二章9 夢を託して

 二〇一三年 一月

 年が明け、新学期が始まり、本の整理のため年末年始の間入れなかった図書室もようやく開放された。

 潮香は図書室の開放と共に利用を再開し、終了時間ギリギリまで勉強に打ち込んでいた。最初はなかなか気合が入らなかった受験勉強もようやく軌道に乗り、最近は「赤本」と呼ばれる過去問題集を何度も繰り返し解いていた。

 最初はなかなか解けなかったが、今は何とか合格点に届く程度まで解けるようになっていた。潮香は短期間でここまで出来るようになった自分の力に驚き、ほど遠い所にあると思っていた合格も、ようやく少しずつ見通しがつくようになった。

 しかし、潮香の心はどこか満たされていなかった。


「やっぱり、来ていないのか……」


 図書室内には、信彦の姿が無かった。いつも信彦が陣取っていた一番奥の一角は、ずっと空席のままだった。信彦は教室で潮香とすれ違っても全然声を掛けず、まるで一度も会ったこともない赤の他人のように接していた。あの時信彦が言った通り、厳しい現実を受け入れて、早稲田大学への受験は諦めてしまったのだろうか。そして、潮香と会うと色々思い出して胸が苦しくなるから、出来るだけ顔を合わせたくないのだろうか。

 しかし、信彦が来ないことに落胆している暇はなかった。潮香は赤本を解いて間違った場所を、片っ端から参考書で調べ始めた。そのとき、潮香のそばをクスクスと笑いながら誰かが通り過ぎていった。

 潮香は参考書から顔を上げ、誰が笑っているのか探そうと必死に辺りを見渡した。すると、誰かが重い引き戸をガラガラと開け、図書室の外に出て行こうとしていた。

 潮香がそこで目にしたのは、珠里の横顔だった。


「まさか、珠里……!?」


 潮香は参考書を閉じると、席を立って珠里の姿を追いかけた。珠里は潮香が追いかけてくることに気づいていたようで、振り返ると、満面の笑みで手を振った。


「お疲れさん、潮香。頑張ってるみたいだね」

「さっき笑ったの、あんたなの?」

「まあね。思いっきり必死な顔して頑張ってるなあって」

「今必死に頑張らないで、いつ頑張るのよ」

「そうね。でも、あんたがそんな必死に勉強頑張ってる所なんて、今まで見たこともなかったから、腹が痛くなるほどおかしくて仕方がなかったんだ。アハハハハ、あー思い出すだけでも笑っちゃう」

「まあ、いくらでも笑うといいよ。もうあんたとは絶交してるから、いくら笑おうがわめこうが関係ないし」

「あらら、開き直ってるのかな?」

「とにかく、これ以上付きまとわないでくれる? 私、また勉強するから帰るね。何言おうが勝手だけど、勉強の邪魔にはこないでちょうだい」

「そう、悪かったね。お邪魔しちゃって」


 珠里は笑いながら潮香に背を向け、玄関へと歩きだしたが、玄関に向かう途中で足を止めると、潮香の方を振り向いた。


「まあ……集中できるのも当たり前か。もう信彦がいないから、思う存分勉強に集中できるもんね」


 珠里はそう言い残すと、片手を振って玄関へと去っていった。

 潮香は「帰れ! 早くどっか行っちゃえ!」と大声で叫ぶと、背を向けて図書室へと戻っていった。

 珠里が信彦に余計なことを言わなければ、きっと信彦は今頃図書室で必死に勉強していたはず。そして、あのクリスマスイブの夜、潮香と一緒に過ごしていたはず……。考えれば考えるほど、腹の底から悔しさがこみ上げてきた。

 しかし、見方を変えると、信彦と別れてから潮香が早稲田合格へ向けてギアが上がったのは事実である。自分でも信じられない位、勉強に集中できていた。

 そう考えると、珠里に感謝すべきなのかもしれないが……今はまだ、憎しみの感情の方が上回っているように感じた。


 大学入試センター試験が始まると同時に、三年生は授業が終了し、いよいよ受験に向けてラストスパートに入った。

 潮香は来る日も来る日も、図書室に通い詰めた。信彦が座っていた窓際の奥の席に腰掛け、時間が経つのを忘れて勉強に打ち込んだ。

 そして二月に入り、大学受験のために東京に向かう潮香は、図書室での最後の勉強を行った。

 この日も閉室時間ぎりぎりまで席に座り、参考書を片手に最後の追い込みを行っていた。図書室内には潮香以外は誰もおらず、司書だけがいつまでも帰ろうとしない潮香を怪訝そうな顔で見つめていた。

 潮香は参考書の最後のページを読み終えると、大きく背伸びをした。そして、誰もいなくなった図書室をぐるりと見渡した。


「信彦君、とうとう来なかったか……」


 潮香は残念そうにそう呟くと、名残惜しそうに机の上を軽く何度も撫でた。

 思い返すと、潮香が初めて図書室に来た時、信彦と対面の席に座った。信彦は沢山の文庫本を机に積み上げ、作品について感じたことをノート一面に書き綴っていた。正直近寄りがたかったけど、潮香にとってそのすべてが新鮮だった。この場所が、自分の受験勉強の出発点だったのは間違いなかった。

 ここで信彦と過ごした時間は、もう戻らないかもしれない。でも、いつかどこかでまた戻ってくるかもしれない……潮香は淡い期待をしながら、参考書を鞄に詰め込み、司書の前で「今までありがとうございました」と深々と頭を下げた。

 その時、ガラガラと音を立て、入口の引き戸がゆっくりと開いた。もう閉室時間だと言うのに、一体どこの誰なんだろうか?

 潮香はドアの向こうを覗き込むと、次の瞬間、手を口に当てて仰天した。


「信彦君!」


 信彦は新聞店のロゴが入った汚れたジャンパーを着たまま、一冊のノートを手にドアの向こうに立っていた。


「間に合ってよかった……どうしても、渡したいものがあったものですから」


 信彦はそう言うと、ノートをそっと潮香の手に握らせた。

 潮香は久しぶりに会った信彦を前に、興奮が止まらなかったが、渡されたノートを手にすると、一枚ずつめくり始めた。そこには、かつて信彦が図書室で読んでいた村上春樹や阿刀田高の作品の解説が、一面びっしりと埋め尽くすかのように書かれていた。


「……これって、信彦君の大事なノートじゃない?」

「そうです。来週から早稲田の入試が始まりますよね。きっと住吉さんはそろそろ出発するだろうと思いまして、その前にこれをどうしても住吉さんに渡したかったんです」

「いいの? これを私がもらって」

「はい。きっと何かの役に立つと思いまして」


 信彦は、屈託のない笑顔でそう答えた。


「……僕、あれからもう一度考えたんです。でも、僕を取り巻く状況は想像以上に厳しくて、早稲田を受験するのは見送ることにしました。正直、自分の夢を諦めることはとても心苦しいですが、ここまで僕を支え、励ましてくれた住吉さんには感謝しています。そして、ぜひとも僕の分まで頑張ってもらいたいです。絶対に早稲田に受かって下さいね。それじゃ、僕はこれで」

「え? ちょ、ちょっと待ってよ!」


 信彦は頭を下げると、激しくきしむ音を立てながら古い廊下を一目散に走りだした。

 潮香も必死の形相で信彦の後を追いかけた。

 信彦は玄関すぐの所に自転車を止めていたようで、自転車にまたがると、あっという間に夜の闇の中へと姿を消してしまった。


「もう、一体何なのよ。言いたい事、それだけなの?」


 潮香は息を切らしながら、信彦が自転車で走っていった先をずっと見つめていた。

 片手には、信彦のノートがあった。

 潮香は改めてノートをめくると、その一枚一枚に自分の読んだ小説の感想や解説が書かれており、信彦の早稲田出身の作家への造詣の深さが改めて見て取れた。

 そして最後のページをめくったその時、そこにはほんの数行だけ、それまでと違う内容の文章が記してあった。


「僕は住吉さんが大好きだ。彼女の言葉、笑顔、手の感触、唇の感触……すべてが忘れられない。彼女を幸せにしたい……僕は心からそう思っている」


 信彦のノートを読み終えた潮香の目からは、涙が一つ、また一つと、ノートの上に落ちていった。

 潮香はノートを鞄に仕舞いこむと、「ちょっと、帰るならばちゃんとドアを閉めて帰って下さいね」と、司書の乾いた声が聞こえてきた。潮香は慌てて図書室に戻ると、開きっぱなしだった図書室の引き戸をガラガラと激しい音を立てながら締め切った。すると、すぐ後ろで司書が引き戸のカギをかける音がした。

 もうここには戻れない……あとはいよいよ、出発するだけだ。

 そう、信彦とともに誓い合った夢を叶える場所へ。

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