二章2 二人の午後

 いつの間にか潮香は、受験勉強そっちのけで、信彦の手前にうず高く積まれた本を片っ端から読み始めていた。村上春樹や重松清についてはベストセラーになった作品は何冊か読んだことがあるが、阿刀田高や井伏鱒二の本を手に取ったのは初めてだった。

 信彦は丸っこい目を大きく開いて端から端までじっくりと文章を読むと、時折真下に置いたノートに何かを書きなぐっていた。


「ねえ、何を書いてるの? 私にも見せてよ」

「……他の人にはあまり見せたくないので」

「どうして? 変なことを書いているようには見えないけど」

「だって、笑われるのが嫌ですから。頭がおかしい奴だって」

「私は絶対にそんなこと言わないよ」

「どうしてですか?」

「だって、信彦君が選んだ本、結構面白いなって思って。こんなにたくさんの面白い本を知ってるんだなって」

「……当然ですよ。早稲田だもん」

「早稲田? 早稲田だから面白いの?」

「そうですよ。ほら、僕のノートを見れば、その理由がよく分かりますから」


 信彦は、手元に置いたノートを潮香の目の前に差し出した。見せられたノートにには、一面びっしりと濃い鉛筆で書かれた文字で埋め尽くされていた。

 潮香は何が書いてあるんだろうと思い、ノートに書かれた文字を一つ一つ目で追った。

 そこには、信彦が読んだ作品に書かれた時代や場所、登場人物、そして、物語に登場する場面が丁寧に綴られていた。さらに読み進めると、作家がなぜこの物語を書こうと思ったのか、そしてなぜこういう展開にしたのかを、作家の生い立ちなどを踏まえながら詳しく記されていた。その考察には、必ず「早稲田」の名前が登場していた。

 例えば阿刀田高は、早稲田を病気休学した時に海外の短編を読みまくって、それが彼を短編小説の名手になる素養を作ったことや、村上春樹の名作「ノルウェイの森」では村上氏の早稲田在学当時の思い出が元になっており、そこかしこに当時のキャンパスの光景が登場することなど、作家や作品を早稲田と結びつけた考察が書かれていた。


「ふーん、すごいね。早稲田って有名な作家や作品の元になってるんだね」

「そうでしょ? これってすごいことですよね」


 信彦は読んでいた本を机の上に置くと、眼鏡の縁を片手で押さえながら潮香に笑いかけた。


「僕は本を読むのが好きなんですが、色々本を読むうちに、どうやったらこんなに面白い作品を書けるんだろうって、読みながら色々考えるようになりまして。色々調べてみたら、僕が好きな作品の作家って、みんな早稲田を出てることに気づいたんです。偶然かもしれないけれど、これってすごいことなんじゃないかって思いまして」


 信彦は目を輝かせながら力説した。いつもはおとなしくて何を考えているか分からず、いまいち不気味な存在だった信彦だが、早稲田について力説する姿を見ると、その印象は全く変わってしまった。


「じゃあ、信彦君は早稲田を目指すんだね」


 信彦は、当然と言わんばかりに大きく頷いていた。


「でも、早稲田って超難関でしょ? うちの学校でも成績上位にいないと受からないって聞いたけど」

「そんなの分かってますよ。だから僕は必死に勉強してきたんです。勉強するために部活動はしなかったし、学校行事にも参加しなかったんですよ」


 しかし潮香は、信彦が教室で受験勉強をしている姿を見たことが無かったし、特段成績が優秀だという話も聞いたことが無かった。図書室でも、参考書や教科書らしきものは何一つ読まず、ただひたすら文庫本をむさぼり読み、本に関する記述を延々とノートに書いているだけだった。思い返せば、信彦は「本を読むことが受験勉強だ」と潮香に話していたが、その行為はどう考えても受験勉強とは全く関係ないことは、普段勉強しない潮香でも理解できた。


「ちょっと、聞いていい?」

「はい?」

「信彦君の言う受験勉強って、ここにある本を読んで、その考察を書くことなの?」

「そうですが……何かおかしいですか?」

「いや、その……私も良く分からないんだけど、早稲田の試験って、そういう読書感想みたいな問題を出してるの?」


 すると信彦は突如表情を曇らせ、何か気まずいものでも見られた時のように、潮香から視線をそらした。


「ごめんね、気を悪くさせるつもりはないんだ。ちょっと気になっただけだよ」


 しかし信彦は浮かない顔をしたまま、目の前に高く積み上げていた本を片付け、ノートを鞄の中に仕舞い込んだ。


「すみません。僕、これで帰ります」

「……ひょっとして、怒ってる?」

「いや。そういうわけではないですけど……」

「私、信彦君を貶めようとしたつもりはないから、そこだけは誤解しないでね」

「いいんですよ。他の人達も僕を見て同じようなことを言っていましたから、気にしてませんよ。それに僕、これからアルバイトに行かなくちゃ」

「バイト?」

「だって、早稲田を受けるのも入学するのもお金がかかりますから。恥ずかしい話ですが、僕の家庭はすごく貧乏なので、必要なお金を稼ぐために早朝と夕方に新聞配達の仕事をしてるんです」


 潮香はそれ以上何も言えなかった。確かに信彦は、他の生徒たちと比べて身なりが良いとはいえなかった。身体が成長してサイズが合わなくなっても、入学当初から同じ制服をずっと着ている上、靴も表面がボロボロに破れているにも関わらず、買い換えることなく履き続けていた。

 信彦はいそいそと帰る支度を終えると、鞄を手にして席を立ち、ガラガラと激しい音を立てながら図書館の戸を開けた。


「待ってよ、信彦君!」


 潮香は席を立ち、帰ろうとする信彦を呼び止めようとした。しかし信彦は立ち止まらず、まっすぐ廊下へと歩き去っていった。潮香はミシミシときしむ音を立てながら廊下を走り、信彦の背中を追いかけた。


「信彦君! ちょっとだけでもいいから私の話を聞いてよ!」


 潮香は息を切らしながら必死に叫んだ。信彦は、ようやく潮香の方を振り向いた。


「信彦君の書いた本の考察、すっごく面白かったよ。私、読書するのはあまり好きじゃないけれど、あの考察を読んだ後、信彦君の読んでいた本って何だか面白そうだな、もっと読んでみたいなって思ったんだ」


 信彦は何も言わず、じっと潮香の言葉に耳を傾けていた。


「それに……早稲田って、面白そうな学校だなって。才能のある作家をこんなにいっぱい出した学校だもん。今はまだ受けるには実力が足りないけど、もっと勉強して成績が上がったら、ぜひ受けてみたいなって」


 信彦は只でさえ大きな目をさらに見開き、強い視線を潮香に投げかけた。潮香は信彦の強烈な視線に怖さを感じたが、やがて信彦は表情をやわらげ、次第に顔を赤らめて片手で髪を掻きむしり始めた。


「どうしたの、急に髪をいじりだして」

「だって……今までは軽蔑され、けなされることばかりでしたから。受け入れてくれたのは、住吉さんが初めてでしたから」

「そ、そうなんだ……」


 潮香は苦笑いしたが、信彦は曇っていた表情を緩ませ、時折照れ笑いを見せていた。


「じゃあ、バイト、頑張って。お互いに受験勉強、がんばろうね」

「はい! 行ってきますっ」


 信彦は片手を振ると、廊下に穴が開きそうな位激しい音を立てて玄関へと駆け出していった。


「やれやれ……今日は全然勉強できなかったな」


 玄関を出て、太陽が傾き真っ赤に染まる西の空を眺めながら、潮香はため息をついた。

 しかし潮香は、図書室で過ごした放課後の時間を決して無駄だとは思わなかった。

 今まで気付かなかった勉強することの楽しさを、更には自分が進むべき大学を、あの一面びっしりと書き記されたノートが教えてくれた気がした。

 そして、大きな瞳を輝かせながら夢を語る信彦の姿に、潮香の心はいつの間にか惹き付けられていた。


 音楽室からは、吹奏楽部の後輩達が奏でるトロンボーンやホルンが響いていた。しかし、潮香はもう何の未練も無かった。


「明日も図書館に行こうかな」


 潮香は鞄を手に、沢山の思い出が詰まった音楽室を振り返ることなく家路についた。

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