終章10 悲しみは雪のように

 二〇二四年 十二月

 潮香がアナウンス室を去ってから、一年が経過した。

 潮香は販売事業部の一員として、番組関係のグッズの開発と販売の仕事をこなしていた。初めて携わる事務の仕事に、しばらくの間は戸惑いを覚えていたが、慣れた後は、アナウンサー時代よりも仕事を楽しく感じるようになった。自分でグッズのアイデアを提案したり、販売先を開拓したりすることにもやりがいを感じていた。アナウンサーは台本から外れたことは出来なかったし、その他色々と制約も多くて、当初思い描いていたよりものびのびと仕事出来ていなかったように思えた。傍目から見ると、局の花形として華やかで憧れられる仕事ではあるが、今思い返すとのしかかる重圧感が大きく、仕事が休みの日も誰かに監視されているようで心が休まらなかった。

 今も時折、地方のテレビ局などからアナウンサーの仕事のオファーが来ることがあったが、潮香はそれらを全て断っていた。経験があるとはいえ、今の潮香には何の魅力も感じないし、過去の辛かったことが次々と脳裏に甦ってきそうで、とても引き受ける気にはなれなかった。


 仕事を終え、アパートに戻った潮香は、テレビを見ながらスマートフォンに届いたメッセージを確認していた。


「ああ、また美沙からか……今日は何の相談なの?」


 美沙は、晴人がプロデュースするゴルフ番組のアシスタントを務めていた。本来は潮香が務める予定だったが、アナウンス室から異動させられたことにより、代役を美沙に任せられることになった。美沙は番組収録を通して徐々に晴人に近づき、やがて二人は見事に恋仲になった。

 しかし、その後の美沙は事あるごとに潮香に愚痴や不満を吐くようになっていた。話を聞くと、美沙は収録用にと晴人が持ってきたセクシーなデザインのゴルフウェアを無理やり着せられ、その服装のまま晴人のマンションに連れられては性欲処理の相手をさせられているとのことだった。潮香が心配していたことが、そのまま美沙に降りかかっているようだった。


「今日も寺田さんに身体を求められてすごく疲れました……寺田さん、頭は良いし仕事は出来るけれど、想像していた人と全然違いました。今からでもアシスタントを住吉さんに代わってもらうことってできますか?」


 潮香は顔をしかめて呆れながら美沙のメッセージを読んでいた。そして、「美沙ちゃん、望み通りに寺田さんを『頂いた』んでしょ? だったらがんばって最後まで『完食』しなくちゃね」と、笑顔の顔文字入りで返信した。


 もう一通のメッセージは、カンさんからだった。


「お疲れさん! 今日も取材の帰りに信彦君に会ってきたよ。今は毎日文字を書く作業をやっとるけど、段々うまくこなせるようになってきてるわ」


 カンさんは今も契約カメラマンの仕事をしながら、信彦の社会復帰の手伝いをしている。信彦は無事に病院でのリハビリを終え、今は時々病院に通いながら、社会復帰に向けたプログラムをこなしている。今はまだ一人で生活することが難しいため福祉施設に入居しているが、一時期に比べると順調に機能を回復させている様子だった。

 今はカンさんから送られてくる写真でしか信彦の姿を見ることができないし、潮香がアナウンサーをしていない現在では、テレビ画面を通して自分の姿を見せることはできない。だから潮香は、定期的に自分の写真を撮っては、カンさんを通して信彦に自分の姿を見せていた。


 そしてもう一通、潮香の元にはメッセージが送られていた。送り主は、母親の小枝子だった。


「仕事中ごめんね。さっそくだけど、こないだのお見合いの相手、今後のお付き合いはどうするつもりなの? 先方は、あんたのことすごく気に入ってるって。あの人、若くして市議会議員になって、将来は国会に目指すって言ってたわよ。それになかなかイケメンでしょ? もうこんな素晴らしい人には絶対出会えないからね」


 先日、潮香は小枝子からの強い要請で、お見合いをした。娘が三十代になり、母親としては婚期を逃してしまうことに焦りを感じていたのだろう。潮香も三十歳を迎えて結婚への焦りが全く無いわけではなかった。高校時代や大学時代の友人たちから続々と結婚の知らせが届き、一人だけ独身のまま取り残されたような気分になっていた。潮香はとりあえず小枝子の紹介を受諾し、生まれて初めてのお見合いに臨んだ。

 見合い相手は市議会議員というだけあり、博識で話が面白く、サッカーとマラソンが趣味で精悍な顔つきをしており、第一印象については悪くはなかった。しかし、時折市役所で働く職員を見下したような言い方をしているのが、潮香には気になっていた。おまけに、潮香が信彦のような生活保護受給者について考え方を尋ねると、まるで生活能力のない能無しと言わんばかりの話をしていた。

 とはいえ、自分の置かれている立場を考えると、安易に断りにくいように感じていた。この次にはもっと付き合いにくい相手を紹介される可能性もあるので、なかなか決断が付きにくかった。


 翌日、白く重たい雲が垂れ込む空から小雪がちらつく中、潮香は仕事を終えて家路へとついていた。もうすぐクリスマスシーズンを迎えるせいか、街じゅうに色とりどりのイルミネーションが輝いていた。潮香は足を止め、イルミネーションをじっと見入っていたが、男女が手を繋いで楽しそうに傍を通り過ぎていくのを見ると、どこか羨ましくて仕方がなかった。

 この時期になると、潮香は今でも思い出すことがあった。それは高校時代、信彦とクリスマスイブの日に市の図書館で一緒に勉強する約束を交わしたことだった。約束は叶わず、カップルが集う中で一人寂しい気持ちを噛みしめていたことを、十数年が経った今もしっかり覚えていた。

 潮香は自宅にたどり着くと、新聞受けに一通の封筒が届いていることに気づいた。封筒には、たどたどしく読み取りにくい文字で「住吉潮香様」と書いてあった。

 潮香は慌てて封筒をテーブルの上に置くと、上端部をハサミで丁寧に切り取ると、中には、二枚の便箋が入っていた。綺麗に折りたたんだ便箋には、大きさが一定しない粗雑に書かれた文字が並んでいた。


「すみよしさん こんにちは おかべのぶひこです。ぼくはいま、もじをかくれんしゅうをまいにちやっています。もじをかくのはたいへんだけど、もじがつながりぶんになるのをみると、うれしくてしかたがありません。いつか、すみよしさんにあいたいです。そのときは、りっぱになったぼくをみてもらいたいです。それまでがんばるから、すみよしさんもがんばってください」


 潮香は一つ一つの文字を読み解くのに時間を要したが、全て読み終えると、感動のあまり便箋を持つ手が震え始めた。

 ここまで書き上げるには、きっと普通の大人の倍近い時間がかかったことだろう。しかし、彼は心を込めて必死にこの手紙をしたためていたに違いない。

 潮香は、目先のクリスマスに自分の寂しさを紛らわすのためにお見合いの結果を急ぐことを止めた。そして、母親の小枝子にLINEでメッセージを送った。


「こんばんは。お見合いの件、相手には申し訳ないけど、丁重にお断りするね。自分には勿体ない相手だし、失礼の無いように早めに連絡を入れてあげてほしい」


 すると、数分もしないうちに小枝子から返信か届いた。


「本当に勿体ないわね。信じられないわ、こんなすごい縁談を断るなんて。ひょっとして、あんた、付き合ってる人とかでもいるの?」


 小枝子の返信は、怒りと焦りがあるように感じられた。しかし潮香は小枝子の言葉に感情を流されることもなく、今の自分の気持ちを返信にしたためた。


「うん、いるよ。ただ、今は離れて暮らしてるんだ。いつになるかはわからないけど、今はその人と結ばれる日を待とうと思うんだ」


 潮香は小枝子への返信を送ると、スマートフォンを閉じ、窓の外を眺めた。さっきちらほら降っていた雪は本降りになり、あっという間に辺りを白く染め上げていた。

 潮香は、カンさんにLINEで連絡を取った。


「あ、カンさん? 信彦君、私に手紙を送ってきたんだけど、知ってた?」

「お、届いたんか! 信彦君な、自分から潮香ちゃんに手紙を書きたいって俺に訴えてきたんじゃ。何度も書き直して、やっと書き上げた渾身の手紙じゃけ、多少読みづらいのは許してやってよ」

「……大丈夫だよ、ちゃんと読めたよ。ところでカンさん、信彦君にどうしても伝えて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」

「ああ、いいよ」

「私、待ってるよって。信彦君がいつか立派な姿を見せてくれるまで、ずーっと待ってるよって」

「そうか……わかったよ、ちゃんと言っとく」

「ねえ、雪、そっちは降ってる? こっちは珍しく本降りの雪だよ」

「あ、こっちも結構降ってきたわ。こういう天気の時は、聴きたくなる曲があるんよね」

「なあに?」

「『悲しみは雪のように』。ハマショーの歌でな、昔、大ヒットしたドラマの主題歌だったんよ」


 そう言うと、カンさんは受話器の向こうから「悲しみは雪のように」を鼻歌で聴かせてくれた。


「たとえ悲しみを背負っても、そこで腐らず乗り越えていけば、きっと誰かを心の底から愛せるようになるって、ハマショーは言うとる。だから信彦君も、そして潮香ちゃんも、今はどんなに悲しくてもそれを乗り越えてほしいんだ」

「ありがと。カンさんも、いつかきっといい人に出逢えるよ」

「だといいけどな」


 潮香もカンさんの歌声に合わせ、受話器を耳に当てながら唄い始めた。


 外には徐々に雪が降り積もってきた。

 今日の雪はいずれ解けてしまうだろうけど、潮香と信彦に降り積もった悲しみの雪は、解けるまでもう少し時間がかかるかもしれない。

 それでも潮香は、雪解けの日をじっと待ち続けようと心に決めていた。

 時間はかかっても、きっと「好きだ」と言えるような気がするから。

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