三章8 赤い糸

 翌朝、窓から差し込む朝陽の光に照らされ、潮香は目をこすって起き上がった。

 生まれたままの姿で布団にくるまっていた潮香は、信彦と長時間抱きしめあって体中にたくさん汗をかいていたにも関わらず、きちんと拭わぬまま疲れて寝てしまったせいか、体が冷えてしまい、部屋中に響き渡るほどの大きなくしゃみをした。

 隣に寝ている信彦を起こしてしまうとまずいと思い、潮香は即座に信彦の使っていた枕に目を遣った。


「あれ? 信彦君……いないの?」


 潮香はシーツをめくって中を探ってみたが、やはり信彦の姿はなかった。潮香は慌てて起き上がり、一糸まとわぬ姿のまま部屋中を探し回った。しかし、信彦はどこにもおらず、潮香の表情には焦燥感が漂い始めた。

 もう会えないかもしれないと思い、気持ちが先走って無理やり信彦と身体を交えてしまったことが一因だろうか。信彦はひょっとしたら、そんなことを全然望んでいなかったかもしれないのに……。

 その時、潮香はテレビの前に置いてある一枚の書き置きを発見した。筆跡を見ると、信彦が書いたもので間違い無さそうだった。宿泊者から宿への伝言用に置いてあるメモ帳を一枚破き、いつもノートに書いていたように紙一面にびっしりと文書を書き綴っていた。一体、何が書いてあるのか……潮香は書き置きを読むのが怖かったが、つばを飲み込むと、目を凝らして読み始めた。


「おはようございます。ひとりぼっちにして申し訳ありませんが、これから朝刊の配達があるので、先に失礼します。昨日はとても楽しかったです。そして、住吉さんがこんな僕のことを心から好きだということを知って、とても嬉しかったです。この気持ちを大事にしながら、僕はこれからもこの町でがんばります。いつかきっと、住吉さんの所にたどり着けるように。 岡部信彦 ※追伸 ホテル代は既に僕の方で精算済みです。お気になさらず」


 潮香は書き置きを読み終えると、その場にしゃがみ込んだ。

 別れ際、信彦に色々と言いたいことがあったのに、何も言えなかった。行為中に何度も耳元で「大好き」とささやいたけれど、それだけでは足りないほど、信彦には伝えたいことが沢山あった。出かける前に「行ってらっしゃい」のキスをしてあげればよかった。そして何より、家計が苦しいはずの信彦にホテル代を支払わせてしまったことを、強く後悔していた。机の上に貼ってある宿泊料金は「九千円」となっており、信彦には相当大きな負担だったに違いない。

 思い返せば後悔することばかりで、潮香はしばらく立ち上がれなかった。

 潮香は布団の上に手を当てると、しっとりと濡れているような感触が残った。そのすぐ近くには、信彦の使った枕が置いてあった。潮香は濡れた場所に顔を近づけると、かすかに汗の臭いがした。

 信彦も、体を重ねるうちに沢山の汗をかいたに違いない。あの後、ちゃんと汗を処理して、風邪を引かずに無事に仕事に行けたのだろうか? 

 色々なことを思い巡らせるうちに、潮香は再び後悔の念に襲われた。

 シャワーを浴び、服を纏うと、窓の外には駅に向かう人達の波が出来始めていた。仕事や学校へ行く人達だけでなく、お盆休みが終わり首都圏などへ帰る人達が多いのだろう。

 潮香も、明日にはもう東京に帰らなくてはいけない。東京に帰ると、早速吹奏楽団の練習とアルバイトの日々が待っている。

 そんな生活が続くうちに、信彦と連絡が取れなくなるかもしれない、そして、信彦のことも記憶の中から消えていくかもしれない。

 しかし、潮香にはおぼろげながら予感があった。信彦との間には、ほつれそうでほつれない、頑丈な赤い糸があるような気がした。きっとまた、信彦に会えるだろう。それは今年中かもしれないし、来年、いや、もっと先になるかもしれない。

 いつかまた会える日が来るまで、潮香は自分が出来ることをしようと思った。たとえ忙しくても手紙を書き続けよう、今日感じた信彦の体のぬくもりをいつまでも忘れないでいよう、そして、信彦に再び会えるその日まで、恋人を作らず待ち続けよう、と。



 トントン、トントン……


 目を閉じて訥々と語り続ける潮香の背中を、誰かが何度も叩いていた。

 それでも語り続けた潮香の唇の上を、今度はまるでなぞるかのように指を左右に動かしていた。。

 急に口を塞がれた潮香は、語りを止めて目を少しずつ開けると、そこには大きな目を何度も瞬かせながら自分を見つめ続ける信彦の姿があった。


「ごめん、私、さっきからずーっと昔話しちゃってたね。こないだも延々と昔話していたし、信彦君もさすがにもう飽きて来たよね」


 潮香は苦笑いしながら信彦の指を片手で掴むと、自分の口から外そうとした。


「でもさ、私と信彦君を結んでいた赤い糸は、どれだけ時間を過ぎてもちゃんと繋がっていたんだなって。それがすごく嬉しくてね、つい長話になっちゃったの。ごめんね」


 すると信彦は、「うー、うー」と唸るかのような声を発しながら、今度は自分の真後ろの方を指さし始めた。


「……後ろに、何かいるの?」


 潮香は信彦の「うー」という声が、「後ろ」と言っているかのように聞こえた。信彦の指さす方向を目で追い続けるうちに、開いているドアの隙間から部屋を覗きこんでいる人間の姿が眼中に入った。その瞬間、潮香は「あっ!」と驚きの声を上げた。


「こんにちは。やっぱり、ここに来ていたんだね。潮香」


 信彦の指さす先には、晴人の姿があった。

 

「晴人さん……?」


 朝早くから仕事が入り、ずっと東京にいるはずの晴人が、どうして遠く離れた常山市に来ているのだろうか?

 

「一体どこにいるのかと思っていたら、やっぱりここだったのか。ダメだろ? マスコミから追われている身なんだから、遠出するならば行先をちゃんと僕に言わなくちゃ」 


 そう言うと、晴人は口元を緩めてへらへらと笑いながら、部屋のドアを開けて潮香たちの元へとゆっくり近づいてきた。

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