序章5 変わり果てた姿

「ねえ、信彦君なんでしょ? どうしてここにいるの?」


潮香は叫ぶかのような声で何度も問いかけた。しかし、信彦は相変わらず首を何度も傾げ、大きな目を見開いて潮香を見続けていた。


「潮香ちゃん、この人は誰?」


後ろからカンさんが近づいてきた。


「高校時代の同級生です」

「この人が? へえ……奇遇じゃの」


信彦は、いかつい風貌のカンさんが来ても怖がって逃げることもなく、じっと真正面から二人を見ていた。


「信彦君、どうしたの? さっきから何にもしゃべらないけど」


潮香はややヒステリックな声を上げながら信彦の様子に業を煮やしていた。

すると信彦は、何事も無かったかのように二人に背を向け、とぼとぼと歩き出していった。


「あの兄ちゃん、ひょっとして潮香ちゃんに気づいてないんじゃろか?」

「そんなわけないでしょ? 私に気付かないだなんて。だって、信彦君は……」

「信彦君は? へえ、その先の言葉が知りたいなあ」


カンさんがにやつきながら潮香の次の言葉を聞き出そうとしているのを見て、潮香は思わず口に手を当てた。興奮のあまり、余計なことまで話してしまう所だった。

もう過去の話なのに、どうして口に出てしまったのだろうか。


「べ、別に何でもないわよ! とりあえず高校の同級生だったから、顔だっていつも見ていたわけだし、気づかないなんておかしいって!」


潮香はカンさんからの追及を逃れようと必死に取り繕った。

潮香は信彦の背中を追って、何とか近づこうとしたが、信彦は気づくことなく、そのまま長屋の一室に入ってしまった。潮香はさすがに家に押し入るのは不謹慎だと思い、そこから先には進まず立ち尽くしていた。

目の前に建つ長屋は相当年季が入っており、壁が剥がれ落ち、トタン屋根も所々ずり落ちそうになっていた。そこに来て水害で川水や泥が入り込んだようで、辺り一面に住民が捨てたであろう家具やがれきなどが散乱していた。


「おーい、潮香ちゃん。こっちに来てみんさい。さっきの兄ちゃんがいるぞ」


知らぬ間に潮香の元を離れていたカンさんは、長屋の端から大声で叫んでいた。

潮香は慌ててカンさんのいる所へ向かうと、カンさんは潮香を導くかのように先頭きって長屋の裏側へと歩きだした。そこには背丈の高い雑草が生い茂った狭い庭があり、その向こうには、雨戸のガラス越しにこちら側をじっと見ている信彦の姿があった。

カンさんは草むらを掻き分けて雨戸までたどり着くと、髭だらけの顔をしわくちゃにして笑いながら、潮香を手招きした。


「ちょっと、こんな草だらけの所をどうやって行けばいいの?」

「大丈夫。蛇もムカデもおらんから、安心してこっちに来んさい」


潮香はおっかなびっくり草を踏みしめてカンさんの元にたどり着くと、雨戸を何度も強く叩いた。


「信彦君! ここを開けてくれる? ちょっとでもいいから、あなたと話をしたいの」 


しかし信彦は何の反応もせず、相変わらず首を左右に傾げながらこちらを見続けていた。するとカンさんは何を思い立ったのか、信彦を手招きし、両手を左右に動かして雨戸を開けるようなジェスチャーをした。


「さっきから何やってるのよ、カンさん」

「見て見ろよ。兄ちゃん、雨戸を開けようとしてるわ」

「え?」


カンさんの言葉通り、信彦は両手でゆっくりと雨戸を開け、二人を中に招き入れてくれた。カンさんのジェスチャーがなぜ信彦に通じたのかは分からないが、とりあえず潮香は部屋の中に入ることが出来た。

しかし、部屋の中の様子を見た二人は、その惨状に思わず言葉を失ってしまった。

床は浸水した後残された泥にまみれ、天井からの雨漏りで所々に水溜りが出来ていた。しかも、弁当箱やペットボトルなどのゴミが散乱し、中には食べかけのまま放置された弁当もあり、そこから強烈な腐敗臭が立ち込めていた。


「わわっ、潮香ちゃん。ここに婆さんらしき人が……」

「ええっ?」


カンさんはゴミにまみれた床の端に、布団をかぶったまま横たわる老婆を指さしていた。


「やだ、怖い! ねえカンさん、ちょっとだけあの人の背中を触ってみてよ」

「ば、バカなこと言うな。俺だって怖いんじゃ」

「それでも男なの? ヒマラヤにも行ってきた度胸はある癖に、どうして怖がってるのよ?」

「わ、わかったよ」


カンさんは「あの、すみませんが……」と言いながら、老婆の背中を何度か軽く叩いた。すると老婆は突然寝返りを打って、しわだらけの顔をカンさんの目の前に見せた。


「うぎゃああああ!」


カンさんは老婆の顔を見た瞬間、腰を抜かして床に倒れ込んでしまった。老婆は無事生きているようだが、しわが深いせいか、映画のゾンビのようにも感じた。


「母ちゃん」


二人が老婆の様子に目を向けていたその時、突如二人の後ろから若い男性の声が聞こえた。潮香が振り向くと、そこにはさっきまで雨戸の前にいたはずの信彦が立っていた。


「しゃ、しゃべった! 何だ、ちゃんと話を出来るじゃないか、兄ちゃん」


しかし信彦はその後再び口を閉ざし、真上から見下ろすように老婆を見つめていた。

やがて老婆はゆっくりと背中を起こし、大きく背伸びをした。


「なんだべ、あんたら。何しにきたんだい?」


老婆は二人の姿に気づくと、しわだらけの顔をしかめて睨みつけてきた。


「無言で部屋に入ってすみません。どうしても信彦さんと話をしたくて、お部屋に入ってしまいました」


潮香は深々と頭を下げた。すると老婆は目を細めて潮香を睨みながら、大きなしゃっくりをした。


「母ちゃん」


再び信彦が口を開いた。その顔は無表情だが、心なしか何かを訴えているようにも感じた。一体何が言いたいのだろうか?


「潮香ちゃん! ちょっと兄ちゃんのズボン、見てみんさい」


カンさんは信彦のズボンを見て、慌てふためいていた。潮香は、今度は一体何事かと

思いながら信彦に目を向けると、股間の辺りからズボンの縫い目に沿って濡れた跡が出来ていた。そして信彦のズボンからは、微妙に鼻を突く臭いがした。


「こ、これって……粗相? まさか、私と同じ歳の大人なのに?」


その時、潮香の真後ろから老婆が立ち上がり、信彦のズボンを見て「またかい。しょうがない子だね、まったく」と呟きながら、古びた木造のタンスから下着と替えのズボンを取り出した。信彦は潮香が目の前にいるにもかかわらず、ズボンと下着を下げ、局部を晒しながら老婆から手渡されたものに着替えていた。

潮香は信彦がズボンを下ろし始めるや否や、両腕で顔を覆いながら視線を逸らした。


「とりあえず、兄ちゃんと婆さんをここに置いとくわけにゃいかん。市役所の生活保護担当に連絡するわ」


カンさんはスマートフォンを取り出すと、常山市役所の電話番号を検索し、連絡を取り始めた。しかし、電話の最中、カンさんはいまいち浮かない顔を見せ、時折かかとで地面を踏み鳴らしていた。通話が終わると、カンさんは両手を挙げてお手上げのポーズを取った。


「潮香ちゃん、市役所に電話したけどさ、生活保護担当者がみんな避難所対応に回っていて、今すぐこっちに来ることはできないって」

「ええ? じゃあ、この人たちのことは、どうすれば……」

「俺たちの手で、どこか安全な場所に移動させるしかないわ。見ろや、天井を。雨漏りしてるだけじゃない、大雨で脆くなって、今にも崩れそうじゃろ?」

「あ……」


潮香は天井を見て、仰天した。天井が水を多く含んで崩れ始めており、今にも落ちてきそうな感じがした。


「わ、分かったよ。とりあえず、二人をどこかへ連れ出さないとね」

「よし。まず俺が婆ちゃんを連れ出すから、潮香ちゃんは兄ちゃんを頼む。あ、それから清田! お前はこの近辺の避難所を調べろや。この二人をちゃんと面倒見ることができる所じゃぞ」 


カンさんは、長屋の外で待機している清田を指さし、大声で指示を出した。

清田はスマートフォンで誰かと連絡を取っていたが、何度も頭を下げて「すみません」と言っている所を聞くと、どうやらテレビ局と連絡を取っているのだろう。


「こら、聞いてんのか? 清田! はよう避難所を探さんか!」

「あ、ご、ごめんなさい」


こうしてワンダーTVの中継チームは三手に分かれて親子をこの長屋から避難させる作戦に出た。


「ほら、婆ちゃん、避難所に行くぞ! ここに長くいたらあんた達のためにはならん」

「やだ、何でこごを離れなくちゃなんねえの? おらたづは平気だがら、かまねでけろ!」


案の定、老婆はカンさんの言うことを聞かず、ここに留まるつもりでいるようだ。しかし、カンさんは老婆を粘り強く説得しているようだ。困難な状況でも踏みとどまり、粘り強く挑み続ける所は、さすがは登山経験者である。

清田はスマートフォンで近隣の避難所を調べ、受け入れ可能かどうか市役所に問い合わせていた。残るは潮香……目の前には、相変わらず無表情のまま突っ立っている信彦がいた。何を言っても理解してくれない今の信彦を、どうやって説得すればいいのだろうか。


「ねえ信彦君……突然でごめんね。ちょっとだけ私のお願いを聞いてくれるかな」


信彦は首を左右に傾けながら、潮香の顔をじっと見ていた。


「ここ、雨漏りがひどいでしょ? おまけに泥だらけだし、ここにずっといるのは信彦君にもお母さんにも良いことは何も無いと思う。私達と一緒に、もっと安全な場所に避難してくれるかな」


潮香は信彦の目を真っすぐ見て、訴えるかのように言葉を伝えた。しかし、信彦は潮香の問いかけに全く返事を返してくれなかった。


「潮香ちゃん、ジェスチャーじゃ、ジェスチャー! その兄ちゃんには話しかけてもなしのつぶてだと思うぞ」


老婆を説得しながら、カンさんは潮香に向かって吠えるかのようにまくしたてた。

何かいい方法はないのか……潮香は目を閉じて考え込んだが、その時、頭の中に突如思い浮かんだことがあった。

潮香は笑みを浮かべ、片手をそっと信彦の手元に差し出した。すると、信彦はその手をそっと真上から握りしめてくれた。


「ありがとう。じゃ、行こうか」


信彦は相変わらず無表情だったが、潮香に手を引かれるまま、長屋の外へと歩きだした。草を踏みしめ、泥をはね上げながら、潮香たちが乗ってきたミニバンへ向かって駆け出した。


「母ちゃん」


信彦は長屋の方を振り向きながら、母親である老婆の姿を探していた。

潮香は立ち止まろうとする信彦の手を引いて走っていたが、繋いだ信彦の手の温もりに、奇妙な懐かしさを感じた。


「……あの頃以来かな、こうして手を繋ぐのは」


果たして信彦は、覚えているだろうか? 

お互いに初めて恋に落ちた、あの頃のことを。

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