二章10 卒業写真

 二○一三年 三月

 潮香の通う高校で、卒業式が行われた。

 泣いても笑っても、これがクラス全員が揃う最後の日となる。

 体育館での式の後、教室で担任の五藤先生から一人一人に卒業証書が渡された。

 この日は潮香のクラスのほぼ全員が式に出席し、卒業証書を受け取ったが、信彦だけが式を欠席していた。


「ねえ、先生。卒業したらみんなこの町を離れていくみたいだし、次いつ会えるかわからないんだから、記念撮影しない?」


 卒業証書が全員に渡された後、珠里が大声で呼び掛けた。


「でも、岡部君が来てないでしょ? 彼抜きで記念撮影するのはかわいそうじゃない?」

「ふーん、ひょっとして信彦と同じ写真に写りたいと思ってるの? みんな、信彦のことをあんなに煙たがっていたじゃん?」

「だ、だけど……それとこれとは」

「ほらほら、時間が無いんだから、みんな黒板の前に集合集合!」


 珠里が号令をかけると、生徒たちは一斉に黒板の前に集まった。


「みんな、卒業証書の文面が見えるように胸の前で持って広げてちょうだい。あ、表情は硬くならず、スマイルでお願いしまーす!」


 珠里はカメラを手にみんなに指示していた。


「あれ? 潮香だけ表情が硬いよ? あ、そうか。信彦がいないからさみしいのかなあ?」


 珠里は不気味な笑みを見せながら、潮香の方を見ていた。


「だ、大丈夫だよ。気のせいじゃない?」


 潮香は内心もやもやした気分を抱えながらも、精いっぱいの作り笑顔で写真に収まった。


「はい、撮影完了! またいつかみんなで会おうね!」


 無事に撮影が終わり珠里が大声を上げると、生徒たちは一斉に散らばっていった。

 あちこちで仲間同士での歓談や記念撮影の輪が出来上がってた。

 しかし潮香はどこにも交わらず、真っ先に教室を出ていった。なぜなら今日は早稲田大学の合格発表の日であり、インターネットや電報で合否が通知されることになっていた。


「何だよ住吉さん、せっかくの卒業式なのに、友達と話もせずに帰るのか?」


 帰る途中、たまたま廊下ですれ違った五藤先生が潮香に声をかけた。


「すみません……今日は合格発表の日なので」

「あ、そうか。それじゃ気分が落ち着かないよな。住吉さんは確か、早稲田しか受けてないよな?」

「はい、早稲田だけです。何学部か受けたんですけど、ことごとく落ちちゃって、今日発表のある社会科学部がダメなら、もう一年やり直そうかと……」

「うーん……どうして滑り止めに他の大学を受けなかったんだ? レベルに合った大学を受けるように、三者面談でもちゃんと忠告したはずなんだが……」

「はーい、わかってます。ごめんなさいね、素直に従わなくて」

「まあ、とりあえずは吉報を待ってるよ」


 五藤先生は飄々と答える潮香を見て苦笑いを浮かべると、職員室の方へと歩きだしていった。


「あ、先生。一つだけお願いしていいですか?」


 潮香は五藤先生の背中を見ながら急に思い立ち、慌てて呼び止めた。


「今日、信彦……いや、岡部君ってどうして休んだんですか?」

「ああ、お母さんの調子が急に悪くなって、病院に連れて行ったんだって」

「岡部君には後日学校に来てもらって、卒業証書を渡すんですよね?」

「そうする予定だけど」

「その時、私のことも呼んでもらえますか?」

「……いいけど、岡部君に何か用があるのか?」

「い、いや。本人に私から直接渡したいものがあるので」


 潮香は顔を赤らめつつ頭を下げると、玄関へ駆け出して行った。

 潮香は卒業式帰りの生徒たちでごった返す通学路を自転車で駆け抜け、振り返ることなく一目散に自宅へと向かっていった。

 自宅の玄関には、母親の小枝子が封書を手に、そわそわした様子で立っていた。


「待ってたよ、潮香。さっき郵送で書類が届いたから、あんたの手で開けなさい」

「う、うん……」


 潮香は早稲田の文化構想学部と文学部、教育学部、社会科学部を受験していたが、すでに社会科学部以外は合否が判明し、いずれも不合格であった。今日通知が来たのは、発表が残っていた社会科学部。潮香は大きく深呼吸しながら、ゆっくりと封書を切った。


「え!?」


 次の瞬間、潮香と小枝子の叫び声が家中に響き渡った。



 卒業式から数日後、潮香は卒業した高校の教室に来ていた。

 窓から春の日差しが差し込む静まり返った教室で、かつて自分の座っていた椅子に座って待ち構えていた。

 やがて、スーツ姿の五藤先生が一枚の卒業証書を手に教室にやってきた。


「久しぶりだな、住吉さん。先に来ていたんだな」

「こちらこそ、電話で教えてくれてありがとうございます」


 潮香は頭を下げると、カラフルな花のイラストが入ったトートバックから一通の封書を取り出し、五藤先生に手渡した。


「……すごい! 無事早稲田に合格したのか!」

「はい。社会科学部ですけど、何とかここだけ合格しました」

「よかったなあ。こないだ聞いていた限りじゃ、もう今年は難しいかなと思って、心の準備をしていたんだけどね」

「何ですか、心の準備って」

「いや、冗談だよ。ところでもうすぐ岡部君も到着すると思うが、住吉さんはどうする? 式の間は外に出ていくかい?」

「いや、ここで見ていきます」


 潮香はそういうと、椅子に腰かけたまま式が始まるのを待ち続けていた。

 やがて教室には制服姿の信彦と、黒のスーツに身を包んだ信彦の母親が姿を見せた。


「卒業おめでとう、信彦君」

「え? 住吉……さん?」


 信彦は驚いた様子で、自席でにこやかに手を振る潮香を見ていた。五藤先生は二人の目の前までやってきて頭を下げると、信彦の目を見ながら優しく語りかけた。


「来てくれてありがとう、岡部君。さ、これから式を始めるから、前に出てきてくれるかな?」


 信彦は大きく頷いて教壇の前に足を進めると、五藤先生は卒業証書をゆっくりと読み上げ始めた。

 汚れとほつれが目立つ信彦の制服は見ていて痛々しいけれど、表情にはすがすがしさを感じた。しかしその心中は、潮香の想像する以上に辛いのかもしれない。

 信彦は卒業証書を手にすると、母親のもとへと近づき、目の前で証書を広げていた。


「おめでとう、信彦。ごめんな、色々迷惑かけちまってよ。おらが急に病院に行ぐことがなげれば、みんなと一緒に卒業式に出られたのに……」

「気にするなよ、母さん。これからは無理に仕事せずに自分の病気を一生懸命治してよ。僕が頑張って働いて支えるからさ」


 信彦は母親を軽く抱きしめると、母親は信彦にもたれかかり、声を上げて泣き出してしまった。潮香はその光景を見て、思わず涙ぐんでしまった。


「ところで住吉さん、岡部君に何か渡すものがあるんだろ?」

「あ、そうだ!」


 潮香は涙を拭きながら、トートバックから一冊のノートを取り出した。潮香は大学試験のため東京へと出発する前日、信彦から、自分が読んだ作品の解説などを書き綴っていたノートを渡されていた。


「これ……ありがとう」


 信彦は潮香から手渡されたノートを手にすると、何度か首をひねった。


「良いんですか? 僕は、住吉さんの受験に役立てばと思って差し上げたつもりですが」

「ううん、もう十分に役に立ったから。なぜなら……このノートのお蔭で、私、早稲田に合格したから」

「え? ほ、本当ですか?」


 潮香は笑いながら「本当だよ」と呟くと、一面びっしりと書かれたノートの帳面を一枚ずつめくった。


「読んでるうちに、信彦君が本当に早稲田に行きたかったんだって……その熱い気持ちがすごく伝わってきたんだよね。だから私、どんなに試験が難しくても、信彦君のためにここで絶対に諦めないって思ったんだ」


 潮香は次々とページをめくり、最後の一枚にたどり着くと、口に手を当ててクスっと笑った。


「……特に、最後のページには背中を押してもらった気がする」

「最後?」

「え、何書いたか忘れちゃったの?」

「多分……図書室に行けなくて何も書けなくなっちゃったから、最後に空いていたページに何げなく書いたものだと思います」

「ふーん……」


 潮香は最後のページを開いたまま、ノートを信彦の手のひらに載せた。


「このノートは、やっぱり信彦君が持っているべきだと思う。いつになるかわからないけど、信彦君が早稲田を目指す時、このノートが信彦君の力になるような気がするから」

「いや、でもこれは……」

「私はこのノートにたくさん力をもらった。今度は信彦君の力になってくれると思うよ」


 信彦は潮香の言葉を聞き、手にしていたノートに目を遣った。次の瞬間、信彦は大きな目を見開き、「えっ?」と強く驚いた声を発した。

 最後のページに書かれた信彦の潮香への想いを綴った文章の隣に、潮香が書いた数行の文章が残されていた。


「私も信彦君のこと、大好きだよ。図書室や、学校の帰り道……信彦君と過ごした時間は、きっとこれからも忘れないと思う。これからお互い遠く離れてしまうけど、私とあなたを繋ぐ赤い糸は、ほつれることなく繋がっていると信じてる。私はいつまでも、信彦君のことを待ってるからね。住吉潮香……」


 信彦は潮香の文章を読み上げるうちに、全身が震えだした。ノートを持つ手は、小刻みに揺れ、やがて力が抜けたかのように床の上に座り込んでしまった。


「僕は……何と言ったらいいのか……」


 潮香は、座り込んだ信彦の身体をそっと抱きしめた。


「信彦君の素直な気持ちを言っていいんだよ。どんな言葉でも、私、受け止めるから」


すると信彦は、大きな目を潤ませながらまっすぐ潮香を見つめた。


「……住吉さん、僕、嬉しい。すごく嬉しいです!」


五藤先生と信彦の母親が見守る中、潮香と信彦はお互いの背中に両腕を回し、強く抱きしめ合っていた。しばらくすると、二人は手を取り合いながら立ち上がり、潮香は着ていたコートのポケットから小型のカメラを取り出した。


「ねえ先生、最後に信彦君の記念写真を撮ってもらえませんか? こないだクラスの皆で撮ったけど、信彦君抜きにするなんてありえないと思ってたから」

「アハハハ、あれはちょっと酷かったよな。じゃあ、岡部君、こっちに来てくれるか? それと、岡部君一人じゃ寂しいから、住吉さんも一緒にどうだ?」

「はい!」


潮香は力強く返事すると、信彦の腕に自分の腕を絡ませ、「行こうよ」と言って黒板の前まで引っ張る様に連れて行った。


「岡部君、良かったな。君を支えてくれる人がいて」


信彦は五藤先生の言葉を聞くと、目を潤ませて大きく頷いていた。


「ほら、こうやって卒業証書を胸の前で持って広げるんだよ。それと、硬くならずスマイルでお願いね」

「え? 急にスマイルと言われても……」

「もう、しょうがないなあ。じゃあ、こうしてあげる」


卒業証書を両手で持つ信彦の腕に、潮香はそっと自分の腕を絡めた。


「ね? これで少しは気持ちがほぐれたでしょ?」

「はい」


最後に撮った記念写真……潮香と信彦は、腕を絡め、肩を寄せ合いながら、満面の笑みを見せていた。

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