終章7 孤独な闘い

 常山市から何とか戻ることが出来た潮香は、無事に『オキドキ!』の収録が終えることができた。帰りの車中であまり眠れなかった潮香は、大きなあくびをしながらアナウンス室に戻った。

 部屋の中には、いつものように熊谷と紅緒の姿があった。熊谷はコーヒーを片手に新聞を読み、潮香が帰ってきても見向きもしなかった。

 昨日、熊谷の阻止にもかかわらず無理やり常山市に行ったことについて、きちんと謝ろうと思った潮香は、熊谷の目の前に立つと「すみませんでした」と言って深く頭を下げた。

 すると熊谷は新聞を少しずらし、冷めた目つきで潮香を見ていた。いつもならば、激しく罵倒しながら怒鳴り散らすのに……。

 やがて熊谷は新聞をたたむと、席を立ち、潮香の側をそそくさと通り過ぎた。


「ごめんなさい。もう二度とご心配をかけませんので」


 潮香は再び声を上げて、熊谷に向かって謝った。


「無事に間に合ってよかったな」


 熊谷は潮香を振り返ることなく、背中越しにそう言うと、いそいそと部屋から出て行った。


「……怒ってるな、あの様子だと」


 潮香はうなだれて自席に戻ると、そのまま机の上に顔を伏せた。申し訳ない気持ちと、激しい後悔と、容赦なく襲い掛かる睡魔で、そこから起き上がることが出来なかった。


「部長、相当怒ってるわよ。声を荒げる気にもならないって言ってたよ」


 潮香の真後ろで、紅緒がコーヒーカップを片手に呟いた。潮香は顔を机から半分だけ

 起こして、紅緒の顔を睨んだ。


「やっぱり……そうだろうなと思いました。結構根に持つタイプですもんね、部長」

「ああなったら、いくら謝っても無駄だよ。しばらくは毎日顔を合わせるたびに謝って、徐々にでも誠意を見せるしかないわね」

「ですよね。はあ……」


 潮香はふたたび顔を机の上に突っ伏した。


「ところでさ、潮香。一つだけ確かめたいことがあるんだけど」

「……何ですか?」

「あなた、晴人さんと別れたの?」

「どうして……知ってるんですか!?」


 潮香は突然顔を上げ、目の前に立つ紅緒の腕を掴んだ。


「どうしてって……まどかから、LINEで女子アナ全員に情報がいきわたってるのよ」

「……あの子、何やってるんだか!」

「何やってるんだよって言いたいのは、私の方だよ。潮香」


 紅緒は腰に手を当て、仏頂面で真上から潮香を睨みつけた。


「そ、そんな怖い顔しなくても……」

「あなたが好きになった人って、こないだ常山市でインタビュー受けていた人?」

「そうです。あの人、私の高校時代の同級生なんです」

「へえ、そうなんだ」


 紅緒は呆れ顔でそう言うと、腕組みをしながら何やらぶつぶつと独り言を言っていた。


「関本さん、どうしたんですか? 独り言なんか言い出して」

「……『一体何考えてるんだろ、この子は』って言ってたのよ」

「はあ? 何でそんなことを言い出すんですか?」

「あの人、障害持ちなんでしょ? インタビューを見てたけど、時々左右をキョロキョロ見回したと思えば、何もせずボケーっとその場に立ち尽くしていたり……。どうして晴人さんと別れてそんな人を好きになったのかなって」


 紅緒は再びため息をつくと、潮香の隣に腰掛け、潮香に目線を合わせながら問いかけた。


「私ね、あなたが晴人さんと付き合ってるって聞いて、この子はきっと幸せな人生を送れるだろうなってずっと思ってた。アナウンサーを辞めても晴人さんが家計を支えてくれて、苦労することもないだろうし。正直羨ましいって思ってた」

「言いたいことはわかります。でも……」

「潮香、ひょっとしてこの人とお付き合いし、結婚でもするつもりなの? 障害がある上に、あんな崩れかけた長屋に住んでて、生活が苦しそうにしか見えないし。あなたが必死に稼いで支えないと、生活が破綻するのが目に見えるんだけど」

「でも、私はこの人が……信彦君が好きなんです。彼の人生は確かに順風満帆じゃないけれど、彼から教えてもらったことは沢山あります。彼と一緒に過ごす時間は私にとってかけがえのないものだったんです。だから……」

「だから何?」


 紅緒は潮香を突き放すようにそう言うと、机の上に手を置き、眉間に皺を寄せながら潮香に対して捲し立てた。


「好きだと言う気持ちはわかる。彼があなたの人生にとって大切な人なのもわかる。でもね、あなたは仮にもうちの局の人気アナウンサーなんだよ? 芸能人ではないけれど、自分の立場を芸能人と同等に考えないと。そして何より、うちの局の『朝の顔』なんだからね。あなたに汚れたイメージが付くと、うちの局もそのとばっちりを食らうんだから。分かってるの?」


 潮香は紅緒の話にこらえきれず、席を立った。


「失礼します」


 潮香は頭を下げると、飛び出すかのように部屋を出て行った。


「全く、うちの局にどこまで迷惑かけりゃ気が済むんだか。私もこれ以上、カバーしきれないわよ……」


 潮香の去り際に、紅緒はまるで追い打ちをかけるかのようにぼやいていた。潮香はこれ以上紅緒の言葉を聞きたくなくて、耳を塞ぎながら廊下を早足で駆け出していった。

 ロビーに着くと、潮香はスマートフォンの着信音に気づき、慌ててポケットを探った。スマートフォンを取り出すと、画面にはLINEにメッセージが届いているとの表示が出現した。一人でなく複数から、そしてそのほとんどがアナウンサー仲間からだった。

 どうやらまどかが、LINEを使って一気に情報を拡散していたようだ。そして、送られてきたメッセージのほとんどが「なぜあの障がい者の男性を好きになったのか?」「なぜ晴人と別れてしまったのか?」と問いかけてくるものばかりだった。

 潮香は自分の気持ちが誰にも理解されないまま、「どうして?」「なぜ?」という問いかけをぶつけられ、思わず叫び散らしたくなった。


「どいつもこいつも、何で私の気持ちがわからないの?」


 潮香は叫びたくなる気持ちを必死にこらえながら、玄関を出て行った。

 空気を思い切り吸いこみ、大きく吐き出すと、ほんの少しだけど気分が軽くなったような気がした。しかし、心の中に溜まったもやもやした気分は解消しないままだった。

 自分が好きなのは晴人じゃなく、信彦なのに……その気持ちに素直に従っていることが、どうしてそんなにいけないのだろうか?

 誰もが勝手に押し付けてくる理想のアナウンサー像に、潮香は辟易してしまった。

 潮香はそのまま局内に戻らず、建物の周囲を散策し始めた。局に戻ると、会う人が皆余計な詮索をしてきそうで、気が滅入りそうだった。

 しばらく歩くと、小さな公園を見つけた。潮香は公園の中央にあるブランコに腰掛け、大きく背伸びをした。ここならば局の人間は誰も来ない。そう思うとやっと張り詰めていたものから解放された気分になった。


 コロコロコロ、コロコロコロ……


 ポケットに入れたスマートフォンから着信音が鳴りだした。

 やっと気分が落ち着いたのに、今度はどこの誰がメッセージを送り付けてきたのだろう? スマートフォンを開くと、送信者の欄に「カンさん」という表示が出ていた。


「お疲れさん。今日の『オキドキ!』間に合って良かったね。信彦君も喜んどったぞ。『すーみーがいる』って言うて、拍手したり部屋を駆けまわったりしていたよ。その時の写真を撮ったから、送っとくね。

 それから、地元新聞社から来たという記者がこないだの災害関係で信彦君のことを取材していったよ。信彦君、緊張しとったけど、頑張って取材受けてたよ。近々掲載されるみたいだから、楽しみじゃわ」


 カンさんは、メッセージとともに信彦の写真を何枚も添付してくれた。満面の笑顔、犬のように部屋を駆け回る姿、テレビにかじりついて見ている姿、そして、ノートを手にしながらじっと見入っている姿。

 潮香は信彦の写真を見るうちに、心の中のもやもやが徐々に晴れ渡っていくように感じた。


「何悩んでるんだろう、私。信彦君のことを、もっと信じなくちゃ……」


 潮香は頷くと、スマートフォンを手にブランコから立ち上がった。信彦の笑顔を見ているうちに、萎えきった潮香の体に不思議と力が沸きだしてきた。



 数日後、いつものように「オキドキ!」の収録を終えた潮香は、アナウンス室に戻って休憩を取ろうとしていた。ドアを開けると、そこにはアナウンサー達の姿はなく部長の熊谷だけが腕組みしながら椅子に座っていた。


「ただいま部長。今日の収録、終わりました」


 すると熊谷は無言で机の中から何かを取り出し、潮香の目の前に差し出した。


「これ、何なんだ? 一体どういうことなんだ、おい」


 熊谷の口調は明らかに怒りがこもっていた。つい昨日までは何も怒っているような素振りがなかったのに、一体何があったのだろうか。

 熊谷から渡されたのは、タブロイドの新聞だった。


「『週刊黎明』って、ゴシップ紙じゃないですか」

「そうだ。最初、ガセかもしれんと思っていたが、ここに書いてあることを他の局員たちに聞くと、どうも本当みたいでね」


 潮香は「週刊黎明」を開くと、芸能面の見出しを見て、思わず口に手を当てた。


「ワンダーTVの『朝の顔』住吉アナ、脳に障害のある生活保護受給者と熱愛?」


 そこには、潮香の顔写真と、信彦の写真が載っていた。

 この新聞の記者はワンダーTV関係者から話を聞いて直接常山市に出向き、信彦に会ったようだ。色々と聞き取りをしようとしたが、会話は成立せず、おまけに突然狂ったような叫び声を上げたり、途中で立ったまま粗相したりと、酷い有様だったと綴っていた。さらに、信彦が生活保護受給者であることについても言及し、人気女子アナがなぜこのような人物を好きになったのか疑問に思っているとの感想で、記事を締めていた。


「そこに書いてあることは、本当なんだな?」


 熊谷は苛立った様子で潮香に問いただした。


「……この人を好きなことは間違いはないです。ただ、どうしてこんな一方的で酷い書き方をするのか、理解できません」

「一方的だろうが酷いだろうが関係ない。この記事を読んで、他の雑誌社からも問い合わせが来てるんだ。君に会って話を聞きたいという記者もいる。正直我々はこれ以上かばいきれないし、君のふるまいにはもう我慢の限界だ。君の番組降板と、別な部署への異動について検討させてもらうからな」


 熊谷は立ち上がると、潮香の側を通り過ぎてドアの外へと出て行った。

 部屋に一人残された潮香は、手にしたタブロイド紙を読みながら、悔しさをこらえきれず涙をこぼしていた。やがて潮香は机に顔を押し付け、声を上げて泣き出した。

 手にしたタブロイド紙は強く握り締められ、大写しになった信彦の顔は次第にしわくちゃになっていった。

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