三章 赤い糸
三章1 帰京
トントントン、トントントン……
目を閉じながら、高校時代の思い出を語り続けていた潮香の背中を、信彦が何度も叩いていた。
潮香が目を開くと、信彦は潮香に覆いかぶさるかのような姿勢で、人差し指と親指を使って唇を何度も左右になぞった。
「え? もう聞きたくないの? まだもうちょっと続くんだけど」
潮香は信彦に高校時代の話を始める前に、もし信彦がもう話を聞きたくないのであれば、潮香の口にチャックを引くかのように左から右へと指を動かすよう伝えていた。
信彦は潮香の話通りに指で唇をなぞったのだろうけど、せっかく話が盛り上がった所で話を打ち切られるのは、正直あまりいい気持がしなかった。
信彦は潮香の口から指を離すと、大きな目でまっすぐ潮香を見つめていた。相変わらず言葉を発せず無表情であり、意思を感じ取ることは難しかったが、話を始める前と違い、その視線には何らかの意思が感じ取れた。
「ど、どうしたの? そんなにまっすぐ見つめてきて……今のお話で、何か気になることがあったの?」
潮香は信彦に伝わるように、自分の顔を指さしながら何度か首を傾げてみた。
すると信彦は、潮香が着ていたレインコートのポケットの辺りを何度も指さした。
「ここ?」
潮香はポケットを触ると、信彦は大きく頷いた。そしてポケットからは、数秒おきに何かがブルブルと振動している音が聞こえてきた。どうやら、潮香のスマートフォンの振動のようだ。
「あ、着信があったんだ……」
潮香は信彦に「ありがとう」と伝えると、ポケットからスマートフォンを取り出し、耳に押し当てた。
「はい、住吉です……あ、部長! すみません、電話に出られなくて」
電話の主はアナウンス部の熊谷部長だった。いきり立ったような電話の口調から、抑えきれないほどの怒りの感情がありありと伝わってきた。
「あ、はい、そうです。中継していたんですけど、途中でちょっと……。え? そうなんですか? それは申し訳ありませんでした」
潮香は電話の向こうから怒声を上げる熊谷の言葉を聞きながら、謝罪の言葉を発しつつも何度も頭を下げていた。
電話が途切れると、潮香は大きなため息をつき、手にしていたヘルメットを被り直した。
「ごめんね信彦君。私ね、仕事で呼び出されて、すぐに東京に帰らなくちゃいけないの。会ったばかりなのに、そしてもっと話したいことがあったのに……」
潮香は信彦に向かって何度も頭を下げながら、「帰らなくちゃ」という言葉を上手く伝えようと部屋の外を指さすと、信彦は首を左右に傾けながら潮香の表情を不思議そうに見つめていた。
潮香は立ち上がると、すぐ目の前に立つ信彦の両肩に手を載せ、力ない笑みを浮かべた。
「バイバイ、また会いに来るね」
潮香は手を振りながらそう言い残すと、信彦は目を細め、心なしか寂しそうな顔でその場に立ち尽くしていた。この場を立ち去るのは心苦しかった。しかし、信彦が当面この場所にいるのが分かったことだし、時間を作ってまた会いにいこうと心に決めた。
今日の話では思い出してもらえなかったけれど、今度こそは思い出してもらえるように……。
潮香はロビーで待機していたカンさんと顔を合わせると、「ごめん、今すぐ帰らなくちゃ」と言って両手を合わせて深々と頭を下げた。
「さては、熊谷部長からお叱りの電話でも来たのかな? さっき局にいる後輩にLINEしたら、今日の中継で視聴者からえらく苦情が殺到してるみたいだな」
「まあね。SNSでも話題になったみたいだし、週刊誌からも取材に来てるんだって」
「そりゃ潮香ちゃんは、うちの局の朝の顔じゃからな。あんな場面が流れたら、一体何事かと注目が集まるのはしゃーない」
「別に朝の顔になりたくてなったわけじゃないのに」
「そんな話、他のアナウンサーが聞いたら怒るわ。さ、これから休憩なしで東京にもどらないとな。あとは清田をここに残していくから、被災地の取材は彼に任せて、帰る支度しようや」
カンさんはそそくさとワゴン車に戻ると、潮香の目の前に車を横付けした。
潮香は清田に近づくと、「あとはお願いします」とだけ告げて、ワゴン車に乗ろうとした。
「お疲れさまです。あとは僕の方で色々情報を集めて逐次局にも情報共有しますし、被災地からの中継は、地元のみちのくテレビさんのアナウンサーに協力してもらうよう手配しましたので、安心してお帰り下さい」
清田は相変わらず仕事の手配が早く、信頼できる存在だ。せっかくの生まれ故郷での仕事ということで、事前の情報収集を一生懸命やってもらっただけに、潮香は申し訳ない気分で胸が張り裂けそうだった。
「あ、大事な情報をもう一つ……今日こちらの避難所に入居した岡部さん、高次脳機能障害だそうです。原因はわかりませんが、現状では失言や記憶障害があり、世話をしている母親も病気のため障がい者手帳を持っており、二人とも収入が無く生活保護を受給しているとのことです」
「そ、そうなんですね……貴重な情報、ありがとうございます」
潮香は清田からの意表をついた情報提供に驚いた。高次脳機能障害……名前だけは聞いたことがあるが、それがどんな症状なのか、原因が何なのか、どうすれば治るのかはまったく知らなかった。
会わなかった十年間、信彦の身に一体何があったのだろうか? それは信彦とあの母親しか知る由がないようだ。母親も母親で対応に苦慮しそうな感じだし、まともな答えを期待できそうには見えなかった。
しかし、この病気のことを正しく理解すれば、ひょっとしたら信彦の心を開かせる「何か」が見つかるかもしれない。潮香はワゴン車に乗ると、早速スマートフォンで色々と検索し始めた。
ワゴン車の中では、相変わらず浜田省吾の曲が流れていた。曲に合わせて鼻歌を唄いながら気持ち良さげに運転するカンさんは、しきりにスマートフォンをいじる潮香の様子を時折覗き込んでいた。
「何やってるん? さっきから一言もしゃべらんで、スマホばっかり見ていて」
「調べものしてたのよ。ねえカンさん、高次脳機能障害って聞いたことある?」
「コウジ? ノウキノウ? 悪い、全然分からん。医療については俺の持病の腰痛とリウマチしか知らん」
「アハハハ……ごめんね、気持ち良く運転してるのに余計なこと聞いちゃって」
「でも、何でいきなりそんなこと俺に聞くん?」
「さっき、施設に連れて行った私の高校の同級生、こういう名前の病気だったんだって。清田さんが言ってたよ」
「だから、言葉がなかなか伝わらんかったし、しゃべれんかったのか」
「でも、私としては、何とかして伝えたいし、通じ合いたい」
「無理なんじゃねえの? そんな小難しそうな病気を持ってるような人じゃ」
「それでも、何か方法はあるんじゃないかと思って」
「だから、必死にスマホをいじってたわけか? 熊谷部長への言い訳を考えていたのかと思ったわ」
「無理だよあの人、一度ミスするといくら弁解しようとしばらくはネチネチ言われるから。嫌だけど、部長が忘れるまで耐えるしか道がないんだよね」
「ひょえぇぇ。テレビでの紳士的なイメージとは程遠いんだな、あの人」
カンさんは途中休むことなく運転を続け、ワゴン車はあっという間に東京都内に入った。休みなく運転してもさすがに常山市からの距離があるので、出発時は昼過ぎだったのに、都内に入った時には日が暮れ、道路沿いの建物にはきらびやかなネオンが輝いていた。
ワンダーTVの本社前玄関に着くと、潮香はようやく現実に引き戻された。明らかにどこかの雑誌記者と思しき連中が、玄関や廊下をうろついていたのだ。そして、受付の警備員に、しきりに「住吉アナに会わせてもらえないか」と尋ねていた。熊谷が電話で言っていたことは、間違いではなかったようだ。
「まずいな、潮香ちゃん。俺のサングラスと帽子を貸すから、ほんの少しだけどこれで変装して行けや」
カンさんは、ナス型の大きめのレンズのサングラスと、黒い帽子を手渡した。
「俺が敬愛するハマショーと同じ形のサングラスやし、帽子はハマショーのツアーグッズだからな。俺の宝物じゃけ、あとでちゃんと返せよ。じゃ、がんばれや」
潮香は大きく頷くと、帽子を深々と被り、サングラスをかけて、アナウンス室へと早足で歩いていった。
「アナウンス室」の看板が目に入ると、潮香はサングラスと帽子を外し、大きく深呼吸しながらドアを開けた。そこには、熊谷と先輩アナの関本紅緒の姿があった。
「遠くに取材に行ったのに、呼び出して悪かったな。まあ、その理由はわかるだろうけどな」
熊谷は椅子に腰かけると、足を椅子の前に投げ出し、腕組みをして真下から潮香を睨みつけた。
「上層部まで口説いて認めてもらった取材なのに、何だ、あのザマは」
熊谷の怒りは尋常では無かった。そして、潮香の目の前に、一面びっしりと名前と記事が書かれた紙を見せた。
「これはうちにメールで寄せられた苦情一覧だ。それと、これがSNSの書き込み一覧だ。このほか、電話でもたくさん苦情が来ていたんだ。わかるよな、君がいない間に、我々がどれだけ苦労していたか」
「はい……」
潮香はすっかりしゅんとなり、うつむきながら何度も頭を下げた。
「君は仮にもうちの局の『朝の顔』なんだ。他のアナよりも注目度が違うんだ。あんな場面を見たら、余計な噂が立つのはわかるだろ?」
「ごめんなさい……どんな処分でも受けるつもりです」
神妙な顔でつぶやく潮香を横目に、熊谷は紅緒に目で合図した。
「しばらくは、私が住吉さんの代打で『オキドキ!』に出演するからね。とりあえず、住吉さんは熱を出し体調不良だったということで局内で口裏を合わせることにしたから」
「え?」
紅緒は呆れ顔をしながら笑うと、熊谷と再び顔を合わせた。
「これは上層部からの指示だ。君にはしばらくは自宅で待機してもらうぞ。病気と言うことにしているんだから、一歩たりとも外に出るんじゃない。そして、君のことは当面局外への取材に出さないことにしたから。わかったね?」
そう言うと熊谷は立ち上がり、鬼のような形相で潮香を真正面から睨んだ。
「わ、わかりました……」
「じゃあ、関本さん、悪いけどしばらくは住吉さんの尻ぬぐいの方、頼んだよ」
「はいはい。まあ、しょうがないですよね」
熊谷が外に出ると、紅緒はため息をつきながら潮香の肩を叩いた。
「ホントならあんたを降板させる予定だったんだけど……あんたの彼氏が色々手を回してくれたみたいよ、あとでお礼言いに行きなさいね」
「は、晴人が?」
紅緒は笑いながら、熊谷の後を追うように部屋の外へと出て行った。
一人取り残された潮香は、自分の椅子に座りこむと、疲れから机の上にへたり込んでしまった。
自分はこれからどうすればいいのか……色々なことがありすぎて、今まで起きたことを整理する余裕も、あれこれと考える力も残っていなかった。
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