二章 図書室での出会い
二章1 出会い
二〇一二年 九月
潮香は常山市の中心部を見渡せる高台にある高校に通っていた。
授業が終わり、六時間目が終了するチャイムが鳴り響くと、潮香は鞄に教科書やノートを詰め込み、廊下へと歩きだした。
廊下の向こうには、吹奏楽部が練習に使っていた音楽室があった。今日も早速練習が始まったようで、トロンボーンやホルンの重厚な音が廊下いっぱいに鳴り響いていた。
「あれ? 住吉先輩、ここでなにやってるんですか?」
二年生の
「あ、アハハ、ごめんね。みんな、練習してるかなあって気になっちゃって」
「そのことならご心配なく。私がちゃんと皆をまとめてるから。それに住吉先輩からこと細やかに練習メニューの引継ぎも受けたし、それをちゃんと毎日こなしてますから」
美菜は白い歯を出し、はきはきとした声でそう言うと、潮香に背中を向けて練習の手を止めている他の部員たちに睨みをきかせた。
「こら、いつサボっていいっていったのかな? 秋には文化祭や定期演奏会があるんだよ。時間が無いんだから、自覚をもってちゃんと練習してよっ」
美菜は歯に衣を着せることなく、部員たちを怒鳴り散らした。
あまり強く言い過ぎるとみんな委縮してしまうのでは? と心配したが、美菜は面倒見のいい性格でもあり、潮香と一緒に練習していた時も、上手く演奏できず詰まっている部員を見つけると、自分の練習を犠牲にして手取り足取り教えていた。
「そうだね。津山さんがいれば大丈夫だよね、余計な心配した私が馬鹿だったよ」
「でしょ? だから先輩はしっかり受験に専念してください。他の先輩たちも早速予備校とかに通い始めて、受験モードに入りましたよ」
「そ、そうなんだ……」
美菜はあわてふためく潮香を見て不敵な笑みを浮かべると、「じゃ、失礼しますね」と言い残し、音楽室へと戻っていった。
潮香は「何やってんだ、私」と言って髪の毛を掻きまわすと、玄関へ向かって歩きだした。
外に出るとまだ日が高く、校庭では野球部やサッカー部の部員たちが声を出しながら練習に励んでいた。今までならば潮香は吹奏楽部の練習に専念し、外に出るのは日が暮れた後であることが多かった。
先日、吹奏楽部の全国大会が終わり、三年生の潮香は部活動を引退した。
全国大会までは練習漬けの毎日で、終了後は「やっと終わった」という解放感と、「三年間やりきった」という達成感と、「目標が無くなってしまった」という心にぽっかり穴が開いたような寂しさが同居していた。
本当ならば、他の同級生達のようにここで受験勉強にギアチェンジしなくてはいけないのは重々分かっていた。しかし、潮香には勉強しようと思う気持ちはこれっぽっちも芽生えなかった。大学に進学してなにを学びたいのか、将来はどんな自分になりたいのか……ここまで部活動にどっぷり漬かっていた潮香には、いまいち描けていなかった。
「潮香、何やってんの?」
突然潮香の背中で、誰かが声をかけた。
振り向くと、同級生で三年間吹奏楽部で一緒だった
「何って、これから帰る所だけど」
「へえ。もうすぐ模擬試験もあるのに?」
「そうだけどさ……いまいち勉強する気が起きなくて」
「そうなんだ。随分呑気だねえ」
「わ、私だってちゃんと分かってるよ。大学受験の時期まで残り僅かしかないって」
「じゃあ、一緒に勉強しない? これから図書館に行くんだ」
「図書館?」
「そうだよ。みーんな静かに勉強してるから、きっと潮香も否が応でも勉強しなくちゃって気持ちになるかもよ?」
珠里はそう言うと、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「もう、みんなどうしてそんなに勉強なんかしたいのかな……じゃあ、ちょっとだけお付き合いするよ。家に居ても何もすることないし」
潮香は渋い顔をしながらも、珠里の提案に乗ることにした。
珠里の後を追い、潮香は校舎から渡り廊下を歩き、木造の別棟に入った。別棟は高校がこの場所に建設されてから一度も改築されておらず、かれこれ五十年、いや、それ以上もの歴史があった。一昨年起きた東日本大震災でも建物は全壊にも半壊にもならず生き残り、地域でも大きな話題になったほどの丈夫な建物であった。それでも経年劣化は十分進んでいるようで、廊下は歩くとミシミシと不快な音が響き、一歩踏み間違うと穴が開いてしまうのではないかと心配になってしまった。
しばらく歩くと、手書きで書かれた「図書館」という札が目に入った。
ガラガラと音を立てて木製の引き戸を開けると、自習スペースの机はすでに満員のようだった。
「あーあ、来るのが遅かったか。今日はあきらめようかな」
珠里は周囲を見渡して空席があるかどうか確かめたが、見つけられず、頬を膨らませて不満そうな顔を見せていた。その時潮香は、ちょうど二席分の空席を見つけた。その目の前には、大きな黒縁の眼鏡をかけたニキビ面の男子生徒が座っていた。
「ねえ珠里、あそこの席、空いてるじゃない?」
「え。あそこ……?」
珠里はいまいち浮かない顔で、潮香が指さす方向を見ていた。それどころか、せっかく席が見つかったのに、大きなため息をつきて額に手を当てていた。
「目の前に座ってるの、信彦でしょ? あいつ今日も来てるのかぁ。やだなあ。正直目障りなんだよね」
潮香の見つけた席の前には、同じクラスの
「ねえ潮香、私から誘っておいて申し訳ないけど、図書館はまた今度にしよ? 今日はおとなしく家に帰ろうかな」
珠里は潮香の制服のシャツをつまむと、「早く帰ろう」と言わんばかりに引っ張っていたが、潮香はそこから動くことなく、信彦を見つめていた。
信彦の机の上には、たくさんの文庫本が置いてあり、時折本を見つめては、ノートに何かを書き記していた。傍目では他の生徒のように受験勉強をしているようには見えず、それが却って潮香の興味を惹いていた。
「私はちょっとここで勉強していこうかな。珠里は先に帰っていいよ」
「え? あんた、マジで言ってんの? こんなに混んでるのにあそこだけ席が空いてるのは、みんな信彦に近寄りたくないからだよ。見てごらん、あいつ、勉強もせず受験と関係なさそうな文庫本ばっかり読んでは、ノートにごちゃごちゃと走り書きしてさ。不気味ったらありゃしない」
「でも私、興味あるかも。なにやってるんだろうなって」
「変なの……私は遠慮しておくわ。先に帰るね!」
珠里は「信じられない」と言わんばかりに首を左右に振ると、顔をしかめながら廊下へと駆け出していった。
一人残された潮香は珠里の背中を見送ると、空席になっている席に座った。目の前には、文庫本を必死に読みふける信彦の姿があった。
「こんにちは、信彦君」
潮香は小さな声で信彦に向かって挨拶したが、信彦は気づくことなく、本に顔を押し当ててしまう位の至近距離で文庫本を読み続けていた。
「何の本? ちょっと見せてくれるかな」
潮香は信彦の目の前にうず高く積まれた本をそっと手に取った。
村上春樹、阿刀田高、井伏鱒二、重松清……
あまり読書をしない潮香でも名前を聞いたことのある作家たちの作品だった。
作家たちは年代も作品趣向もバラバラのはずだが、どうしてこれらの本をむさぼり読んでいるのだろうか。
「色んなジャンルの小説が好きなんだね」
潮香は信彦の前に積まれた本を一つ一つ手に取りながら呟いた。
「早稲田ですよ」
信彦は読んでいた本から目を離すと、眼鏡の向こうから目を見開いて潮香を見つめていた。その目は百円玉が入ってしまうのではと思える位に丸くて大きく、館内の電灯からの光に照らされて、きらきらと輝いているようにも見えた。
「早稲田って……大学の?」
「そうです。この本の作者はみんな早稲田出身なんですよ」
信彦は落ち着いた声でそう話していた。
「じゃあ、信彦君は今まで早稲田出身の作家の本をずーっと読んでいたの?」
「そうです」
「受験勉強はしないの? 他の人達を見てごらん、みんな受験の参考書見てるけど」
「いや、これが僕にとっての受験勉強ですから」
「はあ?」
信彦は潮香の言葉にもたじろぐことなく、真っすぐ潮香を見つめていた。
珠里の言う通り、信彦の言葉には一体何を考えているのか分からない不気味さもあった。しかし、信彦はどうして受験を控えたこの時期に参考書を読まず、早稲田出身の作家の本をむさぼり読んでいるのだろうか。いまいち受験勉強をする気が起きなかった潮香にとって、信彦の行為はとても面白く、興味をそそられるものを感じた。
そして、他の生徒達が暗く浮かない顔で参考書をめくっている中、信彦が大きく見開いた眼を輝かせて楽しそうに本をむさぼり読んでいる姿に、潮香はいつの間にか心が引き寄せられていた。それは、今までの人生で全く感じたことのない、とても不思議な感覚であった。
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