序章3 帰郷

 潮香が帰ろうとしたその時、廊下の反対方向から熊谷が息を切らしながら潮香の方に向かって走ってきた。アナウンス室に向かうのかと思いきや、急ブレーキをかけるかのように突如潮香の目の前で足を止めた。


「ど、どうしたんですか? そんなに慌てて」

「これから家に帰るのか?」

「え……そうですけど?」


 すると熊谷は胸に手を当てながら気持ちを落ち着かせた後、ようやく口を開いた。


「今夜、泊まる準備をして出社してくれるか? あ、汚れていい服装と、丈夫な靴も用意してな」

「え? ど、どういうことですか?」

「明日の『オキドキ!』は、今回の水害について特集する予定だ。君は被害が大きかった東北の常山市へ行って現地の様子を生中継してほしいんだ」


 熊谷の言葉を聞き、潮香は両手を口に当てて驚いた。今回の水害で被害を受けた東北、しかも潮香の故郷・常山市に行かせてもらえるなんて。あまりにも急な展開に、潮香は理由を把握できずにいた。


「一体どうしたんですか? あんなに反対していたじゃないですか」

「君に説明するほどのことではないよ」

「でも……ちょっとおかしくないですか。ついさっき、私が現地レポートなんかしたら私のイメージだけでなく、局のイメージも悪くなるって言ってませんでしたか?」

「まあ、僕はそう思うから、正直気が進まないんだけど……上の方から、君にぜひお願いしたいって強い依頼があったんだよね」

「上? 一体誰が?」

「これ以上は説明できない。とにかく君は今夜中にはここを出発しないと明日の放送時間に間に合わない。早速準備を進めてくれ」


 熊谷はそう言うと、潮香の背中を軽く叩き、アナウンス室へと戻っていった。

 その時、潮香の鞄の中からコロコロと音が響き始めた。潮香は慌てて鞄の中に手を突っ込み、スマートフォンを取り出した。どうやらLINEにメッセージが届いたようだ。


「晴人?」


 送付元の名前を見て驚いた潮香は、一体何事かとメッセージに目を通した。


「俺の方で制作部長を通して話をつけておいたよ。こんなことしかできないけど、これで君が心置きなく実家に戻れるんじゃないかと思う。じゃ、また何かあれば遠慮なく」


 晴人からのメッセージはあっさりとしたものだった。しかし、こんな短時間に制作部長を説得してしまう晴人は、やはり只者ではないと感じた。潮香はLINEを通して、晴人に対し「ありがとう」と一言だけメッセージを送った。



 その夜、潮香は着替えやヘルメット・カッパなどを目一杯詰め込んだキャリーケースを手に、テレビ局に戻ってきた。すると、正面玄関前に横付けされた取材用のミニバンから「潮華ちゃん、こっち」という声がした。

 潮香は「カンさん!?」と大声を発し、片手を振りながら駆け寄った。


「こんばんは、潮香ちゃん。今日は俺たちの取材にお付き合いしてもらって悪いね」


 被災地取材チームのリーダーである、報道部カメラマンのカンさんこと伊藤寛太いとうかんたが、ハンドルを握りながらにこやかな表情を見せた。顎や口元が真っ黒な髭で覆われ、見た目が山男のようだが、実際に学生時代は山岳部として国内外の山々を制してきた経験があり、体力も精神力も人並み以上のものを持っていた。


「カンさん、よろしくね。今回は私からお願いしたのよ。常山に行きたいって言ったのは、私のわがままだから」


潮香はそう言うと、キャリーケースを荷台に乗せ、助手席に飛び乗った。


「潮香ちゃん、自分から手を挙げたのか?」

「だって私、常山の出身だもん」

「そうか……」


 カンさんは渋い顔をして口をつぐんでしまった。


「現地にいるみちのくテレビのスタッフに聞いたけど……相当被害がひどいみたいだぞ。自分の暮らした町が変わり果ててるのを見たら、ショックを受けるんじゃないか?」

「いいのよ。それでも行きたい」

「……わかった。じゃあ、行こうか」


 カンさんが車のエンジンを回すと、二人が乗ったミニバンは、多くの車がまばゆいライトを照らして走り抜ける都心の幹線道路に向けて勢いよく走りだした。

 快調に車を飛ばすカンさんは、ペットボトルのコーヒーを飲み干すと、後部席に投げ捨て、カーステレオのスイッチを押した。すると、重低音の効いた演奏に乗って、男性歌手の甘く落ち着いた歌声がゆっくりと流れ始めた。


「あれ? この曲、確かこないだも取材の道中で流してましたよね」

「そうさ。ハマショーの曲だよ」

「ハマショー?」

「浜田省吾のことだよ。潮香ちゃんには分からんかな」

「お名前は知っていますが……」

「そうか。今の若い子は知らんのかな? 俺がハマショーに嵌ったのはまだ中坊の頃だったからね。そこからかれこれ三十数年間、俺はずーっとハマショーばっかり聴いとる。ハマショーは俺と同じ広島出身じゃから、親しみもあるしな」


 ハンドルを握りながら、カンさんはカーステレオから流れる曲に合わせて気持ちよさそうに鼻歌を唄っていた。


「ところでさ、潮香ちゃん。寺田さんとはうまく付き合ってる?」

「な、何よ。いきなり」

「というか、うちの局で最大のトピックだよ、君たちのことは。いくつもの番組を高視聴率にのし上げた名物プロデューサーと、『オキドキ!』ですっかり朝の顔になった美人アナウンサーのカップルの行方。無事にゴールインしたら、芸能ニュースとしても取り扱われるくらいの価値があると思うんよ」

「……ハハハハ、だといいですけどね」


 カンさんの問いかけに、潮香は伏し目がちに答えていた。いくら自局の話題作りになるからといっても、今の潮香には晴人と結婚する未来はとても想像できなかった。

 車が首都高速から東北自動車道に入ると、車窓に映る灯りの数は徐々に減っていき、いつの間にか怖い程の暗闇が道路の周囲を覆い尽くしていた。

 カーステレオの曲が途切れた所で、再びカンさんは口を開いた。


「というか、あの寺田さんとよく意気投合できたよね? 寺田さん、すごく博識で弁が立つ人だって聞いたことがあるからさ。いくら君が美人で寺田さんの気を惹いたとしても、君自身があの人と話を合わせるのは大変だったじゃろ?」


 潮香は「そうですね……」と呟き、闇に包まれた車窓の外を覗きながら頬杖をついた。


「一緒になった番組の打ち上げで晴人さんが隣に来た時、正直何を話していいか分からずドギマギしちゃって。でも、たった一つだけ、あの人と私の共通項があって」

「え? 何なの、その共通項って」

「彼も私も、早稲田大学の出身だったの」

「ふーん……」

「私が学生の頃通ってたカフェとか定食屋さんとか、所属していたサークルとか話したんだけど、寺田さんも全部知っていて。そんな話で盛り上がるうちにお互いの気持ちが通じ合った、という感じかな」

「そうか……そう言えばうちの局、早稲田出てる人多いよなあ。噂では早稲田出身者で派閥が出来てるなんて話も聞いたことがあるし。俺なんか日東駒専じゃけ、全然蚊帳の外やしな」

「何なの、それ?」

「大学受験した時に聞かなかった? 俺は日本大学だけど、うちを含めた都内の中堅クラスの学校を総称してそう呼んでるんよ」

「ごめん、初めて聞いたというか……私、大学受験では早稲田しか受けなかったから」

「早稲田だけ? そりゃとんでもない大博打じゃの。滑り止めとか考えなかった?」

「うん。だって……私、と絶対早稲田に行こうって約束していたから」

「ある人って?」

「……もう遠い過去の人だけどね」

「ひょっとして、初恋の人とか?」

「な、何言ってんのよ! もう。カンさんっていつもそうやって根掘り葉掘り話を聞こうとするから、正直あまり話したくないんだよね。明日は朝早いし、少し車の中で寝ていきたいから、カンさんは話しかけないで運転に集中してよ!」

「はいはい。そうしまーす」


 カンさんは苦笑いしながら舌を出すと、再びカーステレオのスイッチを入れた。

 すると、バンドの伴奏無しで浜田省吾がバックコーラスと共に楽しそうに歌う声が聞こえてきた。軽快でリズミカルに、そしてちょっとだけ憂いを帯びた省吾の声は、大雨で被災した故郷を案じる潮香の心をそっと包みこんでいるように感じた。


「ねえ、今流れてるの……何ていう曲?」

「今の? 『こんな夜はI miss you』だよ」

「I miss youって?」

「『君に会いたい』って意味かな」


 カンさんはカーステレオから流れてくる歌に合わせ、一緒に唄い始めた。

 カンさんの甲高く伸びやかな声と、カーステレオから流れる浜田省吾の歌声が心地よかったのか、潮香は徐々にまぶたが塞がり、車窓にもたれながら眠りに就いた。



「おはよう、潮香ちゃん。もうすぐだぞ」


 カンさんの声を聞き、潮香は慌てて顔を上げた。気が付くと、車窓から遠く彼方に見える朝陽からの光が車内に差し始めていた。朝陽に照らされた道路沿いには沢山の土嚢が置かれているのが目に入ってきた。


「ぐっすり寝ていたね。最近あまり寝てないんか?」

「うん、だって『オキドキ!』に出るため、毎朝三時に起きなきゃいけないんだもん」

「そうか。『朝の顔』って大変だよなあ」


 カンさんはペットボトルに口をつけながら、窓の外を指さした。


「もう君の故郷の常山市に入ったぞ。これから特に被害が大きかった西方にしかた地区って所に行くから、そこで降りてもらうよ」

「西方?」

「聞いた話だと、川の堤防が決壊し、周囲の住宅地が全て浸水したらしいな。道路が寸断されたり、水や電気とかのライフラインも止まっているそうだ」

「……そうなんだ」


 潮香は大きなため息をついた。西方地区は、高校時代に何度か自転車で走った記憶があった。昔の炭住の名残で、長屋風のアパートが多く残り、近くには重要文化財に指定されている大きな寺院もある。落ち着いた雰囲気の土地で、川沿いは秋になるとコスモスの花々に覆われていた。


「ほら、見えてきたよ。どこもかしこもがれきの山が出来とるぞ」


 カンさんが指さす方を見ると、道路沿いにうず高くがれきが詰まれていた。道路が土砂に埋まっている場所もあり、消防団員がスコップで必死に土砂を上げていた。


「これ以上は先に進めなさそうじゃな。悪いけどここで降りてくれる?」

「うん」


 カンさんがカメラ道具一式をミニバンから下ろすのを手伝いながら、潮香は辺りを見回した。そこにあるのは、大量の泥と砂にまみれた道路、真っ黒く濁った水が轟音を立てて流れる川、そして川の水に飲まれて全壊した長屋の無残な姿だった。

 高校時代に見た西方とは全く違う景色を見て、潮香は呆然としていた。そして、潮香の頭の中に、忘れていたはずの過去の情景がいつの間にか甦りはじめた。

 高校時代、潮香には好きな人がいた。学校帰り、二人並んで自転車で堤防を駆け抜けた。

 どうして急に思い出したのだろう? もうとっくの昔のことなのに、あの景色も、時間も、そしてあの人も戻るはずがないのに。


「おーい、潮香ちゃん。そろそろ撮影を始めるから、準備してもらえる?」

「あ、ごめん。今行くね」


カンさんの言葉が耳に入り、ようやく我に返った潮香は、慌ててヘルメットをかぶると、堤防の入口で待つカンさんの元へと駆け出していった。

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