二章5 同じ夢を見たい
山に囲まれた東北の田舎町である常山市では、秋も深まると午後五時頃には陽が沈んでしまい、町は暗闇に覆われてゆく。二人は井水川の流れを見ながらずっと座り続けていたが、潮香は西の空の向こうに太陽が沈み始めたのを見て、立ち上がった。
「帰ろっか。信彦君もアルバイトもあるんでしょ?」
「今日は……休みました。さっき学校の公衆電話から連絡したんです。今日は体調悪いからって」
「え? ダメじゃん。嘘なんかついちゃって」
「だって、今の僕はもう何もする気が起きなくて……」
信彦は何とか立ち上がったものの、時折ふらつき、その場に倒れ込んでしまいそうになっていた。
「大丈夫?」
「大丈夫です、今日は朝から何も食べられなくて」
「そんなのだめだよ。せめて水分だけでも取らなくちゃ。ちょっと待っててくれる?」
潮香は先に堤防に上がると、自転車にまたがり、周囲を何度も旋回した。そして、民家の前に自販機があるのを発見した。
潮香は信彦に飲ませるミネラルウォーターと、自分用にダイエットコークを買うと、再び信彦の元へと戻ってきた。
「はい、これ飲んで! 食べられないなら少しでも水分とらなくちゃ」
信彦は潮香から渡されたミネラルウォーターのペットボトルを手に取ると、「ありがとうございます」と言い、口の中に流し込んだ。
「グホッ、ゲホッ」
「!?」
信彦は激しくむせりながら、飲んだ水を地面に吐き出した。潮香は驚きながらも、信彦の背中を何度も何度もさすった。
「ゆっくりでいいよ。慌てないで、そーっと飲んで」
信彦は頷くと、大きく深呼吸し、その後少しずつミネラルウォーターを飲んで喉を鳴らし、しばらく休んだ後にもう一度口を付けた。
「そうそう。慌てなくていいのよ。私がちゃんと見守ってるから」
「住吉さん……」
潮香は信彦と一緒に、手にしていたダイエットコークを一口飲んでは止めるしぐさを繰り返していた。
「ぷはぁ。ちょっとちょっと肌寒いけど、川を見ながら飲むのって気持ちいいよね」
潮香は口の辺りを拭いながら、信彦に笑いかけた。
信彦は頷くと、ペットボトルを口に付け、喉を鳴らしながら水を流し込んでいった。
「ダメじゃん、そんなに急に流し込んだらまたむせるわよ」
「いいんです。大分落ち着きましたから、住吉さんのお蔭でね」
「え? 私が……?」
潮香は口をあんぐりさせながら自分を指さすと、ペットボトルを手に、信彦は笑顔を見せた。さっきまで漂っていた悲壮な雰囲気は、ほんのわずかではあるが落ち着いてきたように見えた。
「住吉さんは、何を飲んでるんですか?」
「ダイエットコーク……」
「コーラですか? あまり健康に良くないって聞きましたが」
「いいの、私は昔からコーラ無しでは生きていけないんだから! ただ、最近は太るのが嫌で、もっぱらダイエットコークだけど……」
「ふーん、糖分が少ないとか?」
「まあ、そうかな」
「僕にも飲ませて頂けますか?」
「え……?」
潮香は、信彦の口から出た言葉に腰を抜かしそうになった。
それって、まさか、潮香が口を付けたペットボトルを、信彦も飲むということなのか? そう考えた時、潮香は心臓が突然高鳴り始めた。
「いいの? 私の唾液とかついてるかもしれないけど、気にならない?」
「いいです。どんな味なのか、気になって仕方が無くて」
「じゃあ、はい……どうぞ」
潮香はそっとペットボトルを信彦に手渡した。すると信彦はボトルの中を覗き込み、縁取りを拭き取ることなくそのまま口に流し込んだ。
「すごく美味しいです。コーラってあまり好きじゃないんですけど、これはそんなに甘くないから、僕でも飲めそうです」
信彦は口の辺りを片手で拭きながら、ペットボトルを潮香に手渡した。
「あ、そうだ。良かったら、僕のミネラルウォーターも飲んでいいですよ」
そう言うと、信彦は自分が飲んでいたミネラルウォーターが入ったペットボトルを潮香の手に握らせた。
「私が飲んで良いの? 信彦君の栄養補給用に買ったんだけど」
「僕は十分元気になりました。そのお礼と言ったら変ですけど、飲んでいいですよ」
「でも、それって、間接キ……」
潮香はとっさに両手で口を押さえて、言葉を途中で止めた。目の前には、屈託のない笑顔を見せる信彦がいたからだ。さっきまで生気を失った顔で悲しみにくれていた信彦が見せた満面の笑顔を見て、潮香はそれ以上野暮なことを言う気が失せてしまった。
潮香は、ペットボトルを一口、また一口飲んだ。
「美味しいですか?」
「そうだね……コーラを飲んで口の中に甘い香りが残っていたから、水を飲んだらちょっとさわやかになったかな?」
潮香は笑いながらそう言うと、信彦も一緒に笑い出した。普段は得意げな顔で文学や早稲田大学に関する話を訥々とする彼が、ニキビだらけの顔をくしゃくしゃにしながら、初めて見せてくれた無邪気な笑顔だった。
「ねえ、笑い顔、すごくかわいい」
「僕の?」
「そうだよ。他に誰がいるの?」
「初めてですよ、笑い顔を褒められたの。いつもキモイだの汚いだの言われてばかりでしたから」
信彦は照れ臭そうに何度も髪の毛を掻きむしった。
「信彦君、こないだ私、すごく嬉しかったんだよ」
「へ? 僕、何か言いましたっけ……」
「忘れちゃった?」
「……いや、最近読んだ本やその内容についてなら覚えていますが」
「ダメだこりゃ」
潮香は頬を膨らませ、信彦を置いてけぼりにするかのように自転車を押しながら歩きだした。信彦は一人取り残され、「え? 僕何か言いました? 全然思い浮かばないんですけど」と言いながら必死に後を追ってきた。
潮香は「しょうがないなあ」と呟くと、後ろを向き、長い髪を背中に向かってかき上げた。潮香の細く長い髪は、ふわふわと空中で舞い始めた。
信彦は大きな目を輝かせながら、風に舞う潮香の髪に見入っていたが、その時突然手を叩いて「そうだ!」と大きな声を上げた。
「お、思い出しました!……確か、住吉さんが髪をなびかせて自転車を走る姿がすごく綺麗だった、でしたよね?」
潮香は信彦に人差し指を向けて、「ビンゴ!」と言った。
「私、すっごく嬉しかった……去り際にボソッと言われた言葉だったけど、私、思わず胸がきゅんとしちゃった」
「胸キュン……ですか」
「そう、胸キュン。信彦君に、ね」
すると信彦は、目をぎょろつかせながら手にしていたペットボトルを地面に落とした。
潮香は信彦が落としたペットボトルを拾うと、土を払い、信彦の手に握らせた。信彦は潮香から衝撃的な言葉を聞いたせいか、その手が小刻みにガタガタと震えていた。
「私も信彦君と同じでさ、三者面談で先生にボロクソに言われたよ。そこにうちの母さんも加担しちゃって、本当に腹が立って仕方がなかったんだ。あの二人、絶対見返してやろうと思って」
潮香は拳を握りしめながら、三者面談の時の悔しい思いを訥々と語りだした。
「でも私はこれで諦めない。そして絶対に負けないからね。だから信彦君もこんなことで諦めちゃダメだよ。私と一緒に早稲田に行こうよ!」
潮香は信彦の肩を掴むと、何度も強く揺すった。信彦はきょとんとした顔で口をぽかんと開けて潮香を見つめていた。
「分かってるよ。今から勉強法を変えるのが大変なことも、家計やお母さんのことが気になるのも。でもさ、信彦君は私に早稲田出身の作家を沢山教えてくれたじゃん。そして、目を輝かせて、好きな作家をいっぱい生み出した早稲田に行きたいって私に言ったじゃん。それを聞いて、私、心に決めたんだ。私も早稲田に行きたい。この人と一緒に、早稲田のキャンパスを歩きたいって」
信彦は全身が震えだし、やがて大きな瞳から次々と涙がこぼれ落ちていった。
「ありがとう……」
信彦はそれだけ言い残すと、自分の肩を掴む潮香に覆いかぶさるかのように全身が崩れ落ちた。信彦は、潮香の胸の中で声を上げて嗚咽した。むせび泣く信彦の背中をさすりながら、潮香は何度も目頭を押さえた。
「辛かったよね……分かるよ。信じてきたものを否定されたことの悔しさも、現実を見なくちゃいけないことも」
やがて信彦は潮香の胸から顔を上げ、大きな目を真っ赤にしながら「ごめんなさい、泣いたりして」と言って何度も頭を下げた。
「何で謝るの? 泣きたいんだから、思い切り泣けばいいじゃん。ありのままの自分の気持ちを隠さなくていいよ」
「住吉さん……」
信彦は涙声で、時々咳き込みながら真っすぐ潮香を見つめた。何か言いたげなように見えたが、首を振って視線をそらしていた。
「どうしたの? 何か言いたいことがあるの? 私、ちゃんと聞くから隠さずに言ってほしい」
信彦は潮香の言葉を聞くと、意を決した様子でまっすぐ潮香を見つめ、口を開いた。
「僕……住吉さんのことが好きです。こんな僕を受け入れてくれて、話を楽しそうに聞いてくれて。そんな住吉さんに、僕、段々心が惹かれていって……」
信彦はそう言うと、息を切らしながら再び視線をそらした。
「角田光代さんの本も、早稲田出身というだけじゃなく、女性の気持ちを知りたかったからなんです。住吉さんを好きになって、僕、女の人の心をもっと知りたいって思って……」
潮香は信彦の言葉に驚いた。しかし、これが今の信彦のありのままの気持ちだと思うと、迷うことなく包み込んであげたいと思った。
「私もだよ。信彦君」
そう言うと、潮香は信彦の頬にそっと口づけた。
「え?」
ずっと泣きじゃくっていた信彦は、正気に返ったような様子で頬を押さえながら潮香を見つめた。
「私、絶対早稲田に行くからね。信彦君の夢は、私の夢だから」
「僕も……住吉さんと同じ夢を見たいです」
二人は真っすぐ見つめ合うと、どちらからともなく顔を近づけ、そのまま唇を重ね合った。
太陽は既に沈んで辺りはすっかり暗くなり、井水川沿いの集落に灯りがともり始めていた。
陽が沈んだことも気にせず唇を重ね合う二人の後ろには、二台の自転車が堤防の上に仲良く並んでいた。
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