二章4 夢と現実の狭間で
十月下旬、潮香のクラスでは、最終的な進路を決めるための三者面談が行われた。
潮香と母親の小枝子は面談の予定時間より早く到着し、廊下で待機していた。
潮香と小枝子は、最近顔を合わせるたびに口論になることが多かった。それは、最近になって潮香が早稲田大学を受験したいと宣言したことから始まった。信彦から早稲田大学出身の文学者の話を聞き続ける中で、早稲田への興味が湧き、早稲田に行きたいという気持ちが日々強くなっていったのだ。
しかし小枝子は、学校の成績が良くない潮香が安易に早稲田を受験することに対し危惧を抱いていた。潮香には実力に見合った、現役で合格できる所を目指して欲しい……潮香が早稲田受験を宣言したその日から、小枝子はそう言い続けた。しかし、その度に「私の夢を潰さないでよ」という潮香と意見がぶつかり、家庭内が険悪な雰囲気になることが相次いでいた。
「潮香、悪いけど今日の面談中は、何もしゃべらないでくれる?」
「はあ?」
「あんたがしゃべると、場の雰囲気が悪くなる。その結果先生の私達親子に対する心証も悪くなる。だから黙ってて」
「そんな。だって、受験するのは私だよ? 自分の将来を決めるのも私。何で母さんと先生が決めるのよ」
「だから雰囲気を悪くするのよ。お願いだから黙っててちょうだい! いいわね?」
小枝子の一方的な言い方に潮香はいきり立ち、母親に言い返そうとしたその瞬間、担任の
二人は面談室に入ると、五藤先生が見せてくれた模擬試験のデータを元に目指す大学をどうするか話し合った。
「先生、うちの子、早稲田に行きたいって言って聞かなくて。でも、そんなに勉強している様子も無いし、どうしたらいいのか」
潮香よりも小枝子の方が、今後の進路に対する焦りを感じていた。潮香は口を挟むことなく、小枝子と五藤先生のやり取りを聞いていた。本当は二言三言言いたいのを、拳を握ってこらえながら聞き続けていた。
「こないだの模擬試験の成績、潮香さんはクラスの平均よりは若干上回っていますが、早稲田を受けるとなると……一番偏差値が低い学部でもギリギリ受かるかどうかというところでしょうかね」
「でしょ? この子にちゃんと厳しい現実を教えてあげてくださいよ。ずっと吹奏楽やってて他の子達より受験勉強始めるのが遅れてたんだから、もっと焦りなさいよと言っても、ふてくされたり、勉強したかと思ったら寝ちゃうし、本当に困っちゃうんですよね」
潮香はむくれた顔で二人のやり取りを聞いていた。「二人とも言いたい事言いやがって」と、腸が煮えくり返るのを抑えながら……。
「とりあえず、僕が言えることは二つですかね」
「二つ……というと?」
「一つは、志望校のレベルを下げること。今の成績だと、東京の私立ならば成城、成蹊、明治学院辺りは何とか行けそうですかね。そしてもう一つは、どうしても早稲田を受けるのであれば、勉強時間を今の二、三倍に増やすことと。いくら子どもの数が昔より減ったと言え、早慶クラスは人気もレベルも高止まりしていますのでね」
「先生、ありがとうございます。ほら、潮香、聞こえたかしら? あんたの目の前には二つの選択肢しかないのよ。今すぐにでも自分の甘い考えを捨てなくちゃだめよ」
小枝子は捲し立てるようにそう言うと、深々と頭を下げ、潮香とともに席を立った。
面談室を出ると、潮香はようやく口を開いた。
「私だって、言いたいことがいっぱいあったのに……」
「あんたが口を開くと絶対に揉めるから、最初に口止めしたのよ。どうせ『何が何でも早稲田に行きたい』とか言い張るんだろうから」
「それがどうして悪いの? 受験し、進学するのは母さんじゃなくて私なんだよ? どこを受験しようが私の勝手じゃん」
「あんたは世間を知らないのよ。早稲田にこだわってどこにも受からず、浪人でもしてごらん? いざ就職という時、浪人って大きなマイナスだからね」
「今から就職の心配してどうするのよ?」
二人が口論しながら廊下を歩いている最中、潮香の視界の中に信彦の姿が見えた。その後ろには、白髪で、全身を左右に不安定に揺らしながら歩く年配の女性の姿があった。
「信彦君?」
潮香が声を掛けると、信彦は軽く頷き、そのまま潮香のそばを通り過ぎていった。
やがて面談室から「岡部さん、どうぞ」と言う五藤先生の声が聞こえた。
信彦と年配の女性は連れ立って部屋の中に入っていった。
「あの人……信彦君のお母さん?」
信彦の母親は初めて見かけたが、あんなに年老いているのだろうか? それに何だか歩き方が不安定で、何か支えがないと転んでしまいそうにも見えた。
翌日の放課後、潮香はいつものように図書室へやってきた。
三者面談の後とあって、勉強している生徒の顔つきが今までと違うように感じた。潮香もさすがに今の成績では先生も親も説得できないと思い、今日からは信彦と本の話をせず、勉強に専念しようと心に決めてきた。
「あれ? 信彦君は?」
いくら室内を見渡しても、信彦の姿は見当たらなかった。ひょっとしたらまだ本棚から今日読む本を選んでいるに違いない……そう思った潮香は、本棚を片っ端から見て回った。特に、文庫本のコーナー、歴史書のコーナーなど、信彦が潜んでいそうな場所を念入りに調べた。しかし、信彦はどこにもいなかった。
潮香は観念し、ちょうど空いていた席に腰掛けると、参考書とノートを開いた。
「……今日は帰っちゃったのかな? 授業には来ていたのに。何かあったのかな?」
参考書を読みながら、頭の中には時折信彦の姿が浮かんできた。
今日は信彦と本の話をせず勉強に集中するつもりだったのに、却って全然集中できず、潮香は頭を抱えて机に突っ伏した。
「会いたい……」
潮香は突如顔を上げると、鞄に参考書とノートを仕舞い込んだ。図書室から出ると、きしむ音を上げながら廊下を走り、玄関を出て駐輪場に向かった。
まだ学校にいるんだろうか? それならば自転車がまだ置いてあるはず。信彦の自転車は年季が入った車体が特徴的なのですぐ分かるだろうから……潮香は必死に駐輪場を歩き回った。
「どこにも無いじゃん……」
潮香は肩を落として自分の自転車にまたがった。
おそらくもう自宅に帰ってしまったのだろう。昨日の面談で体が不自由な母親が一緒にいたから、きっと母親の病院の付き添いにでも行ったのかもしれない。
潮香は自分にそう言い聞かせ、無理やりにでも納得させようとした。
潮香は自転車で急坂を下ると、やがて遠目に大きな川が見えてきた。
「井水川……」
潮香はその言葉を口にした時、頭の中に何かがひらめいた。
以前、信彦と一緒に帰った、井水川の堤防を二人で風に吹かれながら自転車で走り抜けた。潮香はあの時の信彦の表情と言葉を、今も忘れていなかった。
きっとあそこにいるはず……潮香は大きく頷くと、ペダルを力強く漕ぎ、坂道を一気に下っていった。
自転車はぐんぐん速度を上げ、やがて井水川のほとりにたどり着いた。
堤防をひた走りながら、潮香は辺りを何度も見回した。しかしどこにも信彦の姿は無かった。
「ダメ……かあ……」
落ち込んだ潮香は、肩を落として自転車の向きを変え、自宅へ帰ろうとした。
「どうかしました?」
その時、潮香の目の前には犬を散歩する中年女性がいた。潮香は一縷の望みを賭けて女性に問いかけた。
「あの……髪の毛がちょっと長めの、黒い縁の眼鏡をかけた男の子が自転車で走ってるの、見かけませんでした?」
「ああ、岡部さんところの? いたよ、あそこの橋の下に。心配になってさっき声掛けたんだけど、『だいじょうぶです』って言ってたよ」
女性は、正面に見える赤い橋を指さした。
「あ、ありがとうございます! 助かりました!」
潮香は再び自転車にまたがり、全速力で漕ぎ出した。やがて赤い橋が視界に入ると、潮香は橋のたもとに古びた自転車を見つけた。
ここだ。この近くにいるに違いない!
潮香は古びた自転車の隣に自分の自転車を停めると、堤防を駆け下りた。そして橋の真下にたどり着くと、そこには背中を丸めてうつむく信彦の姿があった。
「信彦君!」
潮香は信彦の元へ駆け込むと、息を切らしながら顔を覗き込んだ。信彦は大きな目を開いて潮香の方を振り向いた。目の周りは、泣きはらした後のように真っ赤に腫れあがっていた。
「一体どうしたの? どこにもいなかったから、心配したんだよ」
「すみませんでした。僕は大丈夫ですよ、気になさらず帰って下さい」
信彦の顔は生気を感じられなかった。声も力が無く、耳を澄まさないと聞き取れないほどだった。
「大丈夫なわけないじゃん。私で良かったら、話してもらえるかな? 力になれることがあるなら、私も協力するから」
すると信彦は頭を左右に振って、大きなため息をついた。
「昨日の三者面談で……五藤先生にはっきり言われたんです。現状では早稲田は無理だって」
「……!」
「模擬試験の成績だけ見たら合格に全然及ばないし、それにうちは母子家庭で、母さんは仕事をしてるけど、身体に障害があってそんなに働けないから、経済的に厳しいし……先生、ハッキリ言ってましたよ。『お母さんの側にいてあげなさい。大学進学を諦めるか、どうしても進学したいなら自宅から通える範囲にある地元の国立大に行きなさい』って」
信彦は力のない言葉で、昨日の面談のことを延々と話していた。
「あ、先生、もう一つ言ってましたよ。僕がそれでも早稲田を受験したいと伝えたら、『君が今やっている勉強は受験勉強じゃない。試験では全然役に立たない。どうしても早稲田に行くつもりなら、今すぐやり方を全部変えなさい』って……」
そこまで言うと、信彦の大きな目からじわりと涙がにじみ、頬を伝って落ちていった。
潮香は何も言えなかった。五藤先生の言葉は辛辣であり、他にもう少し言い方があったのではないかと感じたが、成績や家庭事情など現実を見たうえで、進路に向けた最善のアドバイスをしたのだろう。
目の前には、井水川の水面が夕陽を浴びてきらきらと輝いていた。かすかな音を立てて流れる川を、二人は無言のまま肩を並べてじっと見つめていた。
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