終章11 あれから二人
二〇二六年 十二月
潮香は、かつてアナウンス部で後輩だった美沙の結婚式に出席していた。
美沙は出演したゴルフ番組で一緒に仕事をしていた、番組プロデューサーの晴人と結婚した。
美沙は晴人が身体の関係をしつこく求めてくることに嫌気をさし、潮香に何度も相談をしていた。その後美沙は意を決し、「私は晴人と真剣にお付き合いをしたい。この気持ちを受け取めもせずに身体ばかり求めるならば、今までの行為をぜんぶ上層部にぶちまける」と言って、晴人に最後通牒を突きつけた。その結果晴人は降参し、以降は真剣に交際するようになったそうだ。
潮香ももし美沙のように開き直って晴人と向き合えば、今頃は結ばれていたかもしれないが、正直そこまでして付き合いたいとは思わなかった。
披露宴会場で、潮香はビール瓶を手にして新郎新婦の席へと向かった。
「おめでとう、美沙ちゃん」
「ありがとうございます。こうして結婚できたのは、住吉さんのアドバイスが私の背中を押してくれたおかげです」
「私のアドバイス? ああ、『頂いたからには、完食しなさい』ってやつ?」
「そうです。あの後、どうやったら晴人さんを完食できるんだろうって何度も考え抜いて、一か八かの思いで言った言葉が、決め手になったんです」
「そうなんだ。こんな私の言葉がお役に立てて何よりだわ」
「いえいえ。そんなことより、住吉さんも早く幸せになってくださいね」
美沙はそう言うと、満面の笑みで潮香に目配せした。潮香は苦笑いすると、今度は隣に座る晴人に声を掛けた。
「お久しぶりです。このたびはおめでとうございます」
「ああ、潮香か。ありがとう。この僕が君じゃなく、美沙と結婚することになり、君には申し訳ないとしか……」
「いいんです。この場でそんなこと言わないでください。そして、美沙ちゃんを幸せにしてあげてくださいね」
「本当にごめんな……君もいつか信彦さんと結ばれて、幸せになってほしい」
「そうですね」
潮香は頭を下げると、二人に背を向けて自席へと戻っていった。
「どうしたの? 住吉さん。なんだかしんみりしちゃって。ずっと付き合っていた晴人さんを後輩に取られて、落ち込んでるの?」
隣に座っている紅緒が、横目で睨みながら笑って潮香の背中を何度も叩いていた。
「いえ、もうとっくに未練はないです。これで良かったんじゃないですか? 美沙ちゃんとお似合いですよ、晴人さん」
「そう? 何だか負け惜しみに聞こえるなあ、アハハハ」
「そういう関本さんだって、ずーっと未婚じゃないですか? 結婚したいと思わないんですか?」
「私は付き合ってる人はいるわよ。でも、色々面倒くさいから結婚しないだけでね。あくまでパートナーとしての関係の方がお互い疲れないもんね」
「パートナー……ですか」
潮香はそう言うと、手にしたグラスのワインを一気に飲み干した。
美沙はアナウンサー仲間と記念撮影したり、時には晴人と向き合い、仲睦まじそうな様子を見せていた。二人の指には、揃いの形の指輪が光っていた。
潮香の脳裏には、晴人との日々が走馬灯のように甦ってきた。自分を性欲処理の相手のように扱っていた晴人とは、真剣に交際したいと一度たりとも思えなかった。しかし、潮香がマスコミ他社から身を隠していた時、そして思い出のノートを探しに行く時、潮香の身を守り、一緒に行動してくれたのは他ならぬ晴人だった。綺麗好きなのに泥にまみれ、災害ゴミの中から必死にノートを探してくれた時の姿は、今も忘れることが出来なかった。晴人の真心をないがしろにしてしまったことについては、申し訳ない気持ちで一杯だった。
式が終わり、潮香はノースリーブのワンピースの上にトレンチコートにマフラーを羽織り、寒さに凍えながら帰っていった。東北出身ながら寒がりな潮香は、吹きすさぶ北風に全身が凍えそうになった。
自宅に帰るやいなや、潮香はエアコンの電源を入れ、温かい飲み物を飲みたくて湯を沸かし始めた。少しでも体を温めないと、体の震えが止まらなかった。
晴人と別れて以来、彼氏がいない生活には慣れたとはいえ、結婚式の後で一人過ごす夜はやはり寂しさを感じた。
ココアの粉が入ったカップに湯を注ぎ、少しずつすすりながら、潮香は部屋の片隅で心を落ち着かせていた。テレビを見ると、クリスマスキャロルが流れる中、きらびやかなイルミネーションの中継が放送されていた。記憶に間違いが無ければ、確か今週の木曜日はクリスマスイブだった。今年もこのままひとりぼっちでクリスマスを過ごし、年を越すことになりそうだ。実家に帰ると小枝子に結婚を急かされ、次々と見合いの話を持ち掛けられそうなので、年末年始は仕事を理由に東京で過ごそうと考えていた。
コロコロコロ コロコロコロ……
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、突如着信音を立てて激しく振動した。
潮香はココアの入ったカップを床に置くと、面倒くさそうに手を伸ばした。
スマートフォンを開くと、カンさんから着信が来ていた。最近はお互い連絡を取り合っていなったので、一体何事かと思いつつスマートフォンを耳に押し当てた。
「よう、潮香ちゃん。元気かい? 俺は今、仕事で東京に来てるんよ」
「え。そうなんだ? 早く声を掛けてくれたら、こっちから会いに行くのに」
「実は君にちょっとお願いしたいことがあるけえ。明日の夜、君んちに行っていいか?」
潮香はカンさんからの突然の申し出に驚いたが、はやる気持ちを抑えながら答えた。
「いいよ。じゃあ、玄関前で待ってるからね」
「了解。実はな、明日から俺と一緒に常山に行ってもらいたいんよね。あっちは毎日雪だから、暖かい上着着てこいよ。あ、それから明後日は仕事の休みを取るようにな」
「どうして常山? しかもなぜ仕事休んでまで?」
「それは明日話すわ。じゃあな」
あまりにも唐突な話ではあったが、カンさんの声はいつもよりも重たく感じた。とりあえず、上司に休みだけは相談しようと思った。
翌日の夜、北風が音を立てて吹き付ける中、潮香はダウンコートを羽織り、マフラーで顔の半分を覆いながらアパートの玄関前に立ち、カンさんがやってくるのをじっと待っていた。
しばらくすると、闇の中からまばゆいほどのヘッドライトを照らしながら一台のミニバンが姿を現した。車は潮香の目の前に止まると、ドアが開き、カンさんのだみ声が潮香の耳に入った。
「久しぶりね、カンさん。元気だった?」
「おう、潮香ちゃんも元気そうだな」
カンさんはワンダーTVに居た頃よりも髪の毛が伸び、髭も濃くなり、一昔前のヒッピーのような出で立ちになっていた。しかし、髪や髭の合間から見える笑顔は人懐っこく、昔と変わりが無かった。
「さっそくじゃけど……今すぐ俺と一緒に車に乗ってもらえるか?」
「な、何なのよ。随分唐突ね」
「そうじゃ。なぜなら、信彦君が君のことを待っているからな」
「信彦君が……私を?」
「ああ。なんでも、君との約束を果たしたいそうだ」
カンさんの言葉を聞いた後、潮香は沈黙した。
確かに信彦は、二年前に潮香への手紙で「立派になった時に会おう」と書いてあった。あれから時が経ち、ついにその時がやってきたのだろう。それも、よりによって過去に因縁のあるクリスマスイブに。
「わかった。じゃあ現地までの運転、お願いするね」
「OK、早速出発じゃ!」
潮香は大きく頷くと、スーツケースを片手にカンさんの車の助手席に乗り込んだ。
「今夜は一段と冷えるな。景気付けに、心も体も温かくなるような曲をかけてあげるわ」
そう言うと、カンさんはカーオーディオのボタンを操作した。すると、情熱的なサクソフォンに導かれながら浜田省吾の情熱的な歌声が流れ、その背後では、ギターが激しくうなるように鳴り響いていた。聴いているうちに、潮香の心は次第に温められていった。
「今流れとるのは『終わりなき疾走』って曲だけど、これがライブで流れるとオーディエンスがわーっと総立ちになるんよ。もう大分昔の曲じゃけど、今でもハマショーのライブでは絶対不可欠な一曲なんよ」
「いいね。気分がアガるなあ、さすがはカンさんだね」
カンさんの運転する車は入り組んだ住宅地から都心へと続く幹線道路に入ると、次第に速度を上げ始めた。やがて首都高速に乗ると、光の海のような都会のど真ん中を一気に駆け抜けていった。
「そう言えば、明日はいよいよクリスマスイブだね。東京はどこもかしこもイルミネーションでキラキラしとるなあ。常山は駅前のビルにちょっと飾りを付けた位じゃぞ」
「そうだね……でも、その小さな飾りに思い出がたくさん詰まってるんだよね」
「信彦君との?」
「そう」
潮香は窓の外を眺めながら、少し寂しそうな顔を見せた。
「今度こそ、叶うといいよな。今まで苦しく、悲しいことばかりだったもんな。神様はきっと、君らのことを見守ってくれとるぞ」
「うん、叶うといいな」
夜は更け、車は一気に東北自動車道を北上していた。カーオーディオからは、浜田省吾の「あれから二人」が流れていた。甘く切ない歌声が流れる車中で、潮香は心地よさのあまり眠りに入っていた。
カンさんは着ていたジャンパーを脱ぐと、潮香の肩にそっと掛けてあげた。
やがて車の前方に広がる東の空が白み始め、眼下には雪に覆われた町並みが見えてきた。
「おはよう、潮香ちゃん。もうすぐ着くぞ、常山に」
「……もうすぐか。いよいよだね」
車は雪道の上をガタガタと音を立てながら進むと、すぐ目の前に井水川が見えてきた。堤防では、学校帰りらしき学生が自転車で行き交っていた。しばらくすると、カンさんは目を凝らして窓越しに堤防を覗き、はるか前方を指差した。
「おっ、信彦君、約束通りちゃんと来とるなあ。じゃあ、俺はここで。後で迎えに行くから、がんばってこいよ」
「うん」
潮香は車から降り立つと、車窓越しに親指を立てるカンさんに、親指を立てて微笑んだ。そして、うっすらと雪が残る堤防を一歩ずつ歩きだした。
その時、潮香の前方から数人の学生達が自転車で押し寄せ、潮香のすぐ側をすれ違っていった。彼らが行き過ぎた後、そこには自転車に乗った黒のダウンジャケットを羽織った一人の男性が立っていた。
潮香は緊張のあまり足がすくんだ。しかし、ここまで来て何もせずに帰るなど、間違ってもしたくなかった。潮香は一歩ずつ足を踏みしめ、男性のすぐ近くまで来ると、大きく息を吸い、吐き出すかのように声を出した。
「こんにちは、信彦君」
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