二章3 風を感じて
吹奏楽部を引退した潮香は、授業が終わると図書室に直行するのが日課になった。
長く続けた部活動で遅れていた受験勉強を取り戻すためであるが、一番の理由は、信彦に会うことだった。今日はどんな本を読んでるのかな? 本にまつわるどんなエピソードを書いているのかな? と、受験勉強の合間に信彦のノートを脇から覗き込んだり、信彦から直接聞き出したりするのが何より楽しかった。
今日も授業終了のチャイムが鳴り、生徒たちは鞄を手に一斉に教室から玄関へとなだれ込んでいった。潮香も周りに急かされるように教科書やノートを鞄に放り込み、他の生徒たちの背中を追って廊下に出ようとした。教室には、信彦の姿は既に無かった。もう図書室にいるのだろうか? そう思うと潮香が廊下を歩く足は徐々に加速していった。玄関にたどり着いたその時、まるで潮香が来るのを待ち構えていたかのように珠里が手を振りながら現れた。
「ねえ潮香、今日は駅前にある市立図書館で勉強しない?」
「どうして? 図書室でやればいいじゃん」
「だって今日は蒸し暑いし、ウチの学校の図書室は建物が古いからいまいちクーラーの効きが悪いし、それにきっと今日もあいつがいるだろうから」
「あいつって……」
「きまってんじゃん。あんたが一番分かってるでしょ?」
珠里は白い歯を見せて笑うと、両手を使って、本をめくりながら必死にメモを取るしぐさを見せた。
「そうかな、私は特に気にならないけど……」
「ちょっと、マジで言ってるの?……こないだだって、あいつの目の前で勉強していたでしょ? よくあそこにずっと座っていられたよね? 居合わせたクラスの友達も、あんたがあいつと親しそうに話していたって気味悪がってたわよ」
珠里は両手を天にかざしながら、何度も首を振っていた。
「ごめん、今日は図書室で勉強したい気分なんだ。駅前の図書館は快適そうだけど、珠里一人で行ってくれるかな」
潮香はそう言うと、片手を振って別棟へと続く渡り廊下へと駆け出していった。
「信じられない! 私には絶対無理!」
珠里は潮香の背中に向かって舌を出しながら悪態を付くと、肩をいからせながら一人玄関を出て行った。
潮香は珠里の言葉に振り向くことも無く、激しくきしむ音を立てながら廊下を駆け抜けた。古くて建てつけの悪いドアをガラガラと激しい音を立てて開けると、図書室の引き戸を開けると、潮香は自習スペースを一通り見渡した。
図書室のクーラーは冷気が伝わらず決して快適とはいえないのに、今日も沢山の生徒たちが自習室の椅子を埋め尽くし、空いているのは一席だけだった……そう、信彦の目の前の席だけが。
しかし、今の潮香は迷うことはなかった。
「こんにちは、信彦君」
潮香に突如声を掛けられ、信彦は文庫本を手にしながら目を大きく見開き、驚いていた。
「どうしたの? そんなに驚かなくてもいいじゃん。私達、クラスメイトなのに」
「でも、誰かから声を掛けてもらえたことなんて無かったですから」
信彦は文庫本を机の上に置くと、髪の毛をいじりながら顔を赤らめていた。
「今日も沢山文庫本を読んでるのね」
「はい、今日は角田光代の本を……」
「知ってる。『八日目の蝉』書いた人でしょ? 角田さんも早稲田なの?」
「そうです」
信彦は相変わらず本を読みながら、思いついたことをノートに書き綴っていた。
しかし、今日は時折頭をひねりながら「うーん……」と唸るような声を上げていた。
角田光代の作品は潮香も何冊か読んだことがあるが、物語の展開が面白く人物描写が上手で、吹奏楽部の遠征で長時間バスに乗る時のお供として文庫本を持ち歩いていた。
「角田さんは女性心理の描写に長けているそうですが、僕にはその辺りがなかなか理解できなくって」
「そりゃそうだよ。というか、何で角田さんの本を読んでるの?」
「い、いや。その、角田さんは早稲田出身なので……」
「ホントかな? 角田さんの作品を読んで、女性心理を理解したいなんて思ってたりして?」
潮香はいたずらっぽい笑みを浮かべながらそう言うと、信彦は突然顔がこわばり始めた。
「そ、そんなつもりで僕は角田さんの作品を選んだつもりじゃありませんっ!」
「アハハ、冗談だよ。でもさ、女の人の気持ちを何も知らずに大人になると、それはそれで苦労するかもね」
「……それは大学に受かってから考えるようにします。今の僕は早稲田に受かることで、頭がいっぱいですから」
そう言うと、信彦は角田光代の文庫本を閉じ、違う本を選んで読み始めた。
潮香も鞄から参考書を取り出し、片っ端から問題を解き始めた。
最初は順調に解いていたが、次第に問題の難易度が上がり、何度考えても答えが出てこなくなった。
「もう、どうすればいいのよ……」
潮香は苛つきがおさまらず、筆記用具を投げ出して頭を抱えてしまった。クーラーの効きの悪さが、苛つきに拍車をかけた。
「どうしたんですか?」
信彦は文庫本から半分顔を出し、潮香の顔を覗き込んでいた。誰よりひときわ大きな目で顔をまじまじと見つめられると、いくら信彦に親近感を感じている潮香でも、不気味さのあまり身震いがした。
やがて信彦は立ち上がると、山のように積まれた文庫本を本棚に戻し、鞄の中にノートを仕舞い込んだ。
「帰るの? そう言えばそろそろアルバイトの時間だよね」
「そうですね……まだちょっと早いですけど」
「ひょっとして、私がイライラしてるから?」
「いえ、今日は何だか本を読んでもいまいち集中できないから、ここで打ち切って明日また続きを読もうと思いまして。住吉さんもイライラして勉強にならないのであれば、今日は勉強するのを止めて、帰った方がいいのでは?」
信彦は笑顔であっさりと答えた。
信彦の言葉を聞いた潮香はしばらく悩んだが、このまま一人図書室に残って蒸し暑さに耐えながら勉強する気にはとてもなれなかった。
「じゃ、私も帰ろうかな」
信彦は潮香の言葉を聞いて笑顔で頷くと、先に引き戸を開けて廊下へと歩きだした。潮香も参考書を鞄に仕舞い込み、慌ててその後を追って駆け出した。
二人並んで正面玄関から外に出ると、九月と思えないほど日ざしが強く暑いものの、時折吹いてくる柔らかい秋の風が学校の周囲の木々を揺らしていた。
「何だ、外の方が気持ちいいじゃん」
潮香は、真向かいから吹き付けてくる風に身を任せるかのように、大きく両腕を広げた。駐輪場にたどり着くと、信彦は突然立ち止まり、眼鏡の縁を手で触りながら潮香の方を振り向いた。
「住吉さんの交通手段は?」
「私? 自転車だけど」
「僕もそうですよ」
「どの辺りに住んでるの? 私は星ヶ丘だけど」
「僕は西方という所です。星ヶ丘だと方向違いますね。じゃ、今日はこれで」
信彦は頭を下げ、駐輪場に向かおうとしていたが、潮香はこのまま帰ってしまうのは、何だか味気ないように感じていた。もっと信彦と話がしたい……そう思った潮香は、自転車を探している信彦の背中に向かって声を張り上げた。
「ねえ! 途中まで一緒に帰っていい?」
「え?」
「西方から私の家までちょっと遠回りだけど、家に帰っても暇だし、勉強する気持ちになれないから」
「わかりました」
信彦は自転車にまたがり、駐輪場の奥から姿を見せた。信彦の自転車はいわゆる「ママチャリ」だが、年季が入り、塗装がボロボロに剥がれ落ちていた。潮香は自分の自転車を引き出してきたが、同じママチャリなのに、外装は信彦のものよりは綺麗だった。潮香の方が新品だからなのか、それとも……。
「じゃ、行きますか」
「うん」
二人は自転車にまたがると、そのまま並んで道路へと走り出した。
途中、急な登り下りを繰り返し、細い道を通り抜け、やがて二人は立派な堤防を備えた大きな川にたどり着いた。
「ここって……」
「井水川です」
「え? 確か市内で一番大きな川だっけ?」
「そう。僕の家はここの堤防をずーっと走っていくとたどり着くんですよ」
「じゃあ、この堤防が信彦君の通学路なんだね」
「はい」
「ここ、走るのにはすごく気持ちよさそう。ねえ、一緒に……走ってもいい?」
「はい。僕もそう思っていました」
二人は横に並んで堤防の上を走った。風に吹かれて、潮香の長く柔らかい髪は流れるようにふわりと舞い上がり、信彦は長い髪の毛が引っ張られるかのように真上に逆立っていた。
「アハハ、信彦君の髪、パンクロッカーみたい。すごいことになってるよ!」
「そ、そうなんですか!?」
信彦は慌てふためきながら髪を必死に押さえていたが、その姿がまた可笑しくて、潮香は笑いが止まらなかった。
その時、信彦は髪を押さえながら、目を大きく見開いて潮香の姿をひたすらじっと見つめていた。自分の身体にどこか気になる所があるのだろうか? 潮香は体中のあちこちを手で探ってみたが、何も付着している感じはしなかった。しばらくすると、信彦は顔を赤らめながら潮香に背を向けて自転車をこぎ出した。一体何があったのだろうか……?
堤防には、赤や紫の無数の秋桜の花が揺れていた。二人の正面には真っ赤な夕焼けが広がり、色とりどりの秋桜の群れは夕陽に照らされて徐々に金色に染まり始めていった。二人は自転車を止め、風に吹かれながら美しい光景をじっと見入っていた。
「すごい。こんな景色、見たことないよ……いいなあ、信彦君。こんな素敵な場所を走って学校に通ってるんだね」
「ありがとうございます。ここ、僕にとって一番のお気に入りの場所なんです。教室やアルバイトで嫌なことがあった時も、ここを突っ走ると不思議と吹っ切れちゃうんですよね」
信彦はそう言うと、大きく背伸びをした。
「ここまで付き合ってくれてありがとうございます。僕の家はこの近くなんですが、帰ってすぐアルバイトに行かなくちゃいけないんで、これで失礼します」
「そうなんだ……大変だよね。でも私、応援してるからね! 信彦君が夢に少しでも近づけるようにね」
「ありがとうございます」
信彦は髪をだらりと下げ、深々とお辞儀すると、潮香に背を向けて自転車にまたがった。
「あ、そうそう……ひとつ言い忘れたことがありました」
信彦はそこまで言うと突然口をつぐんだが、髪を何度も掻きながら考え込み、ようやく口を開いた。
「住吉さんが髪をなびかせて自転車を走る姿…‥すごく綺麗でした」
それだけ言い残すと、信彦は自転車の向きを急転換し、猛スピードで走り去っていった。
夕陽に照らされた秋桜が揺れる中、一人残された潮香は、しばらくその場に立ち尽くしていた。今まで味わったことのないとてつもない高揚感が、照れ臭いような、嬉しいような不思議な気持ちが、潮香の中を支配していた。
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