二章7 残酷な現実

 冬休み中、潮香はもっぱら自宅で受験勉強を続けていた。

 学校の図書室は閉鎖され、駅前の図書館はこないだの苦い思い出が頭に甦ってきそうで、行く気が起きなかった。


「潮香、お疲れ様。ココア淹れたから、置いておくね」


 母親の小枝子が温かいココアを袖机に置いてくれた。


「ふーん、頑張ってるね。少しは成績上がってるのかな?」

「ちょ、ちょっと! 勝手に覗かないでよ」

「だって、気になるでしょ、ちゃんとやってるのか。早稲田に行きたいなんて言ってる人がサボってたり半端な勉強してたら、絶対に受からないもんね?」


 潮香は片手を前後に振って「あっち行ってよ!」と凄むと、小枝子は笑いながら「はいはい、とにかく今はがんばってちょうだいな。最後に泣きを見ないように」と言って、部屋のドアを閉めた。

 潮香は大きなため息をつくと、机に覆いかぶさるかのような姿勢で参考書を何度も読み、頭の中に出来るだけ多くの知識を詰め込もうとした。しかし、思うように知識が定着しておらず、以前解いた問題をもう一度やり直してもなかなか全問正解できなかった。

 やるせない気分で窓の外を見ると、自転車に乗った高校生ぐらいの若者が、雪の残る道路を慎重に走りながら隣の家にお歳暮を配達をしていた。


「信彦君……」


 潮香の口から思わず信彦の名前が出た。

 信彦は、今日も新聞配達のアルバイトしているのだろうか。家計が苦しいから、受験勉強のために休みたくても、なかなか休めないのかもしれない。

 けれど、先日のクリスマスイブに潮香に会う約束を破ったことについては、どうしても納得がいかなかった。あの日来なかった理由を、信彦自身から聞きたいと思っていた。それも、出来るだけ早く。

 潮香は筆記用具を投げ捨て、参考書を閉じると、クローゼットからダウンジャケットとマフラーを取り出した。頭には毛糸の帽子をかぶり、十分に防寒対策をしたうえで部屋の外に出ると、そこには腕組みして仁王立ちしている小枝子の姿があった。差し入れした後も、部屋の外から潮香の様子を伺っていたのだろう。


「どこに行くの? そんな恰好して」

「……散歩だよ。ずっと部屋の中じゃ気が狂いそうだもん」

「早く帰ってくるんだよ。あんたに残された時間はそんなにないんだからね」


 小枝子は潮香の背中に向かって金切り声を上げた。

 そんなに自分のことを信じられないのだろうか? 大体部屋のドア越しにずっと監視していたなんて、心配を通り越して意地悪をしているようにしか思えなかった。

 潮香は苛つきながら外に出ると、自転車にまたがり、ゆっくりと走り出した。道沿いにはまだ雪が残り、日陰に入ると所々真っ黒なアイスバーンが出来ていた。急坂や日陰では自転車を下りて押しながら歩き、十分除雪されている幹線道路や日なたを走る道路では自転車のスピードを上げた。

 しばらくすると、目の前に立派な堤防を備えた大きな川が現れた。橋のたもとにある標識には「二級河川 井水川」と書かれていた。


「あれ? こっちだったかな、西方地区って」


 潮香は堤防に上がると、きらめく川面を眺めながらひたすらペダルを漕いだ。信彦は新聞配達のアルバイトをしており、きっとここを自転車で通り過ぎていくに違いない……そう考えた潮香は、一縷の望みを賭けて堤防を駆け巡った。

 天気がよく、真正面にそびえる山々は、青空の下真っ白に染まった勇壮な山肌を見せていたが、潮香が自転車で右往左往するうちに、徐々に山際が茜色に染まり始めた。冬至を迎えたばかりで、日没時間は年間で一番早い時期である。ぼやぼやしているあっという間に辺りが真っ暗になってしまう。

 堤防を進むうちに民家の姿が減り始め、川の両側に雪に覆われた山裾がせまってきた。あまり通りかかる人が居ないせいか、堤防にはしっかりと雪が残り、これ以上走るのは危険と思った潮香は、肩を落とすと、走ってきた堤防を元に戻ろうと自転車を転回させた。

 夕方になり気温が下がってきたせいか、堤防を通りかかる人はほとんど見かけなかった。潮香の顔は赤く染まり、自然に鼻水が流れ落ちそうになった。心も体も寒くて凍り付きそうだった。

 西方の集落を通り過ぎ、堤防を下りて市街地に入ろうとしたその時、潮香の目の前を一台の自転車が走っているのを目にした。自転車の荷台には、ビニールで覆われた新聞の束が積んであった。


「ま、まさか……!」


 潮香はペダルを踏む足に力が入った。前を行く自転車は、荷台に新聞を積んでいるせいか、動きがゆっくりであり、潮香の自転車はあっという間にその背後に迫っていた。やがて、自転車の車体もはっきりと潮香の眼中に見えてきた。塗装が剥がれた古びた車体を見て、潮香は確信した。


「信彦君!」


 潮香はすぐ背後から叫んだ。しかし自転車は止まることなく、潮香を惹き離そうとするかのように速度を上げ始めた。


「ちょっと待ってよ! 私だよ、住吉潮香だよ!」


 しかし自転車は止まろうとせず、勢いをつけて街中の細い道へと入っていった。

 潮香も負けずにペダルを漕いだ。ここで追いつかなければ、新学期まで会えなくなりそうな、いや、その後も会えなくなってしまいそうな予感がした。

 細い路地にはまだ雪が残り、雪掻きした所もアイスバーンとなって所々黒く光り輝い。目の前を走る自転車は、積雪した箇所を避けて黒く光る部分に車輪を入れようとしたその時、車体は斜めに傾き、バランスを失ってそのまま地面に横倒しになった。


 ガシャン!


 車体は激しい音を立てて路上に倒れた。その衝撃で荷台も崩れ、積んであった新聞は路上に散乱していた。


「信彦君! ちょっと、大丈夫?」


 信彦は歯ぎしりしながら全身を起こすと、腰の辺りを何度もさすっていた。おそらく倒れ込んだ時、腰から尻の辺りを強く打ったのだろう。


「すごく痛むの? 病院に行ったほうがいいかもよ。この近くにもあったと思うから」

「いや、大丈夫です……」


 しかし、信彦は腰を抱えたまま顔を引きつらせていた。


「まずは病院に行かないと! さ、私につかまって」

「でも、まずは新聞を配らないと店長に怒られてしまうし、給料ももらえなくなるから……」

「じゃあ、お店に一緒にいこうか。代わりの人に配ってもらえるよう、私も交渉するから!」


 潮香は口を真一文字に結びながら信彦を見つめた。信彦はどこか浮かない顔をしていたが、ようやく頷いてくれた。

 潮香は散乱した新聞を拾うと自分の自転車のかごに入れると、二人並んで自転車を引きながら市街地を抜け、夕闇に染まる井水川に向かって歩きだした。


「お店って、この近くなの?」

「はい。あの橋を渡った向こう側にあります」


 二人は井水川を渡り、西方の集落に入ってすぐのところにある新聞店にたどり着いた。店内は新聞の仕分けをする従業員たちでごった返し、足の踏み場もないほどだった。


「すみません、ちょっといいですか?」


 潮香は作業する従業員を気にすることも無く、入口で声を張り上げた。すると店員の一人が「何だい? 姉ちゃん」とけだるそうな声を上げ、ポケットに手を突っ込みながら近づいてきた。

 すると潮香は申し訳なさそうな顔で頭を下げる信彦を片手で制し、声を上げた。


「すみません、信彦さんが雪道で滑って転んでしまって……新聞、まだ全て配っていないのですが、転んで腰を痛めたようで、これ以上走るのは難しそうなので、どなたか変わっていただくことが出来ないでしょうか?」

「やっぱり……雪道で道路が凍ってるから無理すんなよって、あれほど言ったんだけんどな」


 店員は腰を押さえながら深々と頭を下げる信彦を見て、顔をしかめると、店の奥に行き、大声で叫んだ。


「おーい店長! 岡部君が転んで腰をあやめちまったんだってよ。俺、代わりに配りに行ってくっから、後は頼むわ!」


 すると白髪をオールバックにしたがっしりした体型の男性が店の奥から出てきて、二人の前へと近づいてきた。


「あの……この店の店長さんですか?」

「はい、店長の長谷川はせがわですが」

「ごめんなさいっ。私が、私が……信彦君を追いかけなければ、こんなことには」

「ああ、そんなの気に済んなでば。岡部君がこんな雪の日に無理して行こうとするのがいけないんだわ。俺からも『今日はバイク部隊に配達を任せとけ』って、あれほど言ったのに」

「で、でも、仕事しないと給料が……」

「気持ちはわかるけど、無理はすんなって」

「だって、生活費を賄わなくちゃいけないし、借金もあるし」

「これから必死に働いて補ってもらえばいいでば。それより、腰をあやめちまったんなら、早く病院に行ってこいや。うちも配達の人間が少ないからさ、早ぐ治してもらいたいんだわ」

「わかっていますが……おそらく治療代が払えないと思いますので」

「それは俺が払っとくから気に済んな。いずれ返してもらえばいいがら」


 店長はそう言うと、白い歯を出して豪快に笑いながら、信彦の肩を叩いた。


「お姉さん、ありがとな。岡部君を連れてきてくれて。今日は寒かったべ? お茶淹れるから、飲んでってけろ。岡部君も一緒によばれてけや」

「は、はい」


 店長が出してくれた椅子に腰かけた二人は、疲れもあってか、しばらくの間沈黙を続けていた。そして潮香は、信彦の口から出た言葉に強い衝撃を受けていた。信彦の家庭が経済的に苦しいことは知っていたが、そんなに逼迫していたとは。

 二人の目の前には、店長が淹れてくれた熱いお茶が並べられた。


「美味しいね……身体が一気に温まりそう」


 潮香は信彦を見て、顔を紅潮させながらお茶をすすった。しかし信彦は潮香を振り向くことなく、無言でお茶を飲み続けていた。やがて信彦はコップの茶を全て飲み干し、一息つくと、ようやく口を開いた。


「今日はありがとう、住吉さん。お茶を飲んだら、僕のことは気にしないで帰って下さいね」

「え?」


 潮香はあっけにとられた様子で、信彦の横顔を覗き込んだ。


「さっき聞いてたでしょ? 僕の家は経済的にとても苦しいんです。色々やりくりしてはきましたが、現実的に大学進学にお金をかける余裕はありません。ですから、住吉さんは僕のことなど気にせず、早稲田合格を目指して勉強してください」

「信彦君、どうして急にそんなことを……!」

「僕は心に決めたんです。もう住吉さんに会わない方がいいのかなって」


 飄々とした様子で話す信彦に、潮香は言葉を失った。信彦の表情は清々しく、後悔など微塵も無いように見えた。

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