三章2 君のことを守りたい

「コロコロコロ、コロコロコロ」


 潮香はポケットの中から響く着信音に気づき、ようやく机から頭を上げた。

 ポケットを探り、スマートフォンを取り出して画面を見ると、LINEメッセージ到着を示す表示と、午前二時を示す時計表示が出ていた。

 アナウンス室は電気が灯り、深夜ニュースを担当する後輩アナの塩村美沙しおむらみさが自席でスマートフォンをいじりながら待機していた。


「あ、ようやく起きたんですね、住吉さん。ずっと起きないから、起こすか起こすまいか悩んでましたよ」

「アハハハ、ごめんね、美沙。気が付いたら寝ちゃってたみたい」

「昨日は大変でしたよね。きっとお疲れなのかな、と思いました」

「……まあ、あれこれと色んな事が矢継ぎ早に起きたからね」

「熊谷部長が、しばらくは住吉さんのことを休ませるって言ってましたから、ゆっくり休んでください」

「でも、皆にすごく迷惑かけちゃってさ。美沙も大変だったでしょ?」

「はい、雑誌記者とか他局のカメラが来ていて、住吉さんの話を聞きたいって追いかけられて……」

「ごめんね。今度落ち着いたら、アナウンサー室のみんなに美味しい物ごちそうするからね」

「アハハハ、良いですよそんな」


 美沙は笑いながら片手を振っていた。


「それより、着信があったんじゃないですか? 住吉さんのスマホからずーっと着信音が鳴っていましたよ」

「え? ホント?」


 潮香は慌ててLINEメッセージを確かめた。潮香が寝ている間、二通のメッセージが来ており、一つは実家の母・小枝子から、そしてもう一つは晴人からのものだった。


「なになに……『今朝の中継見たけど、急にしゃべられなくなって、どうしちゃったの? ちゃんと食べて寝てるの? 今日せっかくこっちに帰って来たなら、実家に寄って休んで行ったら?』 余計なお世話だっつーの」


 小枝子のメッセージは昨日の井水川からの中継で、突如言葉を失った潮香を心配するものだった。娘を心配する気持ちは有難いが、昔から行き過ぎる位の心配症なのが小枝子の悪い癖であることを知っていた潮香は、小枝子のメッセージを足早に読み飛ばすと、次の晴人からのメッセージを開封した。


「今晩は。帰り道、心配して君の家の近くまで行ってみたけど、まだ自宅には帰ってないようだね。もし帰る途中なら、下手に自宅に近づかない方がいいよ。マスコミ他社の男達が君の家の周りをうろついてたから。僕が迎えに行く。今いる場所を教えてくれるかな?」


 晴人は潮香を心配し、自宅まで来ていたようだ。こちらも余計なお世話と言う感じがしたが、自宅の周囲でマスコミに見張られているのは不気味だし、ゆっくり休むこともできないと思い、今夜は晴人に匿ってもらおうとメッセージを送った。


「ご心配ありがとうございます。まだ局内に居ますが、これから帰ろうと思います。玄関前に来てもらえますか?」


 すると、数秒も経たぬうちに晴人から返信が来た。


「分かりました。今すぐ行くから待っててね。くれぐれもマスコミの連中には気をつけるように」


 晴人のメッセージは、いつもながら端的かつ短いものだった。しかし、メッセージに書かれた内容は、きっちりと実行する。それが晴人の頼もしさであり、潮香が唯一心惹かれている部分でもある。


「帰るんですか?」

「うん。悪いけど、お先にね。しばらく美沙には迷惑かけちゃうけど……早めに復帰するからね」

「気にしないでください。というか、誰か迎えに来るんですか? ひょっとして、ですか?」

「うん、美沙も知ってるだろうけど……あ、これはみんなには内緒にしてね」

「すごーい、さすがは『朝の顔』だけありますね。私には届かない世界ですね」


 美沙は目を輝かせながら、潮香に手を振っていた。

 潮香はアナウンス室を出ると、カンさんに借りた帽子とサングラスを身に付け、玄関へと急いだ。

 ロビーに出ると、記者らしき男とカメラマンが玄関周辺でうろついているのが目に入った。変装しているといえ、このまま玄関に出たら気づかれてしまう予感がした。

 その時、潮香のポケットに入っていたスマートフォンから再び着信音が鳴った。潮香は咄嗟にスマートフォンを取り出し、到着したメッセージに目を通した。


「玄関から出るのはヤバい。裏口から出ろ。警備員や要人が使ってる出入り口だ。そこに車を横付けしてるから」


 晴人はマスコミが来ていることをいち早く察知し、裏口に回っていたのだ。彼の判断は本当に素早い上に的確で、抜け目のない所である。

 潮香は警備員に声を掛けて裏口を開けてもらうと、そこには銀色のスポーツカーが止まっていた。晴人の愛車であるGT-Rである。


「さ、早く!」


 晴人は大声で潮香を助手席に招き入れた。潮香は慌てて乗り込むと、ハンドルを握る晴人に向かって息を切らしながら「ありがとう」と言った。


「なんだその恰好は。それで彼らの目をごまかしてるつもりか?」

「いや、一応ここまではごまかせたけれど……」


 晴人に指摘され、潮香は慌ててサングラスと帽子を外したが、潮香の変装のために自分の大事な宝物を貸してくれたカンさんのことを想うと、複雑な気分になった。


「彼らを甘く見ない方がいいぞ。君の家の周りにも何人かうろついていたから、しばらく近づかない方がいい。僕の家で匿うことにするけど、いいか?」

「うん」


 エンジン音を立てながら、信彦のGT-Rは徐々に速度を上げ、都心の道路を一気に走り抜けていった。


「大丈夫か?……せっかくの地元での中継なのに、どこか正気じゃないように感じたけど」

「色々と思い出しちゃって、昔のことを」

「そうか……確かに、生まれ育った故郷を滅茶苦茶に壊されたら、この僕でもまともでいられるか自信はないな」

「それもそうだけど……」

「色々あって、大変だっただろ? 局内ではアナウンスの部長が君を降板させるだの、左遷させるだの言って騒いでいたけど、僕は君のために出来ることをできるだけやったつもりだ。しばらくは僕の家でゆっくり休むがいいよ」


 晴人は淡々とそう話すと、速度を上げて東京湾岸の高層マンション群がひしめく辺りへ車を走らせた。やがて天高く聳え立つマンションにたどり着くと、晴人は着ていたコートを脱いで潮香の頭と全身を覆い隠した。


「こっちだよ」


 晴人はマンションの玄関前に立ち、設置された機器に顔を近づけると、カチャリと鍵を解除する音がしてドアが開いた。


「すごい……顔を見せるだけで鍵が開くの?」

「そう、あらかじめ顔登録しているここの住人以外では、鍵を開けることはできないよ」


 驚く潮香は晴人とともにエレベーターに乗り、ドアが開くと、眼下には東京湾が、そして正面にはレインボーブリッジと汐留周辺の高層ビル群が目に入った。

 晴人は自室のドアを開けると、潮香を中に案内した。


「へえ、こんな凄い所に住んでるんだ……」

「まあ、いつかはこういう所に住んでみたいと思っていたんだよね。高かったけど、思い切って購入したんだ」

「でも、晴人さんの地位ならば余裕で買えるでしょ?」

「そうでもないよ。一応はローン組んでるよ」


 そう言うと、晴人は潮香の背後から腕を伸ばし、腰のあたりに巻き付けた。


「気が済むまで、ゆっくり休んで行けよ。大丈夫、何があっても君は僕が守る」


 潮香は驚き、背後を振り返った。そこには、潮香の背中に顔を押し付ける晴人の姿があった。


「やめて下さい。とりあえず、今夜は疲れたので寝かせてもらえますか?」


 すると晴人は苦笑いし、「しょうがないな」と言いながら顔を上げた。


「ベッドは使っていいよ。僕はソファーで寝るから」


 晴人はそう言うとクローゼットを開け、スウェットの上下を取り出すと潮香の手の上に置いた。

 まるで潮香の心の中を全て見通しているかのような晴人の細やかな心遣いは嬉しいが、そこには下心を感じずにはいられなかった。


 翌日、カーテンの隙間から差し込むまばゆい陽光に照らされ、潮香はベッドの上で目が覚めた。潮香の隣には、晴人が眠っていた。

 晴人はソファーの上で寝ると言いながら、ベッドに入り込み、何度も誘ってきた。

 そのたびに潮香は拒んでいたが、最後には彼のしつこいほどの誘いに折れてしまった。


「起きたのか? よく眠れたかい?」


 潮香が起きたことに気づき、晴人も大きなあくびをしながら起き上がった。


「だって、疲れてるのにあんなことしたら、ぐっすり眠れるに決まってるじゃないですか」

「久しぶりにしたかったんだ。ずっとお互い仕事だのなんだので会えなかっただろ?」

「私が疲れてたの分かってたくせに。そういう所は自分勝手ですよね」

「良いだろ? お互い気持ち良かったんだから。それより、一つ気になったことがあるんだけど……」

「何ですか?」


 潮香は床に脱ぎ捨てていたスウェットを着込んでいると、晴人はどこか腑に落ちない様子で自分を見つめていることに気づいた。


「君と初めてひとつになった時も、あれ? と思ったんだけど、君は僕が初めての男じゃないんだね?」

「……そうです。良く気づきましたね?」

「まあ、君は十分大人だから、僕に出会う前に色んな男と出会ってきたんだろう。以前付き合っていた男って、どんな奴だったの?」

「うーん……あまり正確には覚えていないですけどね」


 潮香はそれ以上の言及は避けた。昔のこととはいえ大事な思い出であり、いくら晴人が信頼できる男でも、余計な詮索はされたくはなかった。


「というか、晴人さんだって、私に会う前に誰かと付き合っていたでしょ?」

「まあ、大学時代に何人かとね」

「ほら、やっぱり。だって、すごくモテそうですもん。私なんかで本当に満足してるんですか?」

「してるよ」


 晴人は生まれたままの姿で起き上がると、潮香を背後から抱きしめた。


「潮香は可愛い。特に笑顔がたまらなく可愛い。だからこそ、この僕がしっかり守ってあげなくちゃと思っているんだ。どんな手を使ってでもね」


 潮香の腰に局部を押し付け、肩の辺りに顔をうずめながら、晴人は早口でまくし立てるように呟いた。


「嬉しいけど……ちょっとは休ませてください」


 潮香は晴人の体を両手で払いのけると、窓から都心の景色を眺めながらため息をついた。信彦は今頃、どうしているのだろうか? 避難所で落ち着いて暮らせているのだろうか……潮香は快適な高層マンションに居るにもかかわらず、自宅が被災し、避難所の狭い一室で母親と過ごす信彦のことが無性に気になって仕方がなかった。

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