終章9 家路

「おはようございます。本日から『オキドキ!』のアシスタントが変わりました。二年半にわたりこの番組のアシスタントを務めた住吉潮香アナに代わり、関本紅緒アナが務めます。関本さんは住吉さんの前にこの番組のアシスタントを務めていたので、カムバックということになります。関本さん、今日からまたよろしくね」

「はーい、みなさん、おはようございます。番組を卒業してから二年以上経ち、こないだもちょこっとだけピンチヒッターとして出演させてもらいましたが、今日から再びこの番組のアシスタントとなりました。『朝の顔』として、元気にこの番組を盛り上げていきたいと思いますので、よろしくお願いしまーす!」 


 午前五時半、朝の情報番組「オキドキ!」の収録が始まった。

 スタジオの中央にはメインキャスターの小野寺と、今日からアシスタントになったアナウンサーの紅緒の姿があった。

 番組降板を言い渡された潮香は、スタジオの隅で制作スタッフとともにじっと見守っていた。進行は滞りなく進み、潮香は一度もスタジオに呼ばれることも無いまま、無事に今日の収録は終了となった。

「お疲れさまでした!」という声が飛び交う中、スタジオセットの片付けが始まった。


「いやあ、関本さんは相変わらず進行が上手だなあ。滑舌の良さも全然衰えてないよね」

「まあね、いつも発声練習だけはきっちりやってましたから。いつでも『朝の顔』に戻れるようにね」


 小野寺は紅緒と談笑しながら潮香の方へと近づいてきた。潮香は二人を前に、深々と頭を下げた。


「ごめんなさい」


 すると小野寺は潮香の元に近づき、しゃがみ込んでそっと頭を撫でた。


「気にするな。君は自分の気持ちに素直になっただけだろ? 僕はちゃーんと知ってるんだから」


 小野寺は微笑みながらそう言うと、潮香は涙腺が緩み、涙がとめどなくこぼれ始めた。すると小野寺はスタッフを手招きし「あれを持ってきて」と声を掛けた。

 スタッフは大きな花束と、お菓子の入った手提げバッグを小野寺に渡した。


「二年半、お疲れ様。君ならどこに行っても大丈夫だ。この僕が保証する。またいつか、どこかで一緒に仕事できるといいね」


 潮香は溢れ出る涙をぬぐいながら、花束とバッグを受け取った。


「さ、アナウンス室に行こうか。皆にもちゃんとお別れの挨拶をしないとね」


 紅緒は潮香の肩に手を回すと、支えるかのように抱きかかえ、そのままスタジオから出て行った。スタジオ内ではスタッフたちの拍手が鳴りやまなかったが、一方で天気担当のまどかだけは、腕組みをしてどこか冷めた表情で潮香を見つめていた。

 潮香が目の前を通り過ぎても「お疲れ様」と一言だけ言うと、どこかほかの所へ行ってしまった。

 潮香は紅緒とともにアナウンス室に入ると、室内にいる後輩アナウンサー達が拍手で出迎えてくれた。


「お疲れ様でした、住吉さん」


 深夜のニュース担当の美沙が潮香に駆け寄り、大きな花束を手渡した。


「住吉さん、顔が真っ赤だよ。さては小野寺さんに泣かされたな? あの人、本当に女性に優しいから」

「ち、ちがうよ。だって、色々なことが頭の中に駆け巡ったから……」


 潮香はアナウンサー達に囲まれ、賑やかな雰囲気に包まれていたが、やがて部長の熊谷が室内に入ると、その雰囲気は一変した。

 アナウンサー達はそれぞれの椅子に座り、何事もなかったかのように静まり返っていた。


「住吉さん、今日までアナウンサーの務め、ご苦労様」

「……こちらこそ、この度は申し訳ありませんでした」

「とりあえず、今日中に荷物をまとめ、明日からは新しい部署に異動してほしい。今度の部署は、通信販売とか番組グッズの製作販売を担当することになる。今までのように表に出て仕事することはないが、定時に帰れるし休みも取りやすい。君のように急に休みたいとか言い出すような人間には、うってつけの場所だよ。ガハハハッ」


 熊谷は所々嫌味のこもった言葉を並べると、白い歯を見せて笑いだした。

 しかし、潮香は何も言い返せなかった。拳をにぎりしめたまま、熊谷の言葉を黙って聞くことしかできなかった。

 潮香は自席に戻ると、机の中を整理し、持ってきたキャリーケースに詰め込んだ。美沙が駆け寄り、一緒に作業を手伝ってくれた。美沙は手を動かしながら、にこやかな表情で潮香に語り掛けてきた。


「ねえ住吉さん。私、寺田さんのプロデュースするゴルフ番組にアシスタントとして出ることになったんですよ。そこで相談なんですけど、私、寺田さんのことを頂いちゃってもいいですかぁ?」

「べ、別にいいけど……というか、あの番組に美沙ちゃんが選ばれたの?」

「そうなんです。本当は住吉さんが出る予定だったんですけど、急きょ私が指名されたんですよぉ。ゴルフ好きだから指名されたんですかね? 収録の時、早速寺田さんに声掛けようっと」


 美沙は潮香の許可をもらい、嬉しそうな顔で手を動かしていた。その隣で、潮香は「晴人の性欲処理の対象にしかならないのに……」と心の中でつぶやきながら、美沙の後ろ姿を憐れみながら見つめていた。


 机の中が空になるのを見届けると、潮香は荷物を手にしながら、アナウンス室にいるアナウンサー達の方を向き、頭を下げた。


「今までありがとうございました」


 熊谷は潮香に近寄ると、固く握手をしてくれた。アナウンサー達は、温かい拍手で潮香を送り出してくれた。彼女たちは「がんばって!」とか「こんなことで負けないで!」と声をかけてくれたが、内心はどうなんだろうか?

 長年慣れ親しんだアナウンス室を去ることに名残惜しい気持ちもあるが、彼女たちの顔を見るうちに、うすら寒さがこみ上げてきた。一刻も早く、ここを立ち去りたいと思った。

 キャリーケースを引きながら、潮香はアナウンス室の部屋を出て、新しい部署に向けて歩きだした。しかし、ぎっしりと詰まったキャリーケースは予想以上に重く、潮香はロビーで足を止めて腰をさすった。


「少し休んでから行こうかな……」


 潮香はキャリーケースの取っ手を握りながらため息をついていたが、その時、ポケットの中に入れていたスマートフォンが激しく振動し始めた。

 潮香はスマートフォンを取り出すと、耳に押し当てた。


「もしもし、伊藤だよ」

「カンさん……」

「潮香ちゃん、今日の『オキドキ!』どうしたん? 始まるや否や紅緒ちゃんが出てきて、今日からアシスタントを交代したなんて言い出しよって……」


 カンさんは、捲したてるかのように話していた。そう言えば、カンさんにはアナウンス室から更迭になったことを話していなかった。


「ごめんねカンさん、私、アナウンサーをクビになったの。こないだのタブロイド紙の件でね」

「ええ? ま、マジか?」

「本当は決まってすぐお話すればよかったんだけど、クビを宣告されてからずーっと抜け殻みたいになっちゃってね。今日も未だクビになった実感のないまま出勤して引継ぎしたって感じだし」

「……信彦君、叫んどったぞ。『すーみー、どこ?』『すーみー、いない!』って」

「……だよね」


 潮香はスマートフォンを持ちながら、髪を何度もいじって悔しい気持ちを紛らわそうとした。信彦はいつも潮香の出演していた『オキドキ!』を楽しみにしていた。それなのに、急に顔が見られなくなってしまい、「どうしていないの?」と叫びたくなったに違いない。


「俺の隣に信彦君がおるぞ。今、ちょうど一緒に明日からの入院の準備をしとったんじゃ。信彦君に電話代わるけえ」


 カンさんがそう言い放った数秒後、潮香の耳には聞き慣れた「あー」「うー」という太い声が入ってきた。


「信彦君? そこにいるの?」


 信彦は、潮香の顔が見えないせいか、相変わらず「あー」という言葉を繰り返していた。そこで潮香はビデオ通話機能に切り替えると、目の前に信彦の顔が出現した。


「信彦君! 私よ、すーみーだよ。わかる?」


 すると信彦は画面に映る潮香の顔に気づいたのか、叫ぶかのように「すーみー!」と声を上げた。


「よかった。気付いたんだね。ねえ、私、信彦君に話さなくちゃいけないことがあるの」

「すーみー……?」

「すーみーね、もうテレビに出られないのよ。テレビですーみーの顔を見ることができなくなるの」


 潮香は身振り手振りを交えながら話を続けた。すると信彦はしばらく沈黙を保った。


「本当にごめんね。いつかまた、私から信彦君に会いに行くからね」


 その後も潮香は涙声で何度も「ごめんね」という言葉を繰り返した。受話器の向こうからは、信彦の「すーみー?」と問いかけるかのような声が聞こえてきた。

 すると突然、受話器の向こうから「俺に代わってくれる?」というカンさんの声が聞こえてきた。


「どうした潮香ちゃん? 信彦君、えらく動揺しとるぞ」

「だって……これからは、信彦君に毎朝私の顔を見せることが出来ないんだもん。自分が先走らなければ、自分があんなこと言わなければ……」

「気持ちはわかる。落ち着け潮香ちゃん!」


 カンさんはまるで目の前で潮香を諭すかのように、眉間に皺を寄せて大声で叫んでいた。その声を聞き、潮香はやっと我に返った。周りを見渡すと、ロビーで休んでいた局員たちは何事かといった様子で潮香を見ていた。潮香はスマートフォンを持ちながら、ロビーの片隅に隠れるかのように走り込んでいった。


「今、LINEで潮香ちゃんへのはなむけの曲を送ったわ。俺はカメラマンとして駆け出しの頃、この曲に何度も心が救われた。あとで聴いてみんさい。あとな、信彦君、君が持ってきてくれたノートを病院に持って行くってさ。あれから毎日、興味ありそうにじーっと見てるんよね」

「そうなんだ。何か思い出してくれるといいけれど……」

「じゃあな。俺たちもそろそろ行かなくちゃいけんのでね」

「ありがと。じゃあね」


 通話が途切れると、潮香はスマートフォンを覗き込んだ。カンさんの言う通り、LINEに添付ファイル付きのメッセージが届いていた。

 添付されていた曲は、浜田省吾の「家路」だった。

 潮香はファイルを開き、耳にスマートフォンを押し当てた。省吾は甘く柔らかい声で、まるで今の潮香の心の中を歌い上げているように感じた。

 

 だけどどんなに遠くても、たどり着いてみせる 

 石のような孤独を道連れに 空とこの道 出会う場所へ


 聞き終わった後、潮香は背中を前に押し出されたような気がした。

 溢れ出る涙を拭い去ると、キャリーケースを手にし、新しい職場へ向かうためにエレベーターに乗り込んだ。

 いつか信彦に会える日のために、ここでやれることをやるしかない。

 涙は流れ切った。あとは思い切り笑える日が来るのを待とうと、心の中で呟きながら。

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