終章5 二人の絆

 前方には晴人、後方にはカンさんと信彦。

 板挟みになった潮香は、自分がどうすべきか分からないまま、双方の様子を伺っていた。


「伊藤さん、たしかうちのテレビ局をお辞めになったそうで。せっかく僕がこないだの件を人事に言わずにおいたのに、どうして? まあ、あなたの上司にはちょっと注意はしておいたけど」

「あんたがそうしてくれたことがきっかけで、辞める決意がついたんだけどな。俺にはやりたいことがあったから、ちょうどええタイミングだったわ。感謝してるよ、あんたには」

「そりゃどうも。で、ここで一体何を?」

「新しい仕事を始めたんよ。系列のみちのくテレビで契約カメラマンとして雇ってもらったんだ。今日やっとこの町での取材の仕事をもらってな、信彦君と再会を喜んでいたところだったんよ」

「……みちのくテレビ? ふーん、そりゃよかったね」


 二人の間には、ただならぬ雰囲気が漂っていた。表面的には単なる近況報告に聞こえるが、その裏には憎しみや敵対心があるようにも感じた。潮香は背筋が凍りそうな思いがして、二人の間からそっと外れて、部屋の隅から様子を伺っていた。


「会ったばかりですまないが、ちょっとだけ話がある。ここじゃ何だから、廊下に来てもらえるかな?」


 晴人がそう言うと、カンさんは腕組みをしながら「いいとも」と言い、晴人の後をついていった。


「潮香、悪いけど、そのノートを借りていいかな?」

「良いけど……何に使うんですか?」

「この件で、彼にちょっと話をしたいんでね。大丈夫、話が終わったらちゃんと返すから」


 潮香はノートを晴人に渡すと、晴人はノートを高く掲げながら小さな声で「サンキュ」と言った。

 ドアはしっかりと閉められたものの、ドア越しに二人の話し声が聞こえてきた。潮香は何か良からぬことが起こるのではないかと思い、不安で胸が押しつぶされそうになったが、何か言い争うような声はなく、淡々と静かに話し合っているように感じた。

 信彦は、丸々とした目で辺りを見回すと、最後には「すーみー」と言いながら、潮香の手に自分の手を重ね合わせた。


「久しぶりだね。大丈夫だよ、私がここにいるから」


 潮香は信彦の手をそっと握り、頷きながらその目をまっすぐ見つめた。すると、信彦も同じように何度も頷き、小さく口を開けて白い歯を見せた。

 しばらくすると、ドアが開き、晴人とカンさんが部屋の中に入ってきた。

 二人は潮香の前に立つと、晴人はノートを潮香の手の上に置き、先に口を開いた。


「彼とちょっと話し合ったんだ。このノートを一緒に見ながらね」

「え? このノートを見ながら?」

「これが君のかけがえのない宝物だという理由、やっと分かった気がするよ。君は信彦さんのこと、本当に好きだったんだね」


 晴人がそう言うと、カンさんは親指を立てながら目配せした。


「最初に確かめたいことがあるだけど……君は信彦さんのこと、今でも好きなんだね?」

「はい……」

「君は彼が今、どんな状況にあるのか分かっているよね? そして君はワンダーTVの人気アナウンサーという立場にある。これからも彼と付き合っていくつもりならば、乗り越えなくちゃならない壁がたくさんある。その覚悟は出来ているんだよね?」


 晴人は、ゆっくりとした口調で、時々語気を強めて潮香の意思を確かめていた。晴人の言うことは潮香も重々分かっていたし、覚悟も出来ていた。しかし、現実にはそう簡単には進まないだろうという思いもあった。

 周囲は潮香を、局内随一の「売れっ子アナ」として誰もが一目置いている。その潮香が、脳に障害を持ち、生活保護を受けながら何とか生活を保っている信彦と付き合っていることを知ったら、一体どう思うだろうか。局内では、潮香は晴人のような将来性のある立場の人間と一緒になることを望んでいるに違いない。考えれば考える程、その壁は高く険しいものだった。


「覚悟はできてますが……たぶん、現実はかなり厳しいだろうなって思いはあります」


 潮香はうつむきながら、そう呟いた。


「そうか、じゃあ諦めるんだね?」


 晴人はそう言うと、やれやれと言わんばかりに両手を上に向け、カンさんの方を向いた。潮香は言葉に詰まってしまった。どう返していいか分からず、握った拳を震わせた。


「君は高校時代の彼の影を追っているだけなんじゃないのか? そんなあやふやな気持ちで、本当に幸せになれるのか? 信彦さんも、そして君自身も」


 晴人は容赦なく捲し立ててきた。以前ならばここでカンさんが間に入り、晴人に食って掛かったのだが、今日はそんな様子も無く、腕組みしたままじっと様子を見守っていた。


「……イヤだ。絶対に、諦めたくない」


 潮香は拳を震わせ、心の奥底から吐き出すかのようにそう答えた。


「その言葉は本気か? 本気で彼と付き合っていく覚悟はあるのか?」

「本気です! 色々辛いこともあるだろうけど、彼と二人で乗り越えていくつもりです」

「そうか。わかった」


 晴人はカンさんの元に近づくと、お互いに目を合わせ、突然ハイタッチを交わした。


「え? ど、どうしたんですか、いきなり?」


 潮香はあっけにとられたが、二人は笑いながら何度もハイタッチを交わしていた。


「潮香ちゃんの気持ち、そして二人の絆の深さ、俺たちにもよーく伝わったわ。な? 晴人さん」

「ああ。僕も、今の言葉で確信したよ」


 二人はそう言い合うと、潮香は二人の顔を代わる代わる見つめながら、しばらくの間状況が分からず途方に暮れていた。


「二人は、私に一体何が言いたいんですか?」

「要するに、俺たちは信彦君には敵わなかったということじゃ。な? 悔しいけれど、受け入れるしかないわな」


 カンさんはずっと声高らかに笑っていた。一方で晴人は、その隣でほんのちょっとだけ苦笑いを見せていた。


「ノートを見た後、二人で話し合ったんだ。潮香の信彦さんに対する気持ちがこのノートを書いた時から変わっていなかったら、僕たちは諦めて、潮香のためにお互いできることをしようってね。でも、僕よりも伊藤さんの方が先に動いていたようでね……正直ちょっと悔しかったよ」


 晴人が苦虫を潰したかのような顔でそう言うと、カンさんは咳ばらいをして、得意げな顔で晴人の前に躍り出た。


「俺が再就職先にみちのくテレビを選んだのは、いつでも気軽にこの場所に来ることができると思ったからだよ。潮香ちゃんが信彦君のことを心配し、想い続けている姿をずっと見届けてきたからな。だから俺は……信彦君が独り立ちできるまで、出来る限り側に居てあげようって決めたんよ。それで潮香ちゃんがいつの日か幸せになれるならば、と思ってな」


 すると潮香はふてくされたように「辞める時、何でそう言ってくれなかったのよ……」と小声でつぶやいたが、その後クスクスと笑って「ありがとう」と言い、カンさんの肩を軽く叩いた。カンさんは潮香に突然肩を叩かれ、照れ臭そうな表情を見せた。


「とりあえず、僕は局内で君の立場を後方から支えていくつもりだ。君にはこれからもずっと『朝の顔』として活躍してもらいたいからね」


 晴人はそう言うと、早速スマートフォンを手にしながら誰かに連絡を取っていた。

 毎度のことながら晴人の行動は素早いが、一体どこの誰と連絡を取っているのだろうか?


「さ、潮香ちゃん。そのノートを信彦君に返さなくちゃな」

「あ、そうだね……」


 潮香は手にしていたノートを、そっと信彦の手のひらの上に置いた。


「これ、私と信彦君の大事な思い出が詰まったノートだよ。大事にとっておいてね」


 潮香は指で自分と信彦を差し、胸に手を当てて、自分の言葉を信彦に伝えようとしていた。信彦はしばらくノートをじっと見つめていたが、やがて首を傾げながら一枚ずつめくりはじめた。

 その目は相変わらず大きく丸々としていたが、時々「あー」と声を上げ、何かを思い出したかのようにも感じた。

 ノートを読んで、信彦は何かを感じてくれただろうか? 十年前、文庫本を読みながら楽しそうに内容を解説してくれた時のことを思い出してくれただろうか? 早稲田を目指していることを熱く語ってくれたことを思い出してくれただろうか? そして、潮香への気持ちをノートにしたためてくれたことを思い出してくれただろうか?

 やがて信彦はノートを広げたまま床に置くと、「あー」と声を上げてキョロキョロと左右を見渡していた。


「彼、何かを感じていたんじゃないか?」


 晴人は、信彦の姿を見ながら呟いた。確かに、信彦は何かを必死に言おうとしているように見えた。ノートを見て、彼なりに感じたことを言いたいのだろうけど、なかなか言葉として言い出せないのだろう。


「さ、ノートを彼に渡したことだし、そろそろ帰ろうか。今から車を飛ばせば、明け方の『オキドキ!』の番組前のミーティングには間に合うと思うよ。番組スタッフには、今すぐそっちに向かうって話してある。そして上層部には、明日は予定通り出演させるので、今回の潮香の行動を許してあげて欲しいって言ってあるから」

「晴人さん……相変わらず仕事が早いなあ」

「こら潮香ちゃん、ちゃんと晴人さんに感謝せないかんぞ。俺、今日の彼を行動を見て、見直したわ。こないだあんな酷いこと言って、すまんかったのう」


 カンさんに一喝され、潮香は舌を出して頭を掻くと、「色々世話になってしまい、すみませんでした」と言って晴人に頭を下げた。カンさんも潮香の隣に立ち、一緒に頭を下げていた。


「アハハハ、別にいいですよ。僕は潮香が『オキドキ!』で見せる笑顔が好きなのでね。疲れてるだろうけど、明日もちゃんと出演してもらわないとね」


 するとカンさんも、手を叩いて「そうそう」と相槌を打ちながら割って入ってきた。


「晴人さんの気持ち、良くわかるわ。俺も潮香ちゃんの笑顔、大好きですもん」


 潮香は呆れ顔で「もう、二人とも!」と声を上げると、二人に背を向け、信彦の元へと歩み寄った。


「ごめん。帰らなくちゃいけないの。また絶対、ここに来るからね」


 潮香は信彦の頭を何度も撫でた。そして信彦の耳元に顔を寄せ、「大好き」と囁いた。

 信彦は相変わらず首を左右に振っていたが、やがて何を思ったのか、突如潮香の方を向き、大きな目を何度もしばたかせながら口を開いた。


「だ……だい……す……きー……」


 潮香は「え……?」と言って、周りを見回したが、それは間違いなく、信彦の声だった。ひょっとしたら潮香の言葉を真似ただけかもしれないが、信彦から潮香に対する言葉であるのは間違いなかった。


「よかったな、潮香。さ、間に合わなくなるから、行こうか」

「はい」


 晴人に背中を押され、潮香は信彦の部屋を後にした。

 信彦はカンさんと一緒に、潮香の背中に向かって両手を左右に振っていた。

 部屋を後にし、玄関に向かって階段を下りる潮香の脳裏には、信彦の言葉がいつまでも響き渡っていた。

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