序章2 もどかしさ
スタジオのセット撤去が終わる頃、潮香は共演者たちに頭を下げ、控室であるアナウンス室へと足を進めた。
「住吉さん、お疲れ様」
「今日の笑顔も、すごく良かったですよ! 今日もSNSでは住吉さんの画像が沢山上がってましたね」
行き交うスタッフたちは、スタジオを去ろうとする潮香に対し続々と声を掛けて行った。潮香はスタッフたちの言葉に対し、にこやかな表情で「ありがとう」と言いながら片手を振っていた。一方、背後からは、何人かのスタッフがまるで潮香に聞きとられるのを避けるかのように小声でゴソゴソと話しているのが聞こえてきた。
「さっきから報道部経由で東北の大雨の情報がどんどん入ってきてるけど、予想以上に酷い被害のようだね」
「
どうやら、さっき潮香が読んだニュースに続報が入ってきているようだ。潮香は自らニュースを読みながらも未だに現実が受け入れられず、心の中はもやもやとした気持ちで満たされていた。
アナウンス室に戻ると、潮香はさっき小野寺に言われた言葉を思い出した。椅子にもたれるや否や、スマートフォンを取り出し、LINEを通して母親の
「お母さん、そっちは大丈夫なの? 私、ニュースで災害の状況を読み上げるのが本当に心苦しくて……」
すると数分も経たないうちに、スマートフォンからコロコロと着信音が鳴り響いた。
「私のところはまだ大丈夫だよ。市内にはもっと被害がひどい所もあるからね。余計な心配なんかしなくていいから、潮香は仕事を頑張ってちょうだい」
潮香は小枝子からのメッセージを読み、胸を撫でおろした。しかし、同じ市内で大きな被害が起きているのは間違いないようだ。
「お疲れ、潮香ちゃん」
アナウンス室のチーフを務める
「どうした、途中から歯切れが悪かったぞ。今日はさすがに疲れたのかな」
「え? そんな風に……見えましたか?」
「だって、今日はゲストに韓流の超人気アイドルが来たり、東北の方で大きな災害が起きたニュースもあったから、気持ちを切り替える必要もあっただろうし、きっと大変だったんじゃないのかと思ってね」
「まあ……そうですね」
潮香はコーヒーをすすりながら、言葉少なく呟いた。
「でも、俺も先輩たちもみんなくぐり抜けてきたことだ。潮香ちゃんも色んな経験を積んでおけば、どんな番組に出されても応用が利くようになるから、前向きに考えた方がいいぞ」
熊谷は自分のカップにコーヒーを注ぎながら、訥々と話した。
「いや、私は何度もこういう経験してきましたよ。自分で言うのもなんですけど、少しは慣れてるつもりですよ」
「じゃあ、一体何を悩んでるんだい?」
「何って言われると……」
すると、アナウンス室に報道部の
遠藤は焦った様子で手にしていた紙を熊谷に渡すと、熊谷は怪訝そうな様子で紙に書かれている内容を何度も読み返していた。
「遠藤君、これは至急の要請ってことでいいのか?」
「はい。現地の状況がだんだんわかってきたのですが、想像を超える被害が出ているようです。ウチとしてもその深刻さを伝えるためにも、出来る限り時間を割いてこの件を取り上げようと思いまして、今、取材に向かうスタッフを集めている所です。アナウンス室にも、レポーターとしてアナウンサーの同行をお願いしたいと思います」
「さっき『オキドキ!』で速報を聞いたけど、こないだ九州で発生した時に比べると大したことないと思うけどなあ。これでそんなに被害が出てるの?」
「まあ……東北ではあまり線状降水帯って発生しないですからね。こういう災害が頻発する西日本に比べると、備えという面では脆くなってしまうのは仕方がないかな、と思います」
熊谷は紙に書かれた内容を読み終えると、しばらく頭をひねっていた。
「地元のみちのくテレビに任せられないのか。こういうのは地元局の方が土地に詳しいから、すぐ対応できるんじゃないのか?」
「それが……みちのくテレビは既に県民向けのニュースに向けて全てのアナウンサーを現地に投入しており、これ以上の対応は難しいようです」
「しょうがないなあ……じゃあ、室の新人たちにでもお願いするかな」
熊谷はコーヒーをすすりながら室内をぐるりと見渡した。
「あれ? 今日は新人アナは誰も来ていないの?」
すると、潮香の隣の席に座る先輩アナの
「熊谷さん、多分新人たちは今日こっちに戻らないですよ」
「どういうこと? 紅緒ちゃん」
「一人は日曜日に放送するグルメ番組の撮影で静岡へ行ってます。もう一人はスポーツ中継のため札幌に行ってるし、その他はアナウンスの研修でしばらくはこっちに戻らないですよ」
熊谷は紅緒の話を聞くと、チッと舌打ちして顔をしかめた。熊谷はベテランらしい渋い声と、どんな状況にも左右されない落ち着いたアナウンスで人気があったが、アナウンス室に戻ると些細なことで機嫌を損ねることで知られていた。室内にいるアナウンサー達は、熊谷の逆燐に触れないようずっと口をつぐんでいた。
「だったら、私が行きます」
「何?」
まるで静寂を破るかのように、潮香が立ち上がった。
熊谷は慌てふためき、潮香の元へと駆け寄った。
「いや、僕としては潮香ちゃんは出したくないなあ。君もわかるよね? 豪雨の中継って相当体を張るんだぞ? ヘルメットかぶって、雨合羽着てさ。それに、風に飛ばされないよう足腰に力を入れて必死にこらえたり、雨風の音に負けないように声を張り上げたりするんだぞ? ずぶ濡れになって声を張り上げてる君を見て、可愛いイメージが売り物の君の人気が下がったらどうするんだ?」
「いいです。それでも行きたいです」
「馬鹿言うな。君は当局きっての人気アナなんだぞ。君のイメージが下がると、うちの局のイメージをも損ねる可能性があるんだ。そこのところ、よーく考えてほしいなあ」
熊谷は、あれこれと言葉を並べてけん制しながら、潮香の提案を翻そうとしていた。
「それでも……それでも行きたいです! だって、あそこは私の故郷だから。今日だって、ニュース原稿を読んでるうちに、だんだん心が締め付けられてきたんだもん!」
潮香は拳を握りしめ、真剣な表情で熊谷に訴えた。
「そうか……まあ、故郷を大事にする気持ちはわかるが、俺は共感も支持もできないな! まずは自分の立場をよーく考えるんだな!」
そう言うと、熊谷は叩きつけるようにカップを机に置き、そそくさと廊下へと出て行ってしまった。
「あーあ、熊谷さんを怒らせちゃった。どうするのよ、潮香。あの人、一見さわやかだけど、一度怒らせると結構根に持つタイプだからね」
紅緒は額に手を当てながら、大きなため息をついた。
「だって……自分の地元でこんな酷い災害が起きてるのに、スタジオでぬくぬくしながら他人事みたいにニュースを読み上げるなんて、正直耐えられないですよ」
「そんなの当たり前でしょ? 私の地元は四国だけど、しょっちゅう台風が来てるわよ。そのたびにあっちに行ってたらアナウンサーのやりくりはどうするの? それに私情だけ先行して危険な現地に行って、潮香の身に何か起きたらどうするつもりなの? 災害の現場って、あんたが考えてるより壮絶なんだからね。足場が悪くて泥の中を掻き分けて歩かなくちゃいけないし、がれきに足を取られて大怪我した人もいたんだから」
紅緒の言葉に、潮香は何も言い返せなかった。
紅緒も熊谷も、組織のこと、そして何より潮香のことを案じているのだ。そのことを知らずに自分の気持ちばかり先行していたことに、ようやく潮香は気づかされた。
「ごめんなさい、私……どうかしてましたね」
「分かればいいのよ。それより、潮香には今、もっと大事なことがあるでしょ?」
紅緒はそう言うと、左手の小指を立てて笑っていた。
「そうですけど……あの人の気持ちばかり先走って、私はまだそれほどでも」
「でもさ、
紅緒は肘で潮香の脇腹を突くと、笑いながら席を立ち、廊下の奥へと消えていった。
寺田晴人はワンダーTVの制作プロデューサーであるが、ディレクターだった当時、潮香がアナウンサーとして出演した番組を担当していた。番組が終了した時の打ち上げで席が隣になり、話し合っているうちに意気投合していた。やがて晴人が一方的に潮香を好きになり、潮香はその強引さに負けて仕方なく付き合っているという感じである。
今日はもう収録がないので、潮香は明日の仕事の準備を終えると、鞄を持ち、家に帰ることにした。
『コロコロ、コロコロ』
突然スマートフォンが振動し、着信音が響き渡った。
潮香は慌てて鞄を下ろすと、スマートフォンを取り出した。
どうやらLINEのメッセージが届いたようだが、差出人の欄には「寺田 晴人」と書いてあった。晴人は毎日暇さえあれば潮香にメッセージを送り付けてきていた。その話題は仕事のことから、飼っている犬の話、ゴルフの話まで多岐にわたり、潮香も一応返信はしているものの、正直いちいち返信するのは面倒臭いと感じていた。
「仕事終わった所かな? ところで、今回の水害、潮香さんの実家の辺りも被害を受けたんじゃないのか? 帰らなくていいのかな?」
晴人から送られたメッセージは、まるで潮香の心中を読み取っているかのような内容であった。
「いや、すごく心配だし、正直言うと帰りたいです……でも、熊谷室長が同意できないって言うし、先輩の話を聞くと現場はまだ危険そうだから、今回は諦めます」
潮香は自分の素直な気持ちをメッセージに込めた。
すると、晴人からは一分もしないうちにメッセージが送られてきた。
「ふーん、そうなんだ……でもさ、自分の生まれ育った場所なんだろ? 周りは反対するだろうけど、正直な所、すごく心配してるんだろ? まあ、俺も協力するから、出来ることがあったら言って欲しいよ」
晴人からの返信は、意外なものだった。いつもは潮香の気持ちなどくみ取りもせず、一方的なメッセージしか送り付けて来ないのに。
潮香は鞄にスマートフォンを仕舞い込むと、ため息をつき、帰宅しようと席を立った。
被災した故郷に何もすることができず、無力な自分にもどかしさを覚えながら。
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