二章8 いつの日か叶えるために
信彦からの衝撃的な言葉を聞き戦慄する潮香の前で、信彦は腰をさすりながらゆっくりと立ち上がり、潮香に向かって頭を下げた。
「今までありがとうございます」
潮香は頭を下げる信彦を見て、ようやく口を開いた。
「信彦君は本当にそれで良いの? 何も後悔しないの? 心から納得してるの?」
「はい」
「ちょっと、それ、本心から言ってるの? 誰かに言わされてるとかじゃなくて?」
「違いますよ。自分で考え、決めたことですから」
信彦はそう言うと、笑みを浮かべながら軽く頷いた。
「ついこないだまで私と一緒に参考書を読んでたでしょ? 一生懸命、英文をノートに書いてたでしょ? 信彦君は私と同じ方向を向いているとばかり思っていたよ」
「はい。住吉さんは、何をどう勉強したらいいのか悩む僕を、一生懸命支えてくれましたよね。自分の勉強を差し置いて僕に必死に英語を教えてくれて、ああ、この人、本気で僕を早稲田に行かせたいんだなって、心から嬉しかったです」
信彦は、一言一言をゆっくりとした口調で話していた。
「でも、こないだ住吉さんと別れて家に帰る時に、尾崎さんに会って、その場ではっきり言われたんです。『信彦は現実をちゃんと見ていない』って」
「尾崎って……珠里が!?」
潮香の腹の中が突然沸き立ち始めた。先日、学校からの帰り際に「最後通牒」と称して信彦と勉強することを諦めさせようとしたのも、珠里だった。あれ以来、潮香は珠里の顔を思い出すだけで腹が立って仕方がなかった。
「ねえ、珠里に何を言われたのか、教えてくれる? 私もあの子に、これ以上信彦君と一緒に勉強するのは止めろって言われたんだよ」
「そうですか、住吉さんも尾崎さんに色々と言われたんですね」
信彦は顎に手を当てて何度も頷くと、再び椅子に座り、背中を丸めてかがむような姿勢で潮香を見つめた。
「尾崎さんは、至極当然なことを言っていましたよ。最初は僕に声を掛けるや否や色々ズケズケと言ってきて、なんて失礼な人なんだろうと思いましたけどね。でも、彼女は僕の家庭のことも、成績のこともちゃんと知っていました。そのうえで、僕に早稲田を受験するかどうかの意思を問いただしてきたんです」
「で、信彦君はそこで、当然早稲田を受けるって言ったんでしょ? 珠里の下らない脅しには負けなかったんでしょ?」
「いや、僕はそこでは答えを出しませんでした。僕は早稲田を受けたい気持ちは変わらなかったし、一方で尾崎さんの言っていることも理解できたので」
「……じゃあ、何で受験を止めようなんて思ったの?」
「あの日家に帰った時、母さんがすごく辛そうな様子で寝ていました。僕は母さんの介護しながら、尾崎さんが僕に言ったことを考えたんです。母さんは病気をおして仕事をして家計を支えてくれているけど、今の状態を考えるともう長くは勤められないと思います。仮に僕が早稲田に受かって家を出たら、学費や仕送りは絶対期待できないし、何より母さんを支えられる人が誰もいなくなってしまいますし……」
信彦はそこまで話をすると、その後しばらく無言のままうつむいていた。何か言いたいのだろうけど、何か引っかかることがあって言いにくそうな感じがした。
潮香はそんな信彦の様子を心配し、耳元でそっと声をかけた。
「大丈夫だよ、私、遮らずに聞くから。信彦君のありのままの気持ちを私に教えてほしい」
「す、すみません……心配かけてしまって」
信彦は潮香の言葉を聞いて少し心が和らいだのか、再び話を続けた。
「この結論を出すまで……本当に悩みました。僕は早稲田出身の作家とその作品が本当に好きだし、そんな僕を受け入れ、一緒に早稲田に行こうって言ってくれた住吉さんのことが好きだし……受験を止めることは、僕自身不本意なだけじゃなく、住吉さんとの約束を破ることにもなるから、正直したくありませんでした。でも、家のことを考えると、本当にこのままでいいのかなって、もっと現実を見ないといけないんじゃないかって……」
信彦はかろうじて聞き取れる程の声で話し続け、最後には徐々に掠れて涙声になっていた。
「だから僕は決めたんです。住吉さんにはもう顔を合わせない方がいいって。住吉さんの顔を見ると、受験しないことへの罪悪感が沸々とこみ上げてくるんです。クリスマスイブに僕を図書館に誘ってくれましたよね? あの時、行かなかったのも同じ理由です……せっかく楽しみにしていたのに、約束を破って、本当に申し訳ありませんでした」
クリスマスイブの話が出た時、潮香もさすがにため息が出そうになった。大好きな信彦と一緒にクリスマスイブを過ごすために念入りにおしゃれをしてきたのに、独りぼっちにされて、結果的に今までの人生で一番寂しいクリスマスイブになってしまった。思い出すだけでも辛いが、信彦の話を聞く限りでは、辛いのは信彦も同じだったのかもしれない。
「じゃあ、さっき私を見て思わず逃げたのも、同じ理由なんだ?」
「はい。住吉さんの顔を見ると、何だか僕の胸をギュッと締め付けられるような気がして……」
「……それならそうと、私から逃げずに、ちゃんと話してくれて良かったのに」
「いや、僕は、その」
「辛い気持ちを一人で抱えちゃダメだよ。こないだも言ったよね? 私、信彦君の気持ちをちゃんと受け止めるって」
「そうですけど、でも……」
「辛かったら私をもっと頼って欲しかった。そんな時、私だったら信彦君の心も体もギュッと抱きしめてあげたのに……!」
潮香は立ち上がり、うつむく信彦に向かって声を荒げた。
信彦は頭を抱えたまま、そこから立ち上がれなかった。時折体が小刻みに震え、何かに対し強烈に怯えているように見えた。
「おいおい、さっきから何騒いでるんだ?」
隣の作業室から、店長が顔を覗き込んだ。潮香は自分の声が聞こえてしまったことに気づき、頭を掻いて頭を下げた。
「ごめんなさい……私、うるさかったですよね?」
「謝るこたぁねえけんどさ、岡部君、泣いてるんじゃねえか?」
店長はうつむいたまま起き上がれない信彦に近づくと、体を揺り起こした。
「大丈夫があ? 腰が痛くて泣いてるんか?」
「いや、そう言うわけじゃあ……」
「じゃあ何か? この女の子に何か言われたんか?」
「それも、違います……」
信彦は沈んだ声で、潮香のことをかばおうとした。
「ふーん……まあいいや。岡部君、もう今日は仕事はいいがら、帰るべ。腰、すごく痛えんだべ? 俺、車で送ってくよ。自転車はこごに置いていっていいがらな。あ、姉ちゃんはどうする? 一緒に送ってくかい?」
「いや、私は結構です……信彦君だけ、お願いします」
店長は信彦を抱きかかえると、引きずるかのようにそのまま作業室の方に連れて行った。
「信彦君!」
潮香は大声で信彦の名を呼んだ。
しかし信彦はうつむいたまま、店長に抱えられて玄関に停まっている車に乗せられていた。潮香は慌てて後を追い、車の助手席にいる信彦に大声で呼び掛けた。
「信彦君! 私、これから頑張って勉強する。そして絶対に早稲田に行く! 信彦君も……いつの日か、早稲田に来てほしい。今年の受験でなくてもいい、いくら時間がかかってもいい、辛くても夢を簡単に諦めちゃだめだよ!」
急速に下がる気温の中、潮香は息を切らしながら、助手席の窓に手を当てて叫んだ。
信彦はずっとうつむいていたが、若干顔を起こしてうつろな目で潮香を見つめた。
そして、ほんのわずかながら頭を上下に動かし、頷いているように見えた。
「私、待ってるから! ずっと、ずーっと待ってるから! なぜなら……」
潮香が車窓に手を当てて叫んでいたその時、車のエンジンがかかり、車体はゆっくりと前に進み始めた。
「信彦君のこと、大好きだから!」
潮香は全身に力を込めて、自分の気持ちを車窓の向こうの信彦に伝えた。しかし車は無情にも潮香を振るい落とすかのように速度を上げ、暗闇の中、まばゆいライトを照らして道路へと走り出していった。
潮香は肩を落として、車の行く末をじっと見つめていた。信彦の耳には、潮香の叫びは届いたのだろうか? もし届いていたとしたら、潮香の言葉をどう感じただろうか?……店長が信彦を自宅に送り届けて店に戻ってきたら、車中で信彦が何か言っていたか色々聞き出そうと思ったが、外はすっかり日が暮れてあまりにも寒く、ほんの数分立っているだけでも体が凍り付きそうだった。
店の中の時計を見ると、針が午後七時を指していた。これ以上遅くなると家族も心配かけてしまうと思い、潮香は店長の帰りを待つのを断念し、自転車にまたがって自宅への帰路についた。
自宅に帰ると、玄関には腕組みをして仁王立ちする母親の小枝子と、父親の哲哉が立っていた。
「どこに行ってたのよ? こんな遅くまで……散歩だなんて嘘をついて。どういうつもり?」
小枝子は甲高い声で潮香を問いただしてきた。
「俺も母さんの言う通りだと思うぞ……。いつまでも帰らないからオロオロして、警察に捜索をお願いしようかって話していたんだぞ」
哲哉もか弱い声で小枝子に追従した。哲哉は気弱な性格で、妻の小枝子には全く頭が上がらなかった。
二人の様子を見た潮香は呆れ果ててため息をつくと、「これから勉強するから」とだけ言い残し、二人の間を割って廊下を歩きだした。
「待ちなさい! どんな理由にせよ、嘘をついたことは許せないわよ。どこに行ってきたか、ちゃんと白状しなさい!」
小枝子は金切り声で潮香の背中に向かって叫んだ。
「じゃあハッキリ言うね。私、彼氏に会いに行ってきたんだ」
「か、彼氏!?」
小枝子は口に手を押さえ、信じられない様子で潮香を直視していた。
「私が早稲田に行きたいのは、その人も早稲田を目指してたからなんだ。でもね、色々事情があって今は受けられないんだって。でもいいんだ、私、その人の分もがんばって、絶対に早稲田に受かってやるから」
潮香はそう言うと、部屋のドアを叩きつけるかのように閉めた。ドアの外では、小枝子の狂ったかのような叫び声が聞こえていた。しかし潮香は気にすることも無く、やりかけのまま閉じていた参考書を開き、最初に解いて間違った箇所をもう一度解き直し始めた。
信彦は一見、飄々と未練が無いように振舞っていた.。しかし、心の奥底には、胸が締め付けられるほどの辛い気持ちがあることを、潮香は良く分かっていた。だからこそ、潮香は何としても合格したかった。信彦の無念を晴らすために、そして、いつになるかは分からないけど、二人で誓い合った約束を果たせるように。
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