の工場での仕事も始めたとのことであった。

 信彦と直に話をしたい……そう思った潮香は、即座に幹事の珠里にメールを送った。ただ一言、「同級会、出席します」とだけ書いて。


 八月十五日

 常山市の繁華街にあるレストランの一室を貸し切り、高校時代の同級会が開かれた。

 潮香がレストランに入ると、幹事役の珠里が会場に現れた同級生に次々と声を掛け、近況を報告し合っていた。珠里はショートカットの髪を金色に近い明るい茶色に染め、イヤリングを付けて、わずか数か月の間にすっかり大人びた雰囲気に変わっていた。


「あ、久し振り! 潮香」


 珠里は潮香に気づいたようで、甲高く声を響かせながら手を振って近づいていた。

 珠里とは既に縁を切ったはずだし、一言も話をしたくなかったが、彼女はそんなことを微塵も気にせずに、潮香に積極的に話掛けてきた。


「卒業した時には気づかなかったけど、潮香、早稲田に入ったんだね。吹奏楽や信彦のことで、正直勉強どころじゃないだろうな~と思ってたのにさ」


 潮香は相も変わらず、他人の家に土足で踏み入ってくるかのごとく、潮香の気持ちを踏みにじるような言葉を平気で話していた。


「珠里だって東京外大でしょ? すごいよね。通訳とかでも目指すの?」

「まあ、将来は貿易の仕事をしたいなとは思ってるけどね」


 飄々とした様子でそう言う珠里の左手の薬指に、光る物があるのが潮香の目に留まった。


「あれ? あんた、いつの間に彼氏ができたの?」

「うん。同じクラスにいる留学生の子と付き合ってるんだ。彼、シンガポールから来たんだけど、陽気で好奇心旺盛で私とウマが合うし、貿易の仕事をしたいというのも私と同じだし、本当に価値観がとことんまで一致してるんだよね」

「へえ……あんたと価値観が合う人なんているんだね」

「あ、そう言えば今日はあんたの好きな信彦が来てないよね。正直言うと招待したくなかったんだけど、卒業式の時、信彦抜きでクラスの皆と記念撮影したことを後で先生にこっぴどく怒られたからさ。今日はちゃんと招待してあげたから、感謝しなさいよ」


 そう言うと珠里は鼻で笑いながら潮香の腰を肘で突き、他のテーブルへと移っていった。

「大っ嫌い。あんたにだけは会いたくなかったのに」

 珠里の背後で、潮香は舌を出しながら小声で悪態を付いた。


「高校時代に付き合い始めた彼と、今も東京で時々会ってるんだ」

「大学のサークルでついに彼女を見つけたんだ! 見てるアニメと推しのキャラが同じだったから、意気投合しちゃってね」

「会社の先輩に声掛けられて、それ以来週末はドライブに連れてってもらってるんだよね」


 珠里だけでなく、潮香の周りに立っている同級生たちからも、再会を喜ぶ声とともに「彼氏が出来た」「彼女が出来た」などの話や、自分の恋愛の進捗状況を楽しそうに報告する声がちらほらと耳に入ってきた。

 大学にしろ会社にしろ、新しい場所に入って五か月も経つと生活に余裕が出来て、次のステップとして生活を一緒に楽しむ彼氏や彼女を探そうとするのだろう。

 同級生たちがすっかり「コイバナ」に夢中になっている一方で、潮香はその輪に入れず、一人でスマートフォンをいじりながら、注文したコーラをひたすら飲み続けていた。


「さあさあ、皆さん。歓談が盛り上がった所で、早速カラオケタイムといきますか! 皆さん、学校や職場でカラオケに行って喉を鍛えていると思いますので、さっそくその成果を披露してくださいね~」


 珠里の甲高い声が会場中に響き渡った。


「じゃあ俺から行きます。みんな、楽しんでるかぁ? 今日はとことん飲んで、話して、歌って行こうぜ! 用意はいいか?」

「おう! 自分から先頭切ってやるなんて、さすがクラス委員長だな、上原!」


 高校時代にクラス委員長を務めた上原新太郎うえはらしんたろうが早速マイクを握り、福山雅治の「HELLO」を元気いっぱいに歌い上げていた。

 新太郎が場を大いに盛り上げた後、同級生たちが次々とマイクを持ち、それぞれ鍛えた喉を精一杯披露していた。


「あれ? 住吉さんは?」


 同級生の原野恵里佳はらのえりかは潮香がまだ歌っていないことに気づき、耳元に手を当てて尋ねてきた。


「え? 私は遠慮しとくよ……演奏ならできるけど、歌は全然ダメだから」

「そんなこと言って逃げちゃダメだよ。今日参加した人はみんな一曲は歌ってるんだから」

「でも、みんな上手いし、自分は本当に下手くそだから目立っちゃうよ。それに、何を歌ったらいいのか……」

「とにかく、一曲は歌ってね。はいこれ」


 潮香は恵里佳からカラオケの選曲ブックを無理やり渡されると、「どうして歌わなくちゃいけないのよ……」とぼやきながら一枚ずつめくり始めた。すると、潮香の背後からドアが開く音と、女子達の「ヤバい、あいつが来たよ」という声が聞こえてきた。 

 潮香は選曲ブックから顔を上げると、その先には、新聞店の名前が入ったポロシャツを着た信彦の姿があった。無造作に伸ばしていた髪は少し短くなったけど、ニキビだらけの顔とレンズの大きな黒ぶちの眼鏡は高校時代のままだった。


「信彦が来てる! イヤだなあ、もう逢いたくなかったのに」

「どうしてあいつを呼んだの? 場が盛り下がるのにさ」


 会場のあちこちから、あからさまに信彦を煙たがる声が聞こえてきた。しかし、信彦は気にすることもなく会場中を見回し、やがて一人テーブルの上で選曲ブックを読む潮香の姿に気づくと、迷うことなくまっすぐ駆け寄ってきた。


「遅くなってすみません。折角の同級会ですから、何とか仕事に都合を付けて、途中で切り上げてきました」

「そんな、別に良いんだよ。仕事の方が大事でしょ? 生活にお金が必要なんだから……」

「いや、同級生の皆さんに会いたかったですし、それに……」


 そこで信彦は言葉が止まった。しかし、その視線はまっすぐ潮香の方を見つめていた。


「カラオケですか?」

「そう。でも私、歌が下手くそだし、そもそも何を歌ったらいいか自分でも分からなくて」

「じゃあ、僕が歌いますよ」

「え?」


 信彦はにこやかな顔で、潮香の手前に両手を伸ばした。潮香は戸惑いながらも、信彦の手の上に選曲ブックを置いた。

 信彦は何枚かめくると「あ、これかな」と言い、ページを開いたまま、幹事の珠里に曲の番号を伝えに行った。珠里は番号を入力しながら、訝し気な表情で信彦に尋ねた。


「ねえ、何を歌うの? というか、信彦……カラオケ、やったことあるの? いつも本ばかり読んでるイメージだけどさ」

「やったことはありません」


 信彦はそうきっぱり言うと、マイクを手に大きく一礼し、歌詞が表示される大画面に向かって歌い始めた。

 歌は、村下孝蔵の「初恋」だった。

 歌自体は決して上手いとはいえないけれど、情感を込めてしっとりと歌っており、発音がはっきりしていて、歌詞の一つ一つが潮香の耳にもきちんと伝わっていた。

 さっきまで賑やかだった会場は、いつのまにか静寂につつまれていた。おとなしく何を考えているか分からない不気味な存在だった信彦が、まさかカラオケを歌うなんて……それは、同級生たちに大変な衝撃であるように感じた。

 歌い終えた時、信彦は深々と頭を下げ、そのまま潮香の元へ戻ると、マイクを渡した。


「さ、次は住吉さん、お願いします」

「え、で、でも……」

「自分が心から歌いたい、と思った曲を選べばいいんですよ。僕、音楽は興味ないし、カラオケなんて行ったこともありません。でも、こないだテレビで聴いたこの曲がすごく心に残っていたんです。何というか、今の自分の気分を代弁しているみたいで……」


 潮香は思わず心が疼いた。「初恋」の、恋する気持ちを甘く切々と綴った歌詞……それが今の信彦の気持ちを代弁しているとすれば、それに対し、潮香はどう答えたらいいのだろうか。


「住吉さん、そろそろ頼むわね」


 真後ろから、恵里佳が歌うことを急かすかのように肘を打った。


「じゃあ……私も、行ってくるね」


 潮香は立ち上がると、自分が選んだ曲の番号を珠里に伝えた。珠里は耳元で「やるじゃん、信彦。ま、それでもキモい奴という印象は変わらないけどね」と言って、ニヤリと笑った。

 やがて画面が変わり、潮香の歌う曲のタイトルが映し出された。

 選んだ曲は、竹内まりやの「ミラクル・ラブ」だった。

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