三章3 傷だらけの欲望

「どうしたんだ。外なんか見て」


窓の外をずっと眺めていた潮香に対し、晴人はソファーに腰掛け、声を掛けた。


「ううん、ここから見えるレインボーブリッジが綺麗だなと思って」

「まあな、僕もこの景色が気に入って、ここを買ったからね。それよりもこっちに来てよ。君と一緒にビデオを見たいんだ」


晴人はビデオ鑑賞ではなく、潮香と身体を交えることが目的であるのは想像がついていたが、晴人の機嫌を損ねるとマスコミ他社の取材から身を守ってもらえなくなると思った潮香は、抵抗したい気持ちを抑えて晴人の隣に座った。

平日の午後だと言うのに、晴人は一向に仕事に行こうとせず、隣に座る潮香に寄りかかりながらずっとビデオを見ていた。時折潮香の肩に寄りかかったり、髪の毛を触ったり、頬に口付けしたりと、スキンシップを通して愛情を示そうとしていた。


「局に行かなくて良いんですか? 番組の収録や打合せとか、あるんじゃないですか?」

「ああ、ディレクターにみんな任せてるよ。何かトラブルが起きたら連絡をよこすように伝えてある。会議があれば、リモートで対応するからわざわざ局に行く必要なんざないよ」

「私はここでおとなしくしていますから、仕事に行ってきてください」

「何釣れないことを言ってるんだ。久しぶりに二人きりになれたんだ。今の僕は仕事より、君と一緒にいる時間の方が大事なんだ」


晴人は潮香にもたれかかると、両腕を腰のあたりに回し、強く抱きしめた。


「やめてください。昨日相手したばかりじゃないですか? 色々あって心も身体も疲れているんですから、もう少し休ませてください」

「少しならいいだろ? 君は無理をせず、ひたすら僕に身を任せていればいい。気持ち良くしてあげるから」


潮香は全身をよじって晴人の腕をどかそうとすると、晴人はますます腕に力を込めてきた。


「やめて!」


潮香が部屋中に響く程の大声で叫んだその時、晴人の腕はするりと潮香の身体をすりぬけ、テーブルに置かれたスマートフォンに向かっていた。


「どうしたんだ? こんな時間に……え? お客さん? 僕と直接会って話がしたいって、どこの誰なの?」


どうやら局から晴人宛ての電話が入ったようだ。


「ああ、その人か。分かったよ。その件は僕が直にお願いしていたから、僕が行くしかない。もう少し待っててもらえるかな」


晴人は立ち上がると、クローゼットから白のワイシャツとライトグレーのスーツを取り出し、いそいそと着込み始めた。


「仕事ですか?」

「まあな。韓国のゴルフウェアメーカーの社長が僕に会いに来たというから、打合せも兼ねて行ってくるよ。この春の改編で、芸能人がグループに分かれてゴルフ対決をする番組を始める予定でね。その時に来てもらうウェアをお願いしていたんだ」


晴人は鞄からタブレットを取り出すと、指で画面をなぞりながら番組企画書の資料を見せてくれた。


「今回出演してもらうのは二十代の現役アイドルが中心だ。センスもスタイルも良い彼女たちに着てもらえるような可愛いデザインのウェアをお願いしたんだよ。あ、そうそう。上役から、うちの局からも誰か出して欲しいと言われてね、プロデューサーの僕としては、ぜひとも君に出演してもらいたいって思ってるんだ」

「私?」


潮香は怪訝そうな顔で、自分を指さした。


「君ならば番組に出演しても絵になると思うし、何より君にも可愛いウェアを着てほしいんだ。番組が始まる前にちゃんとコーチをつけて練習するから、ゴルフをやったことがなくても全然大丈夫だからね」

「でも……私じゃなくても、可愛いウェアが似合うような若いアナウンサーは沢山いますって」


しかし晴人は潮香の話に耳を貸すこともなく、鞄を片手に玄関に向かってさっさと歩きだした。


「じゃ、行ってくるからね。そこの戸棚にお菓子が入ってる。あと、冷蔵庫のビールもジュースも飲んでいいから。どこにも行くんじゃないぞ。対外的には、君は病気のため当面は自宅療養中ということにしてあるんだから」


晴人はそう言い残すと、ドアを閉め、施錠した。


「本当に勝手なんだから……会ったばかりの頃は、私の話に耳を傾けてくれたのに」


潮香はため息をつくと、スマートフォンを取り出した。

うつろな目で画面を見ると、寝ている間に電話の着信があったことを示すメッセージが出現した。一体誰から来たのかと思い履歴を見ると、「伊藤寛太」という名前が表記されていた。


「え……カンさんから?」


潮香は慌ててカンさんに電話で連絡を取った。


「もしもし、どうしたの?」

「ああ、潮香ちゃんか? 急にどうしたの? 病気療養中って。昨日の取材で体調崩したのかと思って、心配して電話したんじゃけど」

「まあ……一応、公には『病気で療養中』ってことにしているのよ」

「ひょっとして、例の件を隠すための口裏合わせってやつか?」

「そう、晴人が裏で根回ししてくれたんだ。今は晴人の部屋に匿ってもらってるの」

「うわっ、彼は相変わらずそう言う所は素早いわな。良い彼氏を持って、潮香ちゃんは幸せじゃの」

「ちょっと、幸せだなんて勝手に決めつけないでよ」

「どうして? うちの局の幹部候補じゃぞ、彼は。潮香ちゃんと付き合ってるって話も、局内ではみーんな知ってる話じゃぞ」

「やめてよ……そんなこと言われても、心が苦しくなるだけだから」

「はあ? 潮香ちゃんは彼のこと好きじゃないんか? 彼と付き合っていれば、きっと将来は何の苦労もないぞ」


カンさんは潮香の反応がおかしいと言わんばかりに、捲し立てるかのように話していた。自分の気持ちを聞かず一方的に言葉をぶつけられた潮香は、思わず耳を塞ぎたくなった。


「ねえカンさん、今日は暇なの?」

「今日? 残念だがこれから取材に同行して奥多摩に行ってくるから、帰りは夜遅くになるかな」

「そんな……ねえ、仕事は誰かに任せて、こっちに来てくれるかな。私のこと、ここから連れ出してほしいのよ」

「はあ? 俺、晴人さんの住んでる場所なんか知らんぞ。それに、潮香ちゃんは病気療養中ってことでみんな口裏合わせてるんじゃろ? だったら俺が君を連れ歩いていたらおかしいじゃないか。それに、昨日の一件で、今日も雑誌社や他局の連中が局の周りをウロウロして、君のことを聞きこみしていたぞ」

「だよね……ひょっとしたらマスコミに捕まって取材されるかもしれないよね。そしたら今度こそ熊谷部長に首を切られそうだよね」

「よう分かっとるな。晴人さんの部屋にいるのは嫌かもしれんけど、今は晴人さんの元に居た方が安全かもよ、色んな意味で」


カンさんの言うことに反論はできなかった。今すぐにでもここから出たかったけど、出たら間違いなくマスコミ他社の餌食になる。潮香は涙を呑んで、カンさんの言葉を受け入れた。


「でもさ……私、長期間ここで過ごすのは耐えられないよ……」


潮香は辛い気持ちを絞り出すかのようにそう言うと、カンさんは電話口から唸るような声で「しょうがないなあ」と言った。


「まあ、本当に耐えきれなくなったら連絡くれや。ごめん、すぐ出発しなくちゃいけんので、これで切るからね」


そう言うとカンさんは潮香からの返事を待つことなく、電話を切った。


「もう、いざという時に頼りにならないんだから、カンさんは……」


潮香は大きなため息をつくと、膝の中に顔を突っ伏した。


やがて外の景色は次第に夕闇に包まれ、レインボーブリッジの向こう側にそびえ立つビル群が徐々にきらびやかな光を放ち始めた。潮香は東京に来て十年経つが、こんなにも美しい都心の夜景を見るのは初めてだった。

その時、玄関のドアが開き、晴人が大きな紙袋を二つ持って中に入ってきた。


「悪いな、長い時間ひとりぼっちにさせちゃって」

「気にしないで。私に構わず、もっとゆっくり仕事してきてもいいのに」

「いや、今日は君にどうしてもお願いしたいことがあるから、速攻で帰ってきたんだ」


晴人はそう言うと、一つの紙袋から大きな箱を取り出した。


「韓国のデザイナーから頂いたお土産だ。美味しそうなお菓子がいっぱい入っているから、遠慮なく食べていいぞ。あと、これもね」

「これも?」


晴人はもう一つの紙袋を開けると、カラフルなゴルフウェアを取り出し、潮香の手の上に置いた。


「早速ですまないが、このウェアを試着してもらえないか? 君がウェアを着ている写真をデザイナーが見たいって言ってるんだよね」

「え、今ですか?」

「そう、今だよ。悪いけど頼むよ」


晴人は両手を合わせて頼み込んだ。潮香は「わかりましたよ……」と小声で言うと、着替えるために、手渡されたウェアを持ってバスルームに入った。そしてウェアを一枚ずつ広げた瞬間、思わず顔が硬直した。

ピンク色のサンバイザーにパステルカラーで彩られたパイル地の細身の上着、ミニのプリーツスカート、白のニーハイソックス……もう少し若い時ならば着てみたいと思ったかもしれないが、もうすぐ三十代になろうとしている潮香には刺激が強いものばかりだった。


「着替えたのかい?」


いつまでも着替えずバスルームから出てこない潮香にしびれを切らしたのか、晴人が

声を上げた。


「ごめんなさい……これ、絶対私には似合いませんよ」

「とにかく着てみてよ! 数あるデザインの中から、僕とデザイナーが何度も相談し合って選んだやつだから、絶対に似合うはずだよ!」


晴人は刺々しい口調でバスルームの外から叫び散らした。潮香は胸が張り裂けそうな思いをこらえながら全て着替え終わると、そっとバスルームから顔を出した。潮香の年齢には不釣り合いな可愛いデザインのサンバイザーと、体の線が分かるほどぴったりと付着した細身の上着、そして太ももが半分近く露出する超ミニ丈のスカート……いくらニーハイソックスを履いていても、これだけ脚を大胆に露出させるのは気恥ずかしかった。

潮香は顔を赤らめながら、スマートフォンを構える晴人の前に立った。


「可愛いよ、潮香。さすがはうちの局の『朝の顔』、そして僕が一目ぼれした女だけのことはある」


撮影が終えると晴人は即効でメールを打ち、撮りたての写真を送信していた。そして数分も経たないうちに、晴人のスマートフォンから着信音が鳴った。


「良かったな潮香。デザイナー、喜んでるぞ。すごく似合ってるって……」


晴人は潮香の肩に手をかけた。そして、肩から腰、そして露わになった太ももに掛けてゆっくりと手で撫でまわした。

カンさんに助けを求めたかったけど、潮香は気味の悪さと恐怖のあまり全身が硬直し、スマートフォンを握ろうとすると、するりと手からこぼれ落ちてしまった。

晴人は着ていた服を脱ぎ捨てながら、潮香の耳たぶや首元を愛撫し、耳元で何かをささやいていた。それは決して気持ち良いものではなく、今まで味わったことのない、全身が凍り付くような感触であった。

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