第2話 夢か現実か
六時間目の授業が終わり、残すところは帰りのホームルームだけとなった『2ーA』の教室内。
廊下側四列目の自席に突っ伏しながら、俺は腕の隙間から教室前方を窺っていた。
そこには、数人の女友達と談笑する彼女――白雪姫乃の姿がある。
肩に掛かる漆黒の髪に整った目鼻立ち。
身長は平均的なのに、ブレザーを押し上げる豊かな胸。
取り立てて大きな特徴はないのに、細部の一つ一つが完璧に整っている。
美少女というのは、案外そういうものなんだろうと彼女を見ていると思う。
おまけに人当たりもよく、誰にでも優しい。
保健委員というのは彼女にぴったりだと、たぶんクラスの誰もが感じていた。
(そんな白雪さんが俺の頭を……いや、やっぱり夢だよな)
友人と話しながら可憐に笑う白雪さんから目を逸らすように、俺は自分の腕に目を擦り付ける。
保健室で横になっていたら白雪さんに優しく頭を撫でられた。
こんなこと、もしクラスの誰かに話したなら、「お前の妄想だろ」と一蹴されるだろう。
自分でもわかっている。わかっているが……夢だったと割り切ろうとする度に、久しぶりにまともに眠ることのできたあの感覚が蘇ってしまう。
いつもは眠ろうとすればするほどに冴えていく意識。
それが自分でも気付かないうちにじんわりと内側から溶けて薄れていく、あの間際の時間。
そうして目を覚ましたときの、すっきりとした感覚が。
あれは、紛れもない本物だった。
不眠症になってから色々なことを試してきて、それでも眠れなかった俺がなんのきっかけもなく眠れるはずがないのだ。
(やっぱりあれは現実だったよな……)
そうして俺の思考がまた一周した頃、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
◆ ◆ ◆
帰りのホームルームが終わり、先生が教室から出て行く。
普段なら周りのクラスメートと同じように帰り支度を始めるところだが、今日はそういうわけにもいかない。
(確か今週は教室担当だよな)
教室後方。ロッカーの上の掲示スペースに貼られてある掃除当番割り当てを確認する。
真弓高校では、放課後に掃除の時間が設けられている。
40人クラスの『2ーA』では四人一組を十班に分け、各週二班ずつ、教室とトイレにそれぞれ割り当てられる。
俺は今週、教室の持ち回りだ。
続々と教室を出て行くクラスメートたち。
それを自席に座ったままぼんやりと眺める。
ある程度人が減らないと掃除できないからな。
白雪さんも、数人の友だちと共に教室を後にしていった。
やがて教室内の人影も減り、そろそろ掃除に取りかかろうと立ち上がったときだった。
班員が誰一人教室内に残っていないことに気が付く。
「まじかよ……」
呆然としている間も、一人、また一人と教室を出て行く。
いつの間にか俺だけになった教室内を見回して、ため息を一つ零した。
この学校はよくも悪くも放任主義的なところがある。
仕事や役割は割り振るが、教師たちがそれを直接監視することはない。
だからまあ、一人ぐらいサボりはするだろうと思っていたが……。
「まさか全滅とはな」
愚痴っていても仕方がないのでさっさと動くことにする。
椅子を机の上に一つずつ上げていき、教室前方へ詰めるように運ぶ。
そうして空いたスペースを箒で掃いていく。
幸い、俺はこういう単純作業が嫌いではない。
何も考えずにこなせる作業はむしろ好きだ。
どうせ眠れなくて起きているのなら、その時間を何か有効活用したいからな。
教室後方の掃き掃除を終えて、机たちを今度は後方へ運ぼうとしたときだった。
「神原くん……?」
声がした方を見ると、そこには彼女が――白雪さんが困惑した様子で立っていた。
彼女は真っ直ぐで綺麗な目で俺と俺が抱える机、それから教室内を順々に追い、ハッとした様子で駆け寄ってくる。
「もしかして一人? 他の人は?」
「あ~、みんな忘れてるみたいでさ。まあ俺は部活とかやってないから時間気にしなくていいし。それよりも白雪さんはどうして教室に?」
「私は忘れ物を取りに……って、それは今はどうでもよくてっ。今からでも他の人たちを呼び戻しに行こう!」
なぜか憤慨した様子の白雪さん。
俺はそんな彼女がおかしくて、つい笑ってしまった。
「私、なにかおかしなこと言った?」
「いや悪い、そういうわけじゃないんだ。まあなんだ、ほら、今から探し回るよりも一人で掃除を終わらせた方が早いし、それに一日ぐらい忘れることだってあるだろ? 明日からでいいって」
そう言いながら机を運ぶ俺を、白雪さんはじぃっとした眼差しで追ってくる。
「神原くんは本当に他の人が単に掃除当番を忘れただけだと思ってるの?」
思っていない。一ミリも。
ただ、班員を糾弾するよりも忘れていたことにした方が丸く収まる。
大した不利益を被っているわけでもないし、面倒ごとはごめんだからな。
「人間忘れ物の一つや二つあるって。白雪さんも忘れ物を取りに来たんだろ?」
「……その言い方は卑怯だよ」
白雪さんはむぅと頬を膨らませる。
卑怯な自覚はあったので、俺は何も返さずに黙々と作業を続ける。
そういえば、初めて白雪さんとまともに話したな。
表情がコロコロ変わるから、なんというか話しやすい。
ぼんやりとそんなことを考えていると、少し離れたところから机を動かす音がした。
音のした方を見ると白雪さんが鞄を置いて机を抱えていた。
「何してるんだ?」
「私も手伝う」
「いいって。班員じゃないんだし、こんなのすぐ終わるから」
「そういうわけにはいかないよ。一人で掃除をしているところを見て見ぬふりはできないし、何より体調が優れない神原くん一人にこんな重労働を押しつけるわけには」
「へ? いや俺、別に体調が悪いわけじゃないけど」
「ふぇ? だってお昼休み、保健室のベッドで寝てたよね?」
「……あ、やっぱりあれ夢じゃなかったんだな」
「あれってなんの話?」
「……いや、やっぱなし」
顔を逸らし、無理やり話を打ち切ろうとするが、時すでに遅し。
悲鳴のような声が静かな教室内に零れ出す。
「……ぁ、か、神原くん、もしかして、……あの時、起きて……たり?」
徐々にか細くなっていく白雪さんの声。
彼女に視線を戻すと、顔が真っ赤に茹で上がっていた。
口をぱくぱくとさせる白雪さんがなんだか居たたまれなくて、また俺はそっと顔を背けた。
……なんというか。
奇妙なすれ違いを経て、俺の中にあったもやもやは解消された。
やっぱりあの保健室での出来事は、俺の妄想でも夢でもなく、紛れもない現実だったのだ。
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