終章12 星の指輪

 潮香の呼び掛けた言葉に、黒いダウンジャンパーを着た男性は振り向いた。

 大きく丸々とした目、太陽の光を反射し輝く瞳……こざっぱりとした真ん中分けの髪型だけは以前と違っていたが、そこに立っていたのは紛れもなく信彦だった。


「住吉さん、お久しぶりです」


 信彦は、はきはきとした言葉で答えていた。片言や唸り声しか上げられなかったあの頃と、全くの別人だった。


「ごめんなさい、急に呼び出しして。仕事がなかなか休めなくて、今日やっと休みを取れたものですから」

「ううん。私のことは気にしないで。それより、ここまで大変だったよね。カンさんから色々聞いていたけど、心配していたよ」

「僕の方こそ、心配かけて申し訳ありませんでした」


 信彦は深々と頭を下げた。


「謝らなくていいのよ。仕事中の事故が原因だったんでしょ?」

「はい……家計を支えなくちゃいけないし、早稲田にも行きたい。だからどうしてもまとまったお金が必要でして」


 信彦は髪の毛を手でいじりながら、ちょっと極まりの悪そうな様子を見せていた。


「ああ……僕にもっとお金があれば、あんなに必死に仕事なんかしなくても済んだし、事故を起こすこともなかったのに!」


 信彦は、全身から絞り出すように声を出すと、握った拳を震わせていた。


「もういいんだよ」


 潮香は信彦の背中にそう言い放った。


「信彦君が早稲田出身の文学者の話をたくさん聞かせてくれたこと、一緒に早稲田を目指そうと約束してくれたこと。その全てがあったからこそ、私は早稲田に受かったんだよ。私と信彦君の二人で勝ち取った合格なんだよ」

「住吉さん……」

「あ、それから、アナウンサーとしてがんばれなくてごめん。いつもテレビで私の顔を見るのを楽しみにしていたのにね」

「良いんですよ。僕は住吉さんの姿をテレビで見るうちに、少しずつ昔の記憶を取り戻してきた気がします。そして……」


 信彦は、ダウンジャケットのポケットから一冊のノートを取り出した。


「このノート……住吉さんが僕のために探し出してくれたって聞きました」

「うん。まあ、正確には晴人さんが……」


 信彦はノートをめくり、一枚一枚に目を通すと、最後のページを開き、潮香に差し出した。そこには、信彦から潮香へ、そして潮香から信彦への寄せ書きが書いてあった。


「このページを見て、僕、やっと思い出したんです。自分がずっと持ち続けていた夢を」

「夢? それって、早稲田に合格すること?」

「いや、それもそうなんですが……」


 信彦はそこまで話すと急に言葉を止め、慌てた様子でノートを再びポケットに仕舞い込んだ。


「あ……そうそう、ちょっとだけお付き合いしてもらっても良いですか。住吉さんと一緒に行きたい所があって」

「どこに行くの?」

「市立図書館です。駅前の複合ビルにあるんですけど」

「え?」

「僕、最近ようやくまともに本も読めるようになってきて。最近は市立図書館に行って本を読む時間が本当に楽しいんです。だから僕、久しぶりに住吉さんと一緒に本を読みたいなって思って。ここから少し歩くけど、いいですか?」


 潮香は信彦の言葉に仰天した。潮香にとってずっと心残りだった、クリスマスイブの図書館デートが、時を越えて実現するなんて。


「うん、行こうよ。歩くのは平気だよ、東京に住んでいると、長い距離を歩くなんて普通だし」


 潮香は、自転車を引きながら歩く信彦と肩を並べて歩きだした。

 堤防の下には、水を湛えた井水川が悠々と流れていた。大雨で浸水した家はことごとく撤去されて更地になり、堤防は護岸工事が施されて昔と風景が若干変わってしまったけれど、ゆったりとした川の流れと、山々から川面を渡って吹き抜ける風は今も変わらず心地よかった。

 道すがら、二人は色々なことを話し合った。

 長きにわたるリハビリの後、信彦は缶詰工場に再就職し、何とか安定した収入を得ていること、去年母親を亡くして今は市街地で一人暮らししていること、そして、ここまで実の親のように自分を見守り続けてくれたカンさんには、心から感謝しているとのこと。

 やがて二人は市街地に入り、視界にはひときわ目立つ駅前の複合ビルが見えてきた。

 ビルの前には、大きなクリスマスツリーが立ち、沢山の家族連れやカップルがツリーを取り囲んで談笑していた。


「すごく大きなクリスマスツリーですね」

「そうだね。ねえ、後でまたここに来ようよ。電飾もいっぱいついてるから、点灯したらきっとすごく綺麗かもよ」


 二人はツリーを遠目で見つめながら館内に入り、受験を控えた学生達がひしめく図書館へと向かっていった。

 市立図書館は高校の図書室と比べると蔵書の数は倍近くあり、文庫本のコーナーだけで一つの本棚を使い切るほどの数を取り揃えていた。

 信彦は一つ一つを手にとっては、潮香に見せてくれた。


「これが最近好きなんです。重松清の作品なんですけど」


 信彦は「きよしこ」という題名の文庫本を潮香の目の前に差し出した。


「主人公は小さい時から吃音に悩まされて、言いたいことを上手く言えず辛い思いをしているんです。僕も少し前まで脳機能障害で同じような思いをしていましたから、すごく分かるんですよね。この本を読んだら、たとえ上手く言葉を交わせなくても、心と心を通じあっていけばいいんだって思えるようになりました」


 信彦は笑いながら、「きよしこ」を潮香の手に置いた。


「重松清も、確か早稲田……だったよね」

「そうですね。この本を読んだら、また早稲田に行きたくなっちゃいました。アハハハ」

「私、自分の気持ちがどうやったら信彦君に伝わるのかなって、会うたびにすごく悩んでた。言葉だけじゃ上手く伝わらないから、身振り手振り入れたりして、必死に伝えようとしていたけど、あれで伝わっていたのか、いまいち自信が無くてね」

「いや、伝わりましたよ。ああ、この人はこう言いたいんだなって」


 そう言うと、信彦は次々と文庫本を棚から見つけ出しては、潮香に内容を解説してくれた。顔を紅潮させながら、時にはちょっと興奮しながら、作品の面白さや見どころを目一杯教えてくれた。

 その顔を見て、潮香は驚いた。

 そこにいたのは、情熱的に本の内容を語り、解説や感想を一心不乱にノートに書きまくっていた高校時代の信彦そのものだった。あれからもう十数年が経っているはずなのに……。

 信彦はひたすら解説を続けていたが、しばらくすると少し疲れが見えてきた。潮香は笑いながら声を掛けた。


「ねえ信彦君」

「な、何でしょうか?」

「私達、戻っちゃったね。高校三年生の頃に」

「そうですか? だって今は令和八年……」

「もう、分かってないなあ」

「はあ? ど、どういうことですか? 僕にはさっぱり……」

「もう、鈍感なんだから。ま、いいや。そろそろ日が暮れてきたから、表に出ない? イルミネーションを見に行こうよ」

「そうですね……もうそんな時間なんですね」


 二人は図書館を出て、沢山の人達で賑わうクリスマスツリーの元へ近づいた。

 今日はクリスマスイブとあって、ツリーの周囲にはカップルの姿が多く見られた。西の空に太陽が沈みかけた頃、ツリーには、色とりどりの電球が一斉に点灯した。


「すごーい! ねえ、見てごらん。綺麗だよ」

「そうですね……綺麗ですね」

「私、とうとう長年の夢が叶ったかも」

「え?」

「信彦君と一緒に、このツリーを見ること。そしてクリスマスを一緒に過ごすこと」


 満面の笑顔ではしゃぎながらツリーを見ている潮香の横で、信彦は無言で立ち尽くしていた。その表情は、どこかもどかしそうに見えた。


「どうしたの? さっきからずーっと無言だけど……」

「実は……僕にもどうしても叶えたかった長年の夢があるんです」


 信彦はそこまで言うと、再び無口になった。

 気になった潮香は信彦の横顔を見ると、信彦は何度もつばを飲み込み、緊張しているように見えた。


「信彦君、モジモジしてなかなか言い出せないところ、昔と変わらないよね」

「だ、だって、自分からはちょっと言い出しにくくて……」


すると潮香は戸惑う信彦の目の前で、両腕を大きく広げた。


「私……全部受け止めるから! 隠さないで、ためらわないで、ぜーんぶ私にぶつけて!」


 潮香の言葉を聞いた信彦は、何度も深呼吸を繰り返すと、大きく頷き、胸に手を当てながら口を開いた。


「僕……今でも住吉さんのことが大好きです。もし住吉さんが許してくれるならば、これからずっと一緒に生きていきたいんです」


 信彦は、吐き出すかのように自分の気持ちを打ち明けた。潮香は信彦から目を逸らさず、話を聞き続けていた。


「お互いに離れている間、実は僕、すごく寂しかったんです。夜な夜なこのノートを見て、いつか住吉さんと絶対に一緒になるって思い続けていました。そのためにも、絶対に早稲田に行こうって思って、仕事の傍ら少しずつ勉強していました。でも、叶わないまま僕は事故に遭い、やっと住吉さんに再会した時は言葉すらまともに言える状態ではなかった……。あれ以来、僕は伊藤さんの協力をもらって必死にリハビリしてきました。いつかちゃんと、自分の言葉でこの気持ちを住吉さんに伝えたいって思って……」


 潮香は目に溢れてくるものを必死にこらえながら、信彦の言葉を聞き続けていた。


「やっとこうして自分の気持ちを口にすることができて良かったです。ありがとう、住吉さん。さ、そろそろ暗くなってきましたし、帰りましょうか……」


 信彦は申し訳なさそうに頭を下げ、潮香に背を向けたその時、真後ろから潮香の手が伸び、そのまま信彦の手を強くつかんだ。


「私も信彦君と一緒に生きていきたい。だって、私も信彦君のことが大好きだから。私の人生、ここまで色々あったけれど、この気持ちは今までずっと変わらなかった。そして、これからも絶対に変わらないから」

「……」


 潮香は信彦の手を自分に引き寄せると、そのまま腕を絡め、信彦の肩に寄り添った。信彦は、寄り添う潮香の体を包み込むように抱きしめた。

気温が氷点下になる常山市の冬の夜、潮香を抱く信彦の体はとても温かかった。身も心も信彦に包み込まれ、潮香の目からは涙がとめどなく流れ落ちた。


「今夜はすごく星空が綺麗ですね」

「え?」


 信彦の声を聞いて潮香は顔を上げると、二人の頭上には夜空が広がり、沢山の星が瞬いていた。都会の空では見られない美しい星空を見て潮香は歓声を上げ、空に向かって左の手をかざした。


「何しているんですか?」

「あの星を、指輪の代わりにしようと思って」

「じゃあ、僕も」


 信彦も左の手を伸ばすと、潮香の手の隣で手のひらを広げた。

 夜空に浮かぶ無数の星は、お互いの指の周りを包み込むかのように瞬き、輝いていた。

 まるで二人の恋の成就を祝福し、これからの幸せを祈るかのように。


(本編はここで終了となります。後日、エピローグを掲載する予定です)

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