二章6 ひとりぼっちのクリスマス・イブ

 十二月も下旬になると、山間にある常山市の町並みは真っ白な雪に覆われる。図書室の窓の外は、今日も際限なく雪が降り続いていた。

 潮香は参考書を開き、目の前に座る信彦に英文解釈を教えていた。


「そう、ここは主語と述語が離れてるから気を付けてね。それと時制にも気を付けて。コンマの前後の文章を比べるといいよ」

「はい、気を付けます。英語は潮香さんの言うことを信じますから」

「ダメだよ、私だって英語が抜きんでて得意というわけじゃないからさ。ちゃんと後で参考書で確認しないと」

「でも、僕たちには残されてる時間が無いですから……潮香さんだって、国語をまるっきり頼りにしてるじゃないですか?」

「ま、まあ……それは反論の余地ナシだけどさ」


 二人はお互いに得意な教科を教え合いながら、遅れていた勉強を取り戻そうと必死にあがいていた。試験日まで、残された時間は二か月を切っていた。

 目の前にいる信彦は、必死に頭を掻きながら教えてもらった英文解釈法を参考書で調べては、ひたすらノートに書き記していた。


「へえ、信彦君のノート、英文ばかり書いてあるじゃん。以前は早稲田出身の文学者についてびっしり書いていたけど、わずかの間にすっかり変わっちゃったね」

「だ、だって……受かりたいですから、早稲田に」

「それは私もそうだよ。だから次は私に教えてよ、現代文の文章読解を」

「え、今度はどこがわからないのですか?」


 二人のいる空間は、そこだけ独特な雰囲気が出来上がっていた。終始付きっきりで分からない所を教え合う二人に他の生徒たちは近寄れず、二人から離れた席に座るようになっていった。


「ねえ、私達の周り……誰も座ってないよね」

「そうですね。僕たち、何か周りに迷惑をかけるようなことをしているんでしょうか?」

「まさか、耳障りになるような大きな声を上げているわけでもないし、臭いを撒き散らしてるわけでもないし」

「ですよね。気のせいですよ、きっと。さ、続きを始めましょう」

「そうだね」


 微笑みながら参考書を読む信彦の姿を見て、潮香は大きく頷いた。


「ねえ、今日で二学期も終わりだね。図書室は本の整理で明日から年明けまでは開かないみたいだし、しばらく会えなくなるね」

「そうですよね。何とも残念ですね」


信彦は目線を落とし、どことなく寂しそうな顔を見せた。


「信彦君、来週の月曜日はクリスマスイブだけど、何か予定あるの?」

「え? 特に……ないですよ。いつも通り、アルバイトに行くくらいですかね」


 すると潮香は両手を口に当て、いたずらっぽい笑みを浮かべた。


「ねえ、クリスマスイブに二人で駅前の図書館に行かない?」

「図書館?」

「たまにはいいじゃん、ここより施設が立派だし、暖房も効いてすっごく快適だよ。それにその日は……勉強した帰り、二人でどこかに食事でも行きたいな、と思ってね」


 潮香はこめかみのあたりを指で掻きながら、小さな声で呟いた。


「いいですよ」

「え?」

「恥ずかしながら、図書館ってまだ一度も行ったことがなくて。この機会に見て見たいと思いますし、それに……」


 信彦は照れくさそうな顔で両手の指をいじりながら、言いたいことを言いにくそうな様子を見せていた。


「どうしたの、急に黙っちゃって」

「……いや、住吉さんと食事できるなんて、夢みたいだなって」


 恥ずかしそうにぼそぼそと話した信彦の言葉に、潮香は思わず胸がキュンとなった。


「嬉しい。じゃあ二十四日の午前十時、図書館の入口で待ち合わせね。約束だよ」

「わかりました」


 潮香は左手の小指を信彦の前に突き出すと、信彦はそこに自分の小指をそっと絡めてきた。


「じゃあ僕、アルバイトがあるからこれで」

「うん」


 信彦は手を振って席を立った。潮香は信彦の背中を見送りながら「ヨシッ」と小声で言いながら両手を握りしめ、ガッツポーズを作った。

 潮香は信彦に教えてもらった現代文の読解問題を解き直しながら、頭の中ではクリスマスイブの日に何を着て行こうか、どこの店で食べようか、そしてその後は……など、色々と想像しながらニヤニヤと笑っていた。

 気が付くと窓の外が暗くなり、図書室が閉まる時間が近づいてきた。潮香の背後では生徒たちが次々と席を立っていった。

 一人取り残された潮香は、せめて信彦に教えてもらった読解問題だけでも何とか仕上げて帰ろうと思ったが、司書の先生に「もうすぐ閉室ですよ」と声を掛けられると、問題を途中で終わらせて慌てて本やノートを鞄に詰め込んでいった。

 今にも消えそうな廊下の電灯に照らされながら、潮香はギシギシときしむ床を踏みしめていった。ようやく玄関にたどり着いた時、そこにはショートカットの黒髪に雪をかぶりながら立っている一人の女子生徒の姿があった。


「珠里……」

「待ってたよ、潮香。私もさっきまで図書室にいたけど、よくがんばって勉強してたね、こんな遅くまで」


 珠里はそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。


「珠里は余裕なんでしょ? こないだの模擬試験も上位だったもんね」

「私のことは気にしなくていいよ。今の潮香は、自分自身のことを心配すべきじゃないかと思うけど?」

「私自身のこと?」

「そう。あんたと信彦、図書室ですごく浮いてたわよ。二人で勉強しながらいちゃついてて」

「……それが何か? 信彦君がキモいから離れた方が良いって言いたいんでしょ?」

「違う! この時期にそんなことしてたら、あんたはどこにも受からないって事!」


朱里は目をつり上げて、潮香を一喝した。


「友達に聞いたけれど、あんたと信彦、早稲田に行きたいんだって? 今の状態で本当に受けるつもりなの?」

「だから私は今、必死に勉強してるんだよ。」

「必死に勉強? マジで?」


 珠里は声を上げて笑いだした。

 珠里は社交的で頭が良く、生徒会の役員も務めて人望もあった。潮香とは中学時代からの友人で、いつも潮香のことを気にかけてくれていた。その珠里が、なぜ潮香の気持ちを逆撫でするような言葉ばかりを並べているのだろうか?


「一応、私から最後通牒をしておくね。あんたが信彦と歩調合わせて勉強してるうちは、早稲田に受かることはありえない。あんたも知ってるだろうけど、信彦は家庭環境が悪くて、受験勉強どころじゃないはず。生活のために今もアルバイトしてるって聞いたわよ。おまけにあんなふざけた勉強をしているようじゃね……最近目を覚ましてまともな勉強やってるみたいだけど、今更? って感じだし」


 一方的に珠里にまくしたてられた潮香は、悔しさのあまり拳を握りしめ、次第にその拳は抑えきれない程激しく震え出した。


「勘違いしないでね。私はあんたをけなそうとして言ってるんじゃない。付き合いの長い友人として、あんたの今後を真剣に心配してるから言ってるんだからね」


 そう言うと、珠里は潮香に背を向け、雪の中を一目散に駆け出していった。


「珠里のバカ! 私、あんたとは今日で縁を切るからね。信彦君に対してそんなひどいことを言うヤツとは、金輪際顔も合わせたくないから!」


 潮香は暗闇に消えていく珠里の背中に向かって、吠えるかのように激しく叫んだ。しかし珠里はそれに対し反論することも、潮香の元に戻ってくることもなかった。潮香は激しく息を切らしながら「あんなヤツだと思わなかった」と吐き捨てるかのように言うと、鞄から傘を取り出して、降りしきる雪の中を歩きだした。



 十二月二十四日。

 常山駅前の大型複合施設の入口には、商業テナントで買い物を楽しむカップルと、中にある市立図書館へ向かう沢山の学生達でごったがえしていた。

 潮香は、学生達に交じって図書館のある階にやってきた。すでに自習室の半分以上が埋まっており、その後も続々と学生達が部屋の中へと入り込んでいった。

 今日の潮香は顔にしっかりと化粧を施し、白の可愛らしいロングコートの下にハイネックのセーターを着込み、膝上丈のミニスカートとロングブーツを履いていた。信彦を驚かせたい一心で、目一杯のおしゃれをしてきたつもりだ。今日は勉強ではなく、勉強の「その後」が最大の目的である。

 潮香は図書館の入口で、信彦がやってくるのをひたすら待ち続けた。しかし約束の時間をとうに過ぎても、信彦は姿を見せなかった。

 潮香も信彦も携帯電話を持っていなかったので、簡単に連絡を取り合うことはできなかった。しかし、信彦は超が付くほど真面目な性格であり、約束を簡単に破るようなことはない、きっとお母さんの通院にでも付き添っているのだろう……そう考えた潮香は、もう少しだけ待つことにした。

 しかし、十一時を過ぎても信彦は来なかった。そして気が付くと、自習室の空席は数えるほどしか残っていなかった。

 このままでは仮に信彦が来ても、二人が座れる席が無くなってしまう。潮香は慌てて自習室の中に入ると、コートを脱ぎ、対面にある席に置いて二人分の席を確保しようとした。すると係員が慌てて潮香に近づき、怪訝そうな顔で睨みつけた。


「すみません、そこにも注意書きがあるんですが……自分以外の席の確保は禁止されていますので」


 潮香は係員の指さす先を見て、慌ててコートを手に取って苦笑いを浮かべた。そしてそのまま席に座ると、半分観念し、参考書とノートを机の上に広げた。

 潮香はため息をつきながら窓の外を眺めた。複合施設の入口に置かれた大きなクリスマスツリーの周りには、何組かのカップルが集まり、仲睦まじく話し込んでいた。

 本当ならば今頃、潮香と信彦もあそこで楽しく話し込んでいたはずなのに……。


 時間は刻一刻と過ぎ去り、やがて窓の外から見える景色が夕闇に包まれていった。クリスマスツリーにはカラフルな灯りがともり、駅に向かう通路には、金銀のまばゆいイルミネーションが点灯していた。

 潮香は鞄を手にして自習室の席を立つと、一縷の望みを賭け、もう一度信彦の姿を探した。信彦が好きそうな文庫本が並ぶ本棚、休憩スペース、テナントの並ぶショッピングモール、、履き慣れないブーツで足を痛めながらも必死に歩き回った。しかし、どこを探しても信彦の姿は無かった。

 気が付くと潮香は、図書館の窓から見えたクリスマスツリーの下に立っていた。

 自分の周りには、沢山のカップルの姿があった。スマートフォンで写真を撮ったり、楽しそうに談笑したり、手を繋いでイルミネーションが輝く駅の方へ歩いていったり……。ここに立っているだけでみじめな気分になると思い、潮香は足早にその場を去った。


「信彦君……一体、どこにいるの?」


 潮香は背中を丸め、コツコツとブーツの音を寂し気に響かせながら、多くのカップルや家族連れで賑わうビルの中へと消えていった。

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