序章6 丘の上の愛

 潮香は信彦の手を繋ぎ、ミニバンの前で待機していた。

 信彦は相変わらず、時々「母ちゃん」と呟く以外は、何も話してはくれなかった。変わり果てた信彦の姿を見て、潮香は深いため息をついた。

 やがてカンさんが老婆を連れて戻ってきた。


「なしてここから出なくちゃなんねえの? おら、こごから出だくねえ! 手を離せでば!」

「おとなしく一緒に行こうや、婆ちゃん。あそこにいたら、あんたも息子さんも病気になっちまうぞ」


 老婆は頑なに避難を拒否し、手こずっていたカンさんだったが、半ば強引に連れ出し、何とか潮香たちの元にたどり着いた。


「やだぁ、行ぎだくねえっ! 手を離せでば!」 

「もう、本当に言うことを聞かねえ婆さんだな」


 カンさんは老婆をミニバンに強引に押し込むと、潮香は信彦の手を取って、老婆の隣に座らせた。信彦は抵抗することも無く、首を左右に振りながら車の中を見回していた。

 カンさんは運転席に乗り込むと、スマートフォンをポケットから出し、息せき切ってがなり声で話し出した。


「清田か? 今どこにいる? え、もみの樹荘? どこにあるんだ、それ」


 潮香はカンさんの言葉を聞くと、スマートフォンを取り出し、地図アプリを立ち上げて「もみの樹荘」を検索し始めた。どうやらここから二十分程度車を走らせ高台に建つ、障がい者向けの施設のようだ。


「カンさん、場所分かりましたよ」


 潮香はスマートフォンをカンさんの前に差し出すと、カンさんは親指を立てて「潮香ちゃん、グッジョブ!」と声を上げた。


「清田が色々調べて、交渉してくれたんだよ。この長屋の近くに避難所があるんじゃけど、寝たきりの婆さんと障がいを持ってる兄ちゃんがいると言ったら、そういう人達には遠慮してもらってるの一点張りらしくてね。話し合いの末、福祉避難所として障がい者を受け入れてる施設を案内されたんだって。ここからちょっと遠いみたいだけど、このままほっとけないもんな」


 カンさんはハンドルを切り、泥まみれの道路をゆっくりと走り出した。

 カーオーディオからは、浜田省吾の甘く伸びのある歌声が聞こえてきた。


「丘の上の愛……か、俺は初めて失恋した時、この曲を聴いて一晩中泣いたんだよなあ」

「へえ、失恋かあ。カンさんも過去に色々あったんですね」

「俺、高校時代に好きになった人がいてさ。実家が金持ちで、ブランドものとかいつも持ち歩いてるような子だった。卒業間際やったかな……俺、その子にバカにされたくなくて、バイト代はたいて結構いい値段する服を着てデートしたんよね。でも、案の定振られちゃってね。でも、後で聞いたらその子には好きな奴がおって、俺と変らん貧乏な家の出の奴やった……それを知った時、悔しくて悔しくて」


 浜田省吾の曲をBGMに、カンさんは目を細めながら、しみじみと過去の苦い思い出を語っていた。


「身分違いの恋ってやつか……難しいよね」

「でもな、俺はあの時学習したよ。人を好きになるのにお金は関係ないってことが分かったからな。あの時デートのために買った洋服は高かったけど、今考えると良い授業料になったと思っとるよ」


 車窓からは、勢いを増して濁流が流れる井水川が見渡せた。

 潮香の後ろには、信彦が座っていた。その目線は、遠くに見える井水川の方を向いていた。彼は一体何を考えているのだろうか……「母ちゃん」という言葉以外はまったく口にしないが、潮香はその本心を何とかして覗いてみたいと思っていた。



「潮香ちゃん、あの山のふもとに立派な建物が見えて来たぞ。あれがそうか?」


 潮香は我に返り、慌てて地図アプリで現在地を確かめた。


「そうです。あの建物です」


 ミニバンは急坂を駆け上り、市内の風景が見渡せる高台にたどり着いた。「もみの樹荘」と書かれた看板の前で、後部席から信彦とその母である老婆を下ろした。


「こごは一体どこなんだい? こんな場所さおらたぢを連れてきて、何のつもりだい?」


 老婆はミニバンから降りると、辺りを見ながらわめき出した。


「いいから、さ、行くぞ。お二人にはしばらくここで寝泊まりしてもらうから」


 カンさんは老婆の手を強く引き、建物の中へと連れ去っていった。

 信彦は相変わらず無表情で突っ立っていたが、潮香は「いこうよ」と言って信彦に手を伸ばすと、その手をやさしく握ってくれた。


 施設の入口には、先行して到着した清田の姿があった。


「お疲れさまでした。ここからはこちらにいるスタッフが二人のケアを行うそうです」

「ありがとう。さすがやなあ、清田」


 既に清田が施設の職員に二人の状況を説明していたようで、障がい者専門のケアマネージャーが二人を出迎えると、寝泊まりする部屋へと連れ出していった。


「さ、俺たちは東京に帰るか」

「いや、もう少しここに居たい」

「は? 明日はまた朝早くから『オキドキ!』の生放送があるんじゃろ? 今日の中継の件で局にさんざん迷惑をかけたのに、また何かやらかしたら君自身の立場がまずくなるんじゃないか? 熊谷さんをこれ以上怒らせんほうがええぞ」

「分かってるよ。それでも今の私は、信彦君と話がしたい」

「あの兄ちゃんと? 会話なんて無理じゃろ」

「やってみる。私から一生懸命話せば、きっと心を開いて話してくれると思う」

「そんなことしても、時間の無駄じゃろうに」


 カンさんは呆れていたが、潮香はここで諦めて帰ろうとは思わなかった。

 十年近く会えなかった信彦と、ほんの少しでもいいから話をしたい、会話がどうしても無理ならば、傍にいて一緒の時間を過ごしたいと思っていた。


「住吉さんでしたか? どうぞ、こちらへ」


 ロビーで待っていた潮香は、職員に呼ばれ、信彦のいる部屋へと招かれた。

 福祉避難所とはいえ、信彦たちに用意された部屋は畳敷きの個室であり、開いている窓からは眺望もよく、被災した西方地区まで見渡すことが出来た。部屋の隅には、施設から与えられたスウェットの上下に着替えた信彦と、布団の中で眠りにつく老婆の姿ががあった。信彦は口を開けたまま壁にもたれかかり、足をだらしなく床に投げだしていた。その姿は、まるで部屋に放置された人形のようだった。


「良かったね。こんな環境のいい部屋を用意してもらえて」


 潮香は信彦の隣に腰掛けると、信彦と同じ姿勢で壁にもたれかかった。


「気持ちいいね。こうして壁にもたれてボケっと過ごすのって、いつ以来だろう?」


 局アナとして多忙な日々を過ごす潮香にとって、何もせずに過ごす時間は貴重であった。大きく背伸びをして深呼吸する潮香を、信彦は不思議そうな顔でじっと見つめていた。


「ねえ信彦君、ちょっと話しかけてもいい?」


 潮香は信彦に目配せした。信彦は何も言わず、じっと潮香を見つめていた。


「ただ聞いてくれるだけでいいよ、何も言わなくていい。私が勝手にあの頃の思い出話をしたいだけだからさ」


 潮香は頭をもたげると、窓越しに遠くに見える西方の町並みと井水川を見つめていた。現地は浸水で家が壊れたり道路が泥を被って大きな被害が出ているはずなのに、ここから遠目で見ると、その姿は昔と変わらないように感じた。


「ここから井水川が見えるね。信彦君の家って、あの辺かな?」


 潮香が窓の向こうを指さすと、信彦は突如顔を窓の外に向けた。そして、潮香の指す指の方向を、一心不乱に見つめていた。


「覚えてる? 私達が高校生の頃、二人並んで井水川沿いの堤防で自転車を走らせたことを。私は今でも良く覚えてるんだよ」


 相も変わらず、信彦は無反応だった。

 潮香はさっきカンさんに言われたアドバイスを思い出し、両手を前に突き出すと、両脚をぐるぐると回し、自転車に乗っているしぐさを見せた。

 信彦は何度か首を傾げていたものの、しばらくするときょとんとしたままぴくりとも動かなくなってしまった。


「はあ……なかなか分かってもらえないか。私の方が疲れちゃうなあ」


 潮香は汗ばんだ額を拭おうと報道用のヘルメットを外し、髪を真後ろへ掻き撫でると、潮香の茶色く柔らかい髪は、開いた窓から入る風に乗ってふわりと宙を舞った。

 信彦は、風に舞う潮香の髪の行方を目で追っていた。彼なりに気になる所があったのだろうか。


「時々自転車から下りて、ペットボトルを口にしながら他愛もない話ばかりしたよね? でも、それがすごく楽しかった。あ、そうそう、夕陽を浴びて川面が光るのが綺麗だったよね……私、ずっとこのまま、二人だけの時間が続いてほしいって思ってたんだ」


 信彦は相変わらず無言のまま、表情を変えず潮香を見ていた。

 すると潮香は片手を丸めてペットボトルの瓶に見立て、口に付けて飲み込むしぐさをしてみた。わざとゴクゴクと喉の音を立てた後、一度止まって再び口に片手を付けて何かを飲み込むしぐさを見せた。

 すると信彦は、長くぼさぼさの髪を片手で何度も強く掻きむしった。その姿は、何かについて必死に頭の中で考え、上手くいかなくてもがいているようにも見えた。


「ここを去ったら、また信彦君に会うことは難しくなるかもしれない。だから今日は、悪いけどとことんまで昔話させてもらうからね。あ、嫌だったら遠慮なく『やめろよ!』って言ってくれていいからさ。こんなふうに……ね」


 潮香は片手を自分の口に押し当てると、チャックを引くかのように左から右へと動かした。信彦も、潮香の真似をして口に手を当て、左から右へと動かしていた。


「そうそう、上手だね。これ、口にチャックしてくださいって意味だから。アハハハ」


 潮香はそう言うと、風になびく髪を何度も掻き分けながら、信彦のすぐ隣に腰掛けた。信彦は興味深そうに、真横から潮香の表情をじっと見ていた。

 潮香は大きく深呼吸して心を落ち着けると、目を閉じた。

 二人が一緒だったあの頃に、時を巻き戻すために……。





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