序章4 君の名を呼ぶ

 カンさんが立っていたのは、すぐ真横が井水川という場所だった。カンさんの真横には、先発で現地に入っていた音声担当の清田秀一が立っていた。


「いやホント、清田は仕事が出来る奴じゃの。潮香ちゃんが読み上げる原稿を作るために、市内の被災箇所をくまなく確認したみたいだし、中継で視聴者の目を惹きそうな場所をあらかじめ何ヵ所かピックアップしてくれたんよ」


 カンさんは清田を褒めながら、天然パーマでもじゃもじゃの清田の髪を片手でぐしゃぐしゃと掻きまわした。清田は髪をいじられて顔をしかめながらも、時折照れくさそうな表情を見せていた。


「ここならば、決壊した堤防と、堤防を押し流した川の流れがよく見渡せる。ここから中継すれば、今回の水害のすさまじさが見る人にしっかり伝わる。あとは潮香ちゃんの故郷の復興への願いを込めた魂のアナウンスが入れば、カンペキじゃ!」


 カンさんは自分の言った言葉に満足そうに頷きながら、大きなカメラを担ぎ上げた。

 ヘルメットをかぶり、汚れても良い古着のナイロン製のパーカーを着込んだ潮香は、清田から渡されたマイクを持ち、イヤホンを身に付けた。イヤホンからは、ちょうど放送中の「オキドキ!」のメインキャスター・小野寺友之の声が聞こえてきた。


『さて、ここからは中継が入ります。東北地方で先日発生した線状降水帯により、川が決壊し付近の住宅地などに浸水被害が発生した常山市の現場より、住吉キャスターが中継します。住吉さーん! 聞こえますかぁ?』


 いつもならば隣にいる小野寺の顔が見えず、声だけしか聞こえない状態に潮香はとまどっていたが、カンさんのカメラがまっすぐ自分に向いているのを見ると、気を取り直し、清田から渡された原稿を読み始めた。


「はい、聞こえます。えーと……ここ常山市の西方地区は、市内でも特に甚大な被害が生じておりまして……」


 潮香は原稿に書いてある常山市内の被災状況を伝えた。カンさんの言う通り、清田の状況把握は完璧で、原稿には避難した人数や浸水を受けた戸数、被害を受けた箇所まで細やかに書かれていた。


『わかりました。さすがは常山市出身の住吉さん、細かい所までしっかり伝えてくださってありがとうございます。ところで住吉さん、あなたの真後には堤防が決壊した井水川が流れてますよね? 現在の川の様子はいかがでしょうか?』


 潮香は小野寺の言う通りに川の方を見つめると、どす黒い水が、轟音を立てながらがれきや家財道具をものすごい勢いで押し流していた。その時突然、潮香の表情は一変した。そして、まるで何かに怖気づいたかのように体がすくみ、その場から一歩も動けなくなってしまった。


「潮香ちゃん、一体どうしたん? まだ中継は続いとるぞ?」


 カンさんに声を掛けられ、ハッと我に返った潮香は、緊張を何とか押さえようとつばを飲み込むと、再び声を上げ始めた。


「私の後ろを流れる井水川は、堤防が決壊し、次々と周囲にあるがれきを飲み込み、勢いを増して下っております。川の水は壊れた堤防から流れ出し、周囲の住宅地まで流れ込みました……」


 潮香は川の水をできるだけ見ないようにしていた。しかし、中継する以上は少しでも川の様子を正確に伝えないといけない……そう思った潮香は、浸水でぬかるんでいる地面を一歩ずつ踏みしめながら、川に近づいていった。そして川の様子がすぐ真横に見える場所に立ち、状況を報じようとマイクを口に近づけた瞬間、潮香は再び言葉が出なくなってしまった。


「おい、また中継がストップしとるぞ!」


 カンさんは顔をしかめながら呟いていた。このままではいけないことは潮香自身も分かっていた。しかし、二言三言話すと、再び言葉が止まってしまった。


「どうした? ひょっとして川の水が怖いんか?」

「違います……」

「じゃあ、何で言葉が出てこない?」

「だって……」


 昔、夕日に照らされながら自転車で走った堤防が崩れ去り、優しく流れていた清らかな水は轟音を立てて激しく流れるどす黒い水に変わり、この時期になるとコスモスに彩られる堤防はすべて崩れ落ちてしまった。すっかり変わり果てた井水川の様子を見るたびに、高校生の頃の思い出の数々が粉々に壊されていくような感覚に襲われた。その衝撃があまりにも大きく、言葉がなかなか出てこなくなってしまったのだ。


『どうしたんですか? 先程から何度か中継が止まっていますが……こちらの声が聞こえますか? 住吉さん』


 小野寺の訝しがる声がイヤホン越しに聞こえてきた。アナウンサーとして、自分の故郷のために出来ることをしたい一心で、常山市に行くことを希望したはずなのに、このままではチャンスを与えてくれた制作部長や熊谷、そして晴人の心証を悪くしてしまう。


「聞こえてますっ!」


 潮香はありったけの力を振り絞り、声を上げた。


『な、何もそんな必死に話さなくても聞こえてますよ。さっきからどうしたんですか、我々としては被災地だけでなく、住吉さんのことも心配です』


「何でもないですっ! 何度も止まってしまいすみませんっ! 再び中継を続けますっ!」


 するとイヤホンの向こうからスタジオがざわつく声が入り、突如「ここでいったん中継を打ち切り、CMに入ります」と叫ぶ声が聞こえてきた。


「ねえカンさん、中継、打ち切られたみたい……」

「そうか……」


 カンさんは潮香の声を聞き、残念そうにカメラを下ろすと、ポケットに入れていたスマートフォンから突如着信音がけたたましく鳴り響きだした。スマートフォンを取り出して通話をしていたカンさんは、電話主に対し申し訳なさそうに謝っていた。


「誰と話してたの?」

「アナウンス部長の熊谷さんだよ。えらくオカンムリだったわ。何のために被災地に行かせたのかわからんって。視聴者からも『何だあのアナウンサーは』って、じゃんじゃん苦情が来とるって」

「そうなんだ……ごめんね」


 潮香とカンさんは、お互い頭を下げ合っていた。すると、何かを思い立ったのか、清田が二人の元に駆け寄ってきた。


「潮香さん、撮影場所を変えましょうか? ちょっと歩いた所に、濁流に流されず辛うじて残った長屋があるので、そこの住民にインタビューしてみましょう」


 清田の提案に、潮香は申し訳なさそうに「お願いします」と言って頭を下げた。

 三人は泥で覆われた道を踏みしめながら、清田が話していた長屋の前まで歩いていった。ちょうど長屋にたどり着いた頃、イヤホンから小野寺の声が聞こえてきた。


『さきほどは何度か中継が止まりましたが、再び常山市にいる住吉さんによる中継を行います。住吉さーん、聞こえますか? 今度は何とか中継できそうですか?』


 小野寺の呼びかけに、潮香は「大丈夫です」と言って軽く頷いた。思い出の場所である井水川から遠ざかった分、今度は少しは落ち着いて話すことができそうに感じた。


「私は今、井水川から少し離れた所にある、炭鉱住宅の面影が残る長屋の前に来ております。こちらは濁流に飲まれず辛うじて残されたのですが、大量の泥が入り込み、住民の皆さんはそれぞれ家の中に入った泥をかき出そうと必死に作業をしております。さっそく、何人かの方に今の心境などをインタビューします」


 場所を変えた甲斐があって、ようやくいつもの潮香に戻りつつあった。カンさんもカメラを持ちながら、片手で親指を立てていた。潮香は長屋の前で泥をかき出す作業をしている老婆を見つけると、「すみません、ワンダーTVです」と言ってゆっくりと近づいた。


「お住まいの方は大丈夫ですか?」


 潮香がマイクを向けると、老婆は怪訝そうな顔をしながら「大丈夫じゃねえよ」とだけ言い、潮香に背を向けて作業を再開した。


「わかりました。作業のお邪魔をしてすみませんでした」


 潮香はあきらめずに、数軒先で家具を表に出して水をかき出していた男性に近づいた。


「誰だよ、あんたは」

「ワンダーTVの住吉と言います。私、この町の出身で、皆さんのことが心配でやってきました。お家の方は大丈夫ですか?」

「はあ? この町の出身だぁ? そんな奴が何でマイクなんて持ってのこのこやってきたんだ? 暇ならば今から俺と荷物の運びだしを手伝えや」

「いや、だからこそこの町の現状を、全国の人達に少しでも知ってもらいたいと思いまして」

「何だ、手伝わねえのかよ。作業の邪魔に来たのならば、帰れや!」


 男性は舌打ちをしながら、部屋の奥へと姿を消してしまった。

 潮香は肩を落としたが、長屋には他に人が居る様子はなかった。このままでは誰にもインタビューすることも出来ず中継が終わってしまう。川べりでの中継のミスを何とか取り返したい……その一心で、潮香はマイクを手に被災状況をレポートしながら長屋の周辺をくまなく歩いた。

 そして、数メートル先にようやく人影を発見した。


「あ、あちらに住民らしき方がいらっしゃるようなので、お話を伺いたいと思います」


 目の前を歩く男性は作業ジャンパーを羽織り、とかすことなくフケが目立つ髪を肩まで伸ばし、背中を前方に丸めながら不安定な様子で歩いていた。不潔で近寄りがたい風貌に潮香はインタビューをしようか迷ったが、彼以外に通りを歩いている人がおらず、中継時間も残りわずかであることから、一か八かの気持ちでマイクを向けた。


「すみません、ちょっとだけお時間よろしいですか?」


 男性は潮香の声に振り返った。

 その瞬間、潮香の顔が突如凍り付いた。そして、次の言葉が出ないまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。


「どうした、潮香ちゃん! また言葉が止まってるぞ」


 カンさんの声がかすかに聞こえたが、潮香の体は硬直したままだった。

 黒縁の眼鏡、そして陽の光を浴びて輝くとりわけ大きな瞳……潮香は男性の顔をみて強く確信した。

 男性は、まぎれもなくかつてのクラスメイト・岡部信彦おかべのぶひこだった。

 信彦と最後に会ってから、もう十年近く連絡を取れていなかった。久しぶりに会った信彦の風貌を見た潮香は、衝撃のあまり全身が震え出し、やがて手にしていたマイクを地面に落としてしまった。


『住吉さん! マイクが落ちましたよ、住吉さん! 聞こえますか!』


 小野寺の叫び声がイヤホン越しに響いていたが、潮香はマイクを拾うことなく、ずっとその場に立ち尽くしていた。


「すみません、中継ストップします! スタジオに切り替えてください!」


 これ以上中継を続けるのは困難と判断した音声担当の清田は、スマートフォン越しに局と連絡を取っていた。

 一方、潮香はレポーターという自分の役割をすっかり忘れ、立ち尽くしたまま目の前に立つ信彦の姿をじっと見つめていた。


「信彦君……どうしてここに!?」


 信彦は何も言わず、何度も首を傾げながら潮香の姿をただぼんやりと見つめていた。その姿は、まるで魂の抜けた人形のようだった。

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