三章5 甦った記憶

 カンさんの運転するミニバンは、東北自動車道を快調に飛ばしていた。

 車中では、いつものように浜田省吾の歌声が流れていた。カンさんは片手でハンドルを、もう片手でコーヒーのペットボトルを握りながら、歌声に合わせて鼻歌を唄っていた。

 潮香は頬杖を付きながら、憂鬱な表情でスマートフォンをじっと見つめていた。


「どうした? さっきから元気ないな。車に酔ったんか?

「違う。晴人さんからまたメッセージが来たんだ。『君は今、どこをさまよってるんだ』って」

「また来たのか……晴人さん、相当心配してるんじゃないのか? だから事前にちゃんと話し合ってから出かけた方が良いって言ったじゃろうが」

「でも、下手に話し合いなんかしたら、間違いなく私をあの部屋から出られないよう仕向けてくるはずだよ。あの人は自分の欲情のためには手段を選ばないから。だから、メッセージが送られて来てもずーっとシカトしてるの」

「じゃけど、潮香ちゃんは公には『病気療養中』になってるんやぞ? それもこれも、晴人さんが根回ししてくれたからじゃろうが」  

「わかってる……わかってるけど、でも……。あ、またメッセージが来た」


 潮香はスマートフォンを見て、額に手を当てながらため息をついた。


「『どうして僕の元から逃げたんだ? 僕は君のことを守るため自分が出来るあらゆることをしてきたのに』だって……」

「ほらな。これ以上晴人さんのメッセージをシカトしたら余計きまずくなるぞ。気は進まんだろうが、ちゃんと返信してやれや。晴人さんの元から逃げたことは間違いないんじゃけ、後はその理由をちゃーんと伝えるんやぞ」


 カンさんはペットボトルのコーヒーを飲み干すと、まくし立てるように言い放った。

 潮香はどう返信すれば相手の気持ちを傷つけずに自分の気持ちを分かってもらえるか、文章を頭の中で何度も何度も練り直した。

 カーオーディオからは、窓の外のからりと晴れた空に似合わぬ切ない歌声が聞こえてきた。


「お、『片想い』だな。この曲、すごく切ないけど好きなんよね。俺もこういう恋愛を何度もしてきたから、本当に身に沁みるわ」


 カンさんは曲に合わせながら切々と歌っていた。カンさんの声は野太く、浜田省吾の甘い声とは全然違うけれど、自分の過去の恋愛を思い出しながら唄っているせいか、他の曲を唄っている時よりも感情移入しているように見えた。


 潮香はカンさんの歌声を真横で聞きながら、スマートフォンで晴人へのメッセージを打ち込んだ。


「私をマスコミ他社から守ろうとする晴人さんの気遣い、すごく嬉しかったです でも、私の気持ちをわかろうとせず、一方的に自分の気持ちばかり押し付けてきても全然嬉しくないです もうこれ以上はさすがに耐えきれません 私はもう自分のことは自分で守ろうと心に決めたので、大丈夫です 無言で部屋を飛び出し、ご心配をおかけしたたことは謝ります すみませんでした 住吉潮香」


 潮香は晴人に送付したメッセージを読み上げると、ハンドルを握るカンさんの方を振り向いた。


「ねえ、こんな感じの文章なら、怒らないかな?」

「まあ、今更何を言っても怒られそうだけど……一応ちゃんと謝ってはいるから、少しは印象も変わるかもな」

「じゃあ、送信ボタンをポチっと……」


 潮香はメッセージを送信すると、カンさんから買ってもらったコーラのペットボトルの蓋を開けた。


「お、良い飲みっぷりだね」

「コーラ飲んでる時が一番幸せを感じるから」

「そう? 好きな人と過ごす時じゃなくて?」

「……好きな人と過ごしたくても、今は一緒に過ごせないから」

「どういう意味よ? また意味深なことを言いよるな」


 その時、潮香のスマートフォンから振動とともに着信音がけたたましく鳴り響いた。


「晴人からの返事が来た!……なになに、『もういい。僕としては君のことを守ろうとあの手この手を尽くしてきたのに、それをそんな風に感じていたなんて、正直裏切られた気分だ。どこに行こうが、君の勝手にするがいい。まあ、君の居場所は大体想像がついているけどな』」


 メッセージの最後の部分を読んだ潮香は顔が青ざめ、コーラを握る手から力が失われていくように感じた。


「あらら、せっかく元気になったのに、また空気が抜けたような顔に戻っちゃって」

「だって……晴人さんって、自分の欲望を満たすためにはあらゆる手段を取る人だから」

「でも局内では相当人望がある人だぞ? 君を追い詰めるような卑劣な真似をするかなあ?」

「……可能性はあると思う。あの人に私が今までされたことを考えたらね」


 その後、晴人からは一切メッセージが送られて来なかった。今後彼がどのような行動に出るかが気になるが、メッセージが来なくなった分、潮香は幾分か心が軽くなった感じがした。

 東京を出発して数時間が経過し、ミニバンは数日ぶりに常山市に戻ってきた。途中、氾濫した井水川を横目に見て、被災した西方地区を通り抜け、道路を次第に高台へと向かって走り続けた。やがて車の前方には「もみの樹荘」の看板が見えてきた。

 二人はミニバンを降りると、現地でずっと取材を続けていた清田が出迎えてくれた。


「お疲れさまです。すみません、今日の中継では見苦しい所を見せてしまいまして」

「ああ、あれはちょっとびっくりだったな。というか、あの二人じゃ取材は無理じゃろうが」

「申し訳ありませんでした……川の氾濫で被災した長屋に住んでいた人で、誰か体験談を聞ける人はいないかってワンダーTVから提案されまして、僕も色々探したんですけど、最終的にあの親子しかいなかったんですよ」

「……そうか」


 信彦親子に取材を行ったのは担当した系列局ではなく、身内が間接的に犯したことだと知って、潮香もカンさんも肩を落とした。


「とりあえず、二人は部屋にいるんか?」

「はい。施設の皆さんが必死になだめ、今は二人とも落ち着いた様子です」


 二人は施設の二階に上がり、信彦たちが避難生活を送る部屋のドアを開けた。

 そこには、布団に横たわる母親と、窓の外をずっと見続けている信彦の姿があった。


「信彦君、帰ってきたよ」


 潮香は信彦に近づくと、額に手を当てて敬礼のポーズを取った。

 すると信彦は潮香の方に向き直り、大きく丸々とした目を大きく見開き、口を開いた。


「すーみー! すーみー!」


 潮香を指さしながら、信彦は必死に声を上げていた。その表情は、朝方テレビで見せたような怒りに満ちたものではなく、頬が緩み、どことなく笑っているようにも見えた。


「あ、そうか、信彦君、私のこと『住吉さん』って言ってたもんね。だから『すーみー』なのか。アハハハ」


 信彦はおぼろげではあるが、潮香の名前を思い出していた。先日会った時は全く何も言ってくれなかったのに、ちゃんと名前を言ってくれたことに潮香は驚いた。そして顔を信彦に近づけると、頭の上に手を載せ、上から下へとゆっくりと撫で、やがて潮香の手のひらの上に自分の手を置いた。

 

「嬉しいよ、私の名前を憶えていてくれて。会いたかった。ずーっと会いたかったよ、信彦君」

「すーみー……」


 潮香は信彦と体を寄せ合いながら、窓の外を見ている信彦と同じ方向を見つめようとした。


「ほら、あそこが井水川だよ。私達、一緒に自転車こいでいたよね。そして、その向こう……ここから見えるかな? あそこにある白い建物が、私達の通っていた高校だよ。覚えてるかな、いつも一緒に図書室で勉強したことを」


 潮香は信彦に話しかけるだけでなく、身振り手振りを交えながら、自分の言葉を何とか信彦に分かるように伝えようとしていた。

 すると、信彦は潮香と同じ動作をしながら「すーみー、すーみー」と何度も繰り返した。信彦の言葉はさっきと同じだったが、それはまるで「そうですよね。あの頃の僕はいつも住吉さんと一緒に居ましたよね」とでも言っているかのように聞こえた。


「こないだの私の話を聞いて、少しは思い出してきたんだね。私も嬉しいよ、あの時の信彦君が戻ってきてくれて」


 潮香がそう言うと、信彦は「うー、うー……」と繰り返し、嬉しそうに頷いていた。


「す、すごい。君ら二人、まるで会話しているように見えるわ」


 カンさんは興奮気味に声を上げた。隣に立つ清田も信じられない様子で二人の背中をじっと見つめていた。


「さっきテレビで見たよ。いきなり大声を上げてたけど、怖かったの?」


 潮香はカメラを担ぐ素振りをした後、口を開けて怒鳴りこむようなしぐさを見せると

 信彦は首を上下に揺すり、大きく頷いた。


「あいつ、ちがう。すーみー、いなかった」


 信彦はそう言うと、潮香は目を閉じながら何度も頷いていた。


「ごめんね。本当は私が行きたかったけど、今はだめなんだ。でも、信彦君は私と話したかったんだね」


 潮香は、自分の手のひらの上に載っている信彦の手を強く握りしめた。


「でも大丈夫だからね。私はあなたの側を離れないから」

「すーみー……」


 二人の後ろでは、カンさんが目元を何度も手で押さえながらすすり泣いていた。


「い、いかん。俺、こういうの本当に弱いんだわ。おい清田、俺、ロビーに行くから、何かあったら呼んでくれよ」

「ちょっと、僕のこと置いていかないでくださいよ! 僕もここにいるのはちょっと……」


 カンさんと清田がそそくさと姿を消すと、部屋の中には潮香と信彦だけになった。その後ろでは、母親がずっと眠り続けていた。窓の外の景色は次第に薄暮に包まれ、空が茜色に染まり始めた。


「ねえ信彦君、こないだの話の続き、してもいい?」


 信彦は首を左右に傾けながら、軽く頷いていた。


「あ、嫌になったら、私の口をこういう風にチャックしてちょうだいね」


 潮香は自分の口を左から右に指でなぞると、信彦も頷きながら同じように口に指を当てていた。


「どこまで話したっけ? あ、そうそう。高校を卒業する所までだったよね」


 潮香は目を閉じると、窓の桟の上で頬杖をつきながら記憶を呼び覚まそうとしていた。

 その隣で、信彦は目を見開き、潮香の顔をじっと見つめていた。まるで、潮香の話を今か今かと待ち構えているかのように……。

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