第21話 『人』という字は

 本来の予定では、白雪さんが泊まるのは土曜日だけのつもりだった。

 だが眠れなかった俺を気遣ってか、白雪さんはそのまま連泊し、日曜日もつきっきりで俺を寝かしつけようとしてくれた。


 その尽力も虚しく、結局俺は眠れなかった。


 翌日の月曜日も放課後に付き合おうとしてくれたが、俺はその申し出を断った。

 水曜日から始まる中間試験を名目に、眠れない分勉強するし、何より白雪さんの勉強の邪魔はできないと。


 それが単なる建前であることを、たぶん彼女は察していた。


 白雪さんの助けを借りても寝ることはできない。

 そんな確信が俺の中に芽生えていたのだ。


「そっか。じゃあ、試験明けにね」


 そう言って笑う彼女の笑顔はどこか儚く、苦しげで。


 彼女にそんな顔をさせている自分がなんだか情けなくなった。


 鬱屈とした気分のまま一週間が始まる。

 短縮授業の一日はあっという間に終わり、半日しかない試験期間は何をしていたのかほとんど記憶にない。

 ただ、こんな状態でも気持ち悪いほどに問題が解けたという手応えだけは残っていた。


 そうして試験最終日の金曜日を迎えた。

 その間、俺は白雪さんと会話はもちろん、ニャインのメッセージも送り合わないでいた。


 試験から解放されたことで弛緩した空気が流れるホームルーム後の教室。

 俺は何かから逃げるように教室を後にした。


 昇降口までの廊下を歩いていると、ポケットの中のスマホがぶるりと震える。

 通知欄に白雪さんからのニャインのメッセージが表示された。


『今日はどうしよっか?』


 試験という名目が終わったのだから、こういう連絡が来てもおかしくない。

 というか本来、助けてもらっている俺の方からするべきことではある。


「でもなぁ……」


 どうせ寝れないとわかっているのに、彼女に付き合ってもらっていいものか。

 メッセージを眺めてしばし考え込んでいると、不意にスマホを持つ手元に影が差した。


 顔を上げると、そこには見知った人物が立っていた。


「また病人みたいな顔してるけど、大丈夫なの?」


 風祭先生だ。

 白衣を翻して、赤縁眼鏡の奥にある瞳に心配の色を宿している。


「こんにちは。まあ試験が終わったばっかなんで、みんなこんな顔してるんじゃないですか?」


「今頃普通の生徒は幸せいっぱいって感じの顔してはしゃいでるわよ。成績の良し悪しはさておいて、ね」


 そう言うと、風祭先生は付いてこいと言わんばかりにあごをしゃくり、背を向けて歩き出した。

 俺は慌ててスマホを仕舞い、後に続く。


 慣れ親しんだ渡り廊下を抜け、北校舎一階の保健室へ。


 促されるまま保健室奥のソファに座ると、風祭先生はデスク後ろの冷蔵庫から取り出したお茶のペットボトルを差し出してきた。


「あ、ありがとうございます」


「それで? 最近は眠れてるの? 先週はあれだけ顔色良くなってたのに、すっかり元通りじゃないの」


「いやぁ……あはは……」


「昼休みの保健室利用を禁止してすぐにこれじゃあ、その判断を下したのは間違いだった気がしてくるわ」


「先生の判断は正しいと思いますよ」


「生徒にそんなことを言わせてる時点で先生としては失格なの」


 ため息交じりにローテーブルを挟んで対面のソファに腰を下ろした風祭先生は、彼女自身も持ってきたペットボトルを開けて一口。

 ほぅと一息つきながら、垂れ下がった髪をかき上げる。


「でもまあ、少し考えればこうなることはわかっていたことよね。保健室が使えなかったら、神原くんも白雪さんと一緒に寝れる場所がなくなるわけだし」


「いえ、それなんですけど……、その後、白雪さんには俺の家まで来てもらって……そのぉ」


「あら、あなたたちそういう関係だったの?」


「ち、違います! あくまで白雪さんの厚意に甘える形で……」


 白雪さんの気持ちを知った後だからか、否定の言葉に力がこもる。

 俺の反応が意外だったのか、風祭先生はソファの背に深く体を預けた。


「その辺りについては個人の問題だから深く訊かないけど……でも、それなら神原くんも眠れているはずじゃない?」


「……っ」


「それでも眠れていない、ということね。白雪さんに付き添ってもらっても」


「……はい」


 風祭先生にはお見通しらしい。

 俺は力なく頷いた。


「ということは、保健室のベッドでないと眠れないってことなの?」


「いえ、自分の家でも眠れはしたんです。したんですけど……、ある日を境にまた眠れなくなった」


「ある日?」


「いえ、それは……」


 俺だけの問題ではないので、流石に子細を話すつもりはない。

 かといってそこだけをぼかして伝える手段も持ち合わせていなかった。


「纏めると」


 すっかり口を閉ざした俺に変わるように、風祭先生が話す。


「保健室を追い出された後も白雪さんに個人的に助けてもらって寝ることはできていたけど、ここ数日はずっと眠れていない。……その理由はわからない、でいい?」


「そうです。なので、白雪さんにもしばらく頼んでいなくて……」


 俺がそこまで話すと、風祭先生は何やら考え始めた。

 いまさらだが、ここまで親身になってくれてありがたい。


「真面目な人ほど不眠症になりやすい、という話は知ってる?」


「一応、不眠症について調べた時にネットとかで目にしたことは」


 突然の話題に戸惑いながらも答える。


「真面目な人は色々と考えすぎちゃう。自分のことはもちろん、他人のことを。それがストレスになって、眠れなくなる――っていうのは、不眠症の典型的な発症例」


 色々と調べてくれたのか、風祭先生は滔々とうとうと語る。


「私はね、君にもそのきらいがあると思ってるわ」


「俺が?」


「そう。君も真面目すぎるのよ。……相手のことを考えて自分のしたいことを譲ったり、譲ろうとした経験は?」


「それは、誰でもあることだと思いますけど」


「そういう風に答えられるところが真面目なのよ」


 そう言って、風祭先生は薄く笑う。

「美点だけれど、生物としては短所かもしれない」と付け加えながら。


「私が思うに、白雪さんの助けを借りてもなお眠れなくなる前後で、あなたの中で彼女に対する向き合い方が変わったんじゃないかしら。心当たりはない?」


 ない、とは言えない。

 むしろありまくりだ。


 俺の反応に我が意を得たり、とばかりに風祭先生は前のめりになる。

 そうして顔の前で左右の人差し指を付き合わせた。


「いい? 人という字は人と人とが支え合って――」


「先生、それ古いです」


「うるさいわね。教師ならみんな一度は言ってみたいの」


 おどけた調子でそう言うが、たぶん空気をほぐそうとしてくれているんだろうな。


「さっき私は神原くんに訊いたわよね。『あなたたちそういう関係なの?』って。異性のクラスメートに自宅のベッドで頭を撫でてもらうことが、いわゆる普通でないことはわかるわよね」


「それはまあ、普通ではない、ですよね」


「でも、あるいは恋人なら。どう?」


「……スキンシップの一環として、あり得る話です」


「そういうことよ」


 どういうことなんだろう。

 いまいち理解できなくて眉を寄せてしまう。


 風祭先生は「つまりね」と、指で作った人の字をさらに突き出しながら続けた。


「人は誰しも支え合って生きている。でも、支え合っている以上、人は何らかの関係で結ばれる。家族、恋人、友だち、仲間。そういった関係に適した距離感や支え方があるって話」


「俺と白雪さんがそうではないってことですか?」


「少なくとも今は、ね。以前まで二人で保健室に来ていた時は、支え合ってはいなかった。神原くんが一方的にもたれかかる形。そしてそれを、神原くんはよしとしていた。真面目な神原くんが」


 ……この人は、よく見ている。

 確かにあのときの俺は、白雪さんの優しさと厚意に甘えて、自分の欲望を満たすことを選んでいた。

 彼女と、彼女のご両親に押される形で。


「でもその形が何らかの理由で崩れて、神原くんは真面目に距離感を探ってしまっている。その結果眠れなくなった――ていうのが、私が立てられる精一杯の仮説なんだけど、どう思う?」


「……わかりません。でも、そんな気もします」


 正直なところ、何が原因なのかはわからない。

 それがわかるなら、俺はさっさと不眠症を治しているだろう。


 それでも白雪さんとの関係性について、その一点については正しいような気がした。


「色々と難しいことを言ったけどね。結局のところ、神原くんは白雪さんとどういう関係なのか。それがわかれば自然と支え合う方法も見つかると思うわ」


 元気づけるためなのか、風祭先生はさらりと言う。

 だがその言葉の一つ一つが俺の心に深く沁みていった。


(白雪さんとどういう関係なのか……)


 それは奇しくも、以前に早乙女さんから訊ねられたことだ。

 あのときは曖昧な答えしか出せなかったけど。


 喉に突っかかっていた何かがとれるような感覚だ。


「ありがとうございます、先生」


 俺は気が付くと風祭先生に頭を下げていた。

 そうして渡されたペットボトルをようやく開けたのだった。

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